****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

十二使徒派遣に見るイェシュアの宣教戦略(5)

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43. 十二使徒の派遣に見るイェシュアの宣教戦略(5)

【聖書箇所】マタイの福音書10章40~42節

ベレーシート 

  • マタイの福音書10章に記されているマタイの「第二の説教」から、「天の御国」のためのイェシュアの宣教戦略について学んで来ました。

●マタイの福音書10章に記されているマタイの「第二の説教」の最後の説教です。から、「天の御国」のための宣教戦略についてのメッセージを学んで来ました。イェシュアの宣教戦略とは、これまでその働きに従事する者に、以下の事柄が教えられました。
(1) 「全イスラエルの回復」(神がイスラエルに対して約束されたことの実現)という神のご計画
(2) 「蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ」という信仰的な理念。
「蛇のようにさとく」とは神のご計画における究極的な神のさばきと救いを知ることの「賢さ」。
「鳩のように素直であれ」とは神のご計画の完成で与えられる祝福の総称である平和の約束を信じる「素直さ」。
(3) 「人を恐れないで、むしろ神を恐れよ」という人間の存在の根底にある「恐れ」に対する信仰的姿勢。
(4) 「死んで生きる」という逆説的な生き方。

  • 今回の40~42節はイェシュアの宣教戦略の最後の部分です。この部分の特徴はこれまでとは違って、イェシュアの使徒たち(弟子たち)に対する教えではなく、使徒たちの宣教を受ける人々に対するものです。瞑想の着眼点の訓練として、強調点はどの節にあるのか、まずはテキストを読んで各自考えてみてください。

【新改訳2017】マタイの福音書10章40~42節
40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。
41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。
42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。


1. 使徒たちの宣教を受け入れる人々  

  • 40~42節で「あなたがた」とは「使徒たち」のことであり、「わたし」とはイェシュア、「わたしを遣わした方」とは御父のことです。権威の順からすると、御父から遣わされたイェシュアイェシュアから遣わされた使徒たちがいます。その使徒たちから教えられた者によって宣教のメッセージは拡大して行くのです。反対に、使徒たちを受け入れる人は、使徒たちを遣わしたイェシュアを受け入れ、イェシュアを受け入れる人はイェシュアを遣わした御父を受け入れることになるのです。
  • この部分において顕著な語彙は「受け入れる」という動詞です。それが6回も使われています。ということは、それが重要な語彙だということです。「受け入れる」ためには、権威を与えられて「遣わされる」存在がいるのです。「遣わされる」とは、全権を委任され、代理者として派遣される場合にのみ使われます。語彙としては今回1回限りですが、「遣わされた使者は、それを派遣した者と等しい」のです。これはユダヤにおいては周知のことでした。特に、ヨハネの福音書ではこの一体性が強調されています。つまり、(1) 御父は御子の中に、(2) 御父と御子は使徒たちの中に、そして(3) 使徒たちはイスラエルの民、および異邦人の中に息づくのです。ところが、このことは決してやさしいことではありません。
  • 伝言ゲームというのがあります。そのゲームの面白さは、最初に聞いた伝言をいかにして正確に伝えるかということに尽きます。ところが最初の伝言を聞いた人たちによって、なぜか、少しずつ変えられていくのです。もし、伝え聞いた内容を意図的に少し変えて伝えるとするならば、どういう結果が待っているでしょうか。最初の伝言とは全く異なってしまうことがあり得るのです。伝言ゲームの場合は、伝えるべき言葉だけが問題ですが、今回の場合、単なる言葉の問題だけではなく、神がイスラエルを通して啓示してきた事柄や概念を含んだ内容の伝達が宣教戦略のテーマとなっているのです。

(1) 御父は御子の中に 

【新改訳2017】ヨハネの福音書14章7~11節
7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

  • イェシュアのすべての言動は、イェシュア自身のものではなく、御父から出たものです。イェシュアは御父が語ることを語り、御父がなそうとすることをなしたのです。そのことを信じなさいとイェシュアは語っています。

(2) 御父と御子は彼ら(使徒たち)の中に

【新改訳2017】ヨハネの福音書17章21~23節
21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。

  • ここで「彼ら」とは、一義的には「使徒たち」のことです。「彼ら」が一つになることで、世が正しく神の使信を知り、信じることができるのです。

(3)「受け入れる」というヘブル語の「カーヴァル」

  • 受け入れる者」(「ホ・デコメノス」Ὁ δεχόμενος)とは、「受け入れる」というギリシア語の「デコマイ」(δέχομαι)の分詞に冠詞がついたものです。ヘブル語訳も同様に「カーヴァル」(קָבַל)の分詞「メカベール」(מְקַבֵּל)に冠詞がついて「ハメカベール」(הַמְקַבֵּל)となっています。この「カーヴァル」(קָבַל)の初出箇所は出エジプト記26章5節ですが、そこには幕屋を覆う幕(女性形)が、互いに「対応するように向かい合わせて」作ることを示唆しています。これは「ユダヤ人」と「異邦人」が互いに結び合うようにして神の住まいが造られるという「教会」の預言的な啓示なのです。
幕1.JPG

