マグダラのマリヤへの顕現
No.25. マグダラのマリヤへの顕現
【聖書箇所】マルコ16: 9~11、ヨハネ20:11~18
1. マグダラのマリヤに特別な関心を払っているヨハネ
- 聖書にはマリヤと言う名前の者が5人ほどいます。イエスの母マリヤ、ベタニヤのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、ヨセの母マリヤ、そしてマグダラのマリヤです。マリヤはヘブル語では「ミリアム」、ギリシヤ語では「マリアム」と発音されますし、日本語では「マリヤ」とも「マリア」とも表記されます。
- さて、ヨハネの福音書にはマグダラのマリヤと主イエスとの「会話」が記されています。これはヨハネの福音書特有のもので、これは共観福音書の記者たちには霊感されなかった(示されなかった)ようです。ヨハネは、このマグダラのマリヤに対して特別な関心を払っています。それは、復活されたイエスが最初にご自身を現わされたのは、なんとこのマグダラのマリヤだとしているからです。
- マグダラのマリヤについて、四福音書がはっきりと語っているのは次の事です。彼女はー
①七つの悪霊に憑かれた病をイエスによって癒された者であること。
②十字架に磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬-といっても仮の埋葬ですーを見届けたこと。
③イエスの墓に行った女性たちの一人であること。
- イエスの墓に行ったのは、マグダラのマリヤだけでなく、数人の女性であったにもかかわらず、ヨハネは、墓に行ったのは彼女ひとりであるかのように記しています。しかも彼女がなぜそこへやってきたのか、その目的さえも記していません。そこが大切なポイントです。ヨハネの福音書以外の福音書では、墓の前でだれひとり復活されたイエスと個人的に会話した者がいたとは記されていませんが、ヨハネだけが、キリストの墓に来た最初の者をマグダラのマリヤとし、復活されたイエスを最初に見、かつ会話をしたこと、そしてその内容まで記しているのです。ヨハネが意図的にこのマグダラのマリヤに特別な位置付けをしているのは明らかです。
2. 「なぜ、泣いているのか」という問い
- 「マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。」(ヨハネ20:11)とヨハネは記しています。「泣く」ということばは、「泣き叫ぶ」に近い言葉です。「泣き叫んでいた」というイメージです。その彼女が「なぜ、泣いているのか(泣き叫んでいるのか)」と二度も聞かれています。
- 彼女にとって、泣き叫ぶ理由がありました。それほどに彼女にとってイエスは親しい近い存在だったからです。彼女はイエスのことを「私の主」とか、「あの方を・・私が引き取ります」と言っています。自分にとって余程親しいかかわりがなければこのように言ったり、また泣き叫んだりしたりしないはずです。それほどに彼女にとって慕わしい、近しかった方でした。その方が亡くなっただけでなく、その亡骸が無くなってしまったということは、より悲しみを増加させたに違いありません。
- しかしそんな彼女の気持ちも知らずに、「なぜ泣いているのか」と彼女は二度も問いかけられています。不思議です。普通ならば、気持ちがわかってもらえないことに怒りも加わって、より激しく泣き叫んでしまうところです。「なぜ泣いているのか」。つまり、彼女は、実際、泣く必要がないのに泣いていたのである。これは私たちもしばしば経験する神の不在経験ではないでしょうか。詩篇でも、神がなにか遠くにおられるような感じがして、「なぜ」「どうして」「いつまで」ですかと神に問いかけます。その問いに対して神はしはしば沈黙しておられます。それこそ「なぜ」です。この沈黙はいったいなぜ!!―それは神がいつも私たちの近くにおられることを気付かせるための沈黙なのです。
- 「なぜ泣いているのか」という神からの問いかけも、実は、私たちが泣く必要がないことを気付かせるための問いかけです。彼女に対するイエスの顕現は、まさにそのことを気づかせるためだったのです。
3. すがりつくマリヤをたしなめるイエス
- イエスは、彼女が「ラボニ(先生)」と言ってすがりつくのをたしなめられました。マタイ28:9によれば、復活されたイスがマグダラのマリヤと他のマリヤたちに現われた時、「彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ」とはっきり記されています。なぜ、ヨハネでは「すがりついてはいけません」と言うのでしょうか。他の福音書が記すように、マグダラのマリヤはイエスにすでにすがりついているのです。しがみついているのです。新改訳では、ヨハネ福音書のこの箇所17節を「すがりついてはいけません」ではなく、「すがりついていてはいけません」と訳しています。彼女に対してイエスがそのように言われたのは、「わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」(20:17)というのがその理由です。それはいったいどういう意味なのでしょうか。
4. マグダラのマリヤに示されたきわめて「重要な事柄」
- イエスが彼女に「すがりついていてはいけません」とたしなめられたのは、それまでは目にする距離で、イエスを個人的に親しく感じていた彼女に、それまでとは違った新しい主とのかかわりー新たなすがりつきーを示そうとされたからだと思います。
- 17節に「わたしの父はあなたがたの父」、「わたしの神はあなたがたの神」という表現があります。これは御父と御子という永遠のゆるぎないかかわりの中に、「あなたがたを招いて養子縁組する」という意味です。御父と御子の永遠のかかわりの中にあなたがたを招くということです。このことを伝えるべくマグダラのマリヤにイエスは託したのではないかと思います。
- イエスは彼女に対して本当の意味の「すがりつき」を教えようとしているのです。なぜなら、これがヨハネのいう救いであり、「永遠のいのち」だからです。
- ルツ記の1章で、異邦人であるモアブの女性ルツが、姑のナオミーユダの女性―についてイスラエルに来るという話があります。姑のナオミはなんども自分の実家に帰るように勧めるのですが、ルツはナオミにしがみついて離れようとしませんでした。ルツはナオミの兄息子の嫁です。弟息子の嫁オルパの方は、「帰りなさい」という勧めで自分の実家に帰ってしまう。ところがルツは違いました。ルツはナオミにこう言います。「あなたを捨て、あなたから離れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」そのように言って、ルツはナオミについて来てしまうのです。は・・・やがてダビデやイエス・キリストの系譜へとつながって行きます。異邦人であつたルツがナオミにすがることによって、イエス・キリストにつながる系図の中に組み込まれていくのです。
- ヨハネの「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る」という使信もそれと似ています。それは、御父と御子という永遠のゆるぎないかかわりの中に、あなたがたを招くというメッセージを、「わたしの兄弟」の所に行って告げるように、イエスは彼女に言いました。「わたしの弟子」ではなく、それよりも親しい関係を現わす「わたしの兄弟たち」に―イエスはこの表現をここで初めて使っている点で意味の深いことばですー伝えるべく最初に託されたのがマグダラのマリヤというわけです。これは簡単なことではありません。ただ告げればおしまいということではなく、このかかわりの中に「マリヤよ、あなたも生きて行きなさい」という招きです。しかもそれは私たちが一生涯かけて取り組むべき課題なのです。
- イエスの復活後の40日間に及ぶ多くの顕現は、そのことを弟子たちに伝えるためのものであるような気がします。