主との親しい交わりを実現するLife-style<2>
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A-10 主との親しい交わりを実現するLife Style <2>
(2) 神の前に沈黙すること(静まること)
- 全能の主との親しい交わりは訓練を必要とする。その第一は生活をシンプルにすることであった。次に必要な訓練は、沈黙して神の語りかけを聞くことである。もちろん、祈りは神との対話であるゆえに、こちらから語りかけ、願ってよい。けれども、こちらの願いに対して神が何とお答えになるか、神が自分に何をお求めになるか、心の耳を澄ましてよく聞き取る必要がある。そうでなければ、祈りはこちらからの一方通行の語りかけとなり、結局は自己中心な祈りとなってしまう。
- 詩篇62篇1節
「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」
Truly my soul silently waits for God.
- 静まりの時をじっくり持たないでは、神とより深く、またより親しく交わることは決してできない。この静まりの時は最も稀な経験と言える「完全沈黙の時」も含まれる。
詩篇46篇10節 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」
Be still, and know that I am God;(NKJV)
(still・・とどまって、だまったままで、しんとして)
"Stop fighting," he says, "and know that I am God, (TEV)
抵抗をやめて
- ここで私たちが命じられているのは、直訳すれば「止まること」である。それは休むこと(“セラ”すること) (注)、リラックスすること、手放すこと、そして神のために時間をとるということである。じっとして静まり、神の御前に耳を澄まし、待ち望むことである。忙しい生活となんと無縁な経験であろうか。しかし神を深く親しく知るためにはこの訓練が必要である。もし霊的生活に深みが増すことを望むならば、沈黙は不可欠なのである。
- ある人は、沈黙は「私たちのたましいのうちにある火を守ること」だと言っている。沈黙は、私たちの魂の刃を研ぎ澄ませ、天の父なる神から送られるかすかな合図に対して敏感にしてくれる。ややもすると、私たちは、騒音やことば、また、気が変になりそうな超過密スケジュールなどによって感覚が鈍り、神のかすかな細い声が聞こえなくなり、神の触れてくださる御手に対しても無感覚になってしまうからである。ゆっくりとした時間を沈黙のうちに過ごすことは、霊的なことにより敏感になり、共にいてくださる神とその恵みをより深く覚えるという経験をすることができる。一言で言うなら、沈黙は霊的な「深まり」の経験である。
- 沈黙について、マザー・テレサは次のように語っている。
「私たちは神を見いだす必要があります。神を騒がしく落ち着きのないところで見いだすことはできません。神は静けさの友なのです。自然をご覧なさい。木や花、そして草は静かに成長していきます。星や月や太陽をご覧なさい。なんと静かに動いているのでしょう。沈黙の祈りのうちに、多くを受ければ受けるほど、私たちの活動においてもっと多くを与えることができるのです。」
- 確かに、現代のようなインスタント化の時代における私たちは、黙って待つことは苦手である。しかし沈黙の中で心を静めることは極めて重要なのである。聖書には「すべての肉なる者よ、主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。」(ゼカリヤ2章13節)とある。黙ること、沈黙することは何もしないことではない。それは普段の生活の中で聞き取りにくくなっている神の声をしっかりと受けとめる時なのである。
- しばらく沈黙の時を持って、今日、あなたに向けられた神の語りかけを心に刻み込んでみよう。
(注)
詩篇の中にしばしば「セラ」という小さな語が見られる。39の詩篇に71回でてくる。「セラ」ということばは、音楽の記号の一つで、「休め」とか「ちょっと休止せよ」という意味である。「セラ」は音楽の一部である。私たちは「音」だけが音楽だと思うかも知れないが、しばしば「休み」は「音」と同じくらいに効果的なのである。この小さい歌の記号である「セラ」から、私たちの信仰生活について大きな益が与えられる。
- この「セラ」は換言するならば、『隠遁への召命』(身を隠すこと)といえる。ドイツのマリア姉妹会を立ち上げたバジリア・シュリンク女史は、預言者エリヤがアハブ王に神のことばを進言してから3年余の間、身を隠すように主が命じたように、彼女が聖堂の建設を終えた後、主は彼女を隠遁、孤独の中へと導かれた。彼女は典型的に社交的な、活動的な人物であったが、神は彼女を隠遁へと導かれた。はじめ彼女はその意味を悟ることができなかったが、やがてその隠遁生活から、現代における預言的な著作が数多く生み出された。隠遁生活とは主の前にひとりになることであり、それはイエスにとどまり完全にゆだることである。イエスと共にそれまで以上に多くの時間を過ごすことである。それを主ご自身が望まれたのである。」(バシレア・シュリンクの70年の歩みをしるした霊的自叙伝『キリストの花嫁』、マリア福音姉妹会出版)参照。
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