主を恐れることは知恵の初め
箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。
聖書を横に読むの目次
21. 主を恐れることは知恵の初め
【聖書箇所】9章7〜13節
ベレーシート
- 今回の瞑想の聖句を9章10節とします。それは10節が9章全体の中心的メッセージだからです。10節は二つの行からなる同義的パラレリズムになっていますが、それだけでなく、ヘブル詩におけるもう一つの修辞法である、シンメトリックな構造をもつ「交差配列法」の中心部分なのです。
A. 知恵の招き(1〜6節)
B. 賢い者とあざける者(7〜9節)
C.主を恐れること(10節)
B'. 賢い者とあざける者(11〜12節)
A'. 愚かな女の招き(13〜18節)
- 「交差配列法」のことを「キアスマス」と言います。「キアスマス」はギリシア語でX形に交差した二本の線を意味し、初めと終わりが対称的に配置され、その中心の位置にある部分に最も重要なメッセージ(あるいは概念)が置かれているとされています。イェシュアが語られたことばの中にもこの修辞法が多く見られますが、その修辞法は旧約聖書において多く見られるのです。
1. 二者の呼びかけ
- 二者の呼びかけとは、「知恵(の女)」と「愚かな女」の呼びかけです。最初の部分は全く同じことばです。
「知恵」の呼びかけ
【新改訳改訂第3版】箴言9章4〜6節
4 「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。また、思慮に欠けた者に言う。
5 「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、
6 わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」と。
「愚かな女」の呼びかけ
【新改訳改訂第3版】箴言9章16〜17節
16 「わきまえのない者はだれでもここに来なさい」と。また思慮に欠けた者に向かって、彼女は言う。
17 「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。
- 共通の部分とそうでない部分とがあります。二者が呼びかけている対象は同じく「わきまえのない者」であり、「思慮に欠けた者」です。いずれも形容詞・単数で共通しています。「わきまえのない者」と訳された「ぺティ」(פֶּתִי)は「浅はかな者、無知な者」とも訳されます。聖書では19回、そのうちの15回が箴言で使われています。
- 一方の「思慮に欠けた者」と訳された原語は「ハサル・レーヴ」(חֲסַר־לֵב)で「心の欠けている者」です。ヘブル語の「心」は知性を意味します。つまり、人の考え(意志)がその人の思いや行動を支配するのです。たとえ人が思慮に欠け、意志が弱かったとしても、知恵も愚かな女も「知性」に訴えるのはそうした理由からです。
- 最初の招きのことばが同じでも、招かれて口にするものが異なるのです。そしてその結果は「いのち」か「死」です。それゆえ二者択一が迫られるのです。知恵の具現者であるイェシュアが私たちを招く時にも同様です。
【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 7章13〜14節
13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
●この部分を言い換えて整理すると、正反対のことが語られています。それは聞く者に二者択一を迫っているのです。
(1) いのちに至る門は小さく、その道は狭い。それを見いだす者はまれである。
(2) 滅びに至る門は大きく、その道は広い。そしてそこから入って行く者が多い。
3. 二者択一の基点
- そこで重要になって来るのが、二者択一の基点です。箴言9章では交差配列法によってその基点が「主を恐れること」であるとしています。
【新改訳改訂第3版】箴言9章10節
【主】を恐れることは知恵の初め、
聖なる方を知ることは悟りである。【新改訳改訂第3版】詩篇111篇10節
【主】を恐れることは、知恵の初め。
これを行う人はみな、良い明察を得る。
主の誉れは永遠に堅く立つ。
●箴言にも詩篇にも、「【主】を恐れることは、知恵の初め。」というフレーズがあります(ちなみに、以下のように四つの語彙はすべて名詞)。
(1) 詩篇111篇10節
「レーシート・ホフマー・イルアット・アドナイ」
רֵאשִׁית חָכְמָה יִרְאַת יהוה(2) 箴言9章10節
「テヒーラーット・ホフマー・イルアット・アドナイ」
תְּחִילָּת חָכְמָה יִרְאַת יהוה
●上記に見るように、原語が異なっています。箴言の方の「知恵の初め」の「初め」は「テヒーラーット」(תְּחִילָּת)、詩篇の方の「初め」は「レーシート」(רֵאשִׁית)です。どのように異なっているのでしょうか。「レーシート」(רֵאשִׁית)は物事の土台、事柄としての初めという意味です。それに対して「テヒーラーット」(תְּחִילָּת)は、時間的な意味の最初、出発点としての初めです。
●「テヒーラーット」(תְּחִילָּת)の初出箇所は創世記13章3節です。アブラムは主の召しに従ってカナンの地に行きましたが、飢饉のためにエジプトに逃れました。妻のサライがエジプトの王に気に入られ召し抱えられました。その結果、アブラムが主の召しを全うできなくなったとき、主が介入されたことでアブラムはエジプトを出ることができました。彼はカナンで最初に祭壇を築いた場所にまで戻って再スタートしたのですが、その「最初」が「テヒーラーット」(תְּחִילָּת)です。
- 「レーシート」にしても、「テヒーラーット」にしても、すべての初めは「主を恐れる」ことです。「主を恐れる」とは、箴言9章10節にあるように「聖なる方を知ること」です。「聖」(「コーデシュ」קֹדֶשׁ)とは、私たちが見たり、聞いたり、経験したことに頼らず、常識を超えた方を計算に入れることを意味します。非合理な、区別されたものが「コーデシュ」の原意です。このことを受け入れる心が二者択一する起点となります。もし聖なる方を計算に入れることをしないならば、二者択一を迫られることはありません。おのずと「愚かな女」の招きに聞き従うことでしょう。ただし、その者は自ら「その責任を負うことになる」(9:12)のです。
2015.12.5
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