【新改訳2017】出エジプト記26章1~6節
1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。
2 幕の長さはそれぞれ二十八キュビト、幕の幅はそれぞれ四キュビトで、幕はみな同じ寸法とする。
3 五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、もう五枚の幕も互いにつなぎ合わせる。
4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に、青いひもの輪を付ける。もう一つのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにする。
5 その一枚の幕に五十個の輪を付け、もう一つのつなぎ合わせた幕の端にも五十個の輪を付け、その輪を互いに向かい合わせにする
6 金の留め金を五十個作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせ、こうして一つの幕屋にする。

ケルビムが織り出された幕.JPG
  • この幕は内側の「聖なる幕」であり、神の御住まいを表わす「ミシュカーン」(מִשְׁכָּן)と呼ばれる幕です。この幕は他の幕にはない特徴があります。その特徴とは、巧みな細工によって「ケルビム」が織り出されていることです。わざわざ「意匠を凝らして」とあるのは、この「ケルビム」が幕の表にも裏にも両面に織り出されているからと思われます。この「ケルビム」は聖所と至聖所との間にある「垂れ幕」にも同じように織り出されています。したがって、聖所に入る者だけが、この「ケルビム」の模様を天井と西側の至聖所の垂れ幕に見ることができたのです。
内部の幕の50の金の輪.JPG
  • 内側の5枚ずつでできた「二枚の幕」はいずれも「互いにつなぎ合わせ」て作るよう、神は指示しています。なぜ、そんな手間をかけるように指示したのでしょうか。つなぎ合わせるためには50個の金の留め金を造り、それを通すための穴を開けなければなりません。これは大変な作業です。しかし、それをあえてさせたことに意味があるのです。幕と幕をつなぎ合わせて一枚にするための「青いひもの輪」を「互いに向かい合わせにする」のです。この「向かい合わせにする」に使われているのが「カーヴァル」(קָבַל)」という語彙なのです。
  • 「金の留め金」と「青いひもの輪」があります。なぜ金と青色なのでしょうか。幕屋のすべての部分には神の隠された意図があります。金はキリストの神性と力を象徴し、青も神を表わす色です。つまり幕と幕をつなぎ合わせて一枚の幕にするのは神にしかできないことを啓示しているのです。
  • 二枚の幕を結びつけるのはキリストと御霊によってのみ可能であることが啓示されているのです。使徒パウロが「キリストにあって」、「御霊によって」と記しているとおりです。結び合わされた二枚の幕は「ユダヤ人」と「異邦人」を意味しているのですが、これを結び合わせるのは、人間的な努力では不可能であることを「金の留め金」と「青いひもの輪」が象徴しているのです。
  • また幕をつなぎ合わせる 50 個の「金の留め金」。なぜ 50 個なのでしょうか。その数にも神のみこころが示されています。つまりその数は「五旬節」(五十日目)の祭りと密接なつながりがあります。それはやがて主の例祭である「五旬節」(ペンテコステ)に聖霊が注がれることを預言的に啓示しているのです。しかもこの五旬節には、人々がそれぞれ主への初穂として「二個のパン」を奉納物としてささげなければなりませんでした。なぜ「二個のパン」なのか。この啓示もユダヤ人と異邦人からなる教会を暗示させるものです。
  • 幕を互いに結び合わせるために、それぞれの幕に五十個の輪を付け、その輪を互いに「向かい合わせにする」こと、主の例祭である「五旬節」に各自「二個のパン」を奉納することの中に、すでに神のご計画が啓示されていたのです。使徒パウロはこの啓示を悟り、エペソ人への手紙の中で「キリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現した」(2:15)ことを述べています。「この二つ」とは「ユダヤ人と異邦人のこと」であり、使徒パウロは「教会」を「新しい一人の人」という概念でこのことを伝えています。「へブル人の中のへブル人」と自己紹介した使徒パウロは、異邦人であるエペソの教会の人々にユダヤ的ルーツから「教会」とは何であるかを説明しているのです。

【新改訳2017】エペソ人への手紙 2章22節
あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

  • 「あなたがた」とは「異邦人クリスチャン」のことです。そして、「あなたがた」に対応しているのは「私たち」です。すなわち「ユダヤ人」なのです。この二つがともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなることが文脈の中で明確に語られているのです。しかもこのことを異邦人クリスチャンに教えているのが使徒パウロなのです。「ともに築き上げられ」というのは、「クリスチャン同志がともに」という意味ではないのです。教会に属する者たち(イェシュアを信じるユダヤ人とイェシュアを信じる異邦人)は、次のことを悟らなければなりません。教会は、「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」(エペソ2:20)。教会は使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられているということを軽く考えてはなりません。この言葉が意味するのは、教会はユダヤ的ルーツの上に建てられているという事実なのです。
  • 今回のマタイ10章の中で「あなたがた」と言われる対象は「使徒たち」のことです。使徒たちは神に選ばれたユダヤ人だということです。彼らはユダヤ的ルーツを持った人々だということです。イェシュア自身もユダヤ人なのです。彼らを「受け入れる者」とは、彼らのユダヤ性を受け入れることを意味します。イェシュアも使徒たちも、ユダヤ性を抜きにしたコスミック(the cosmic)的な存在ではないということです。
  • 私たち日本人の中には、そのことを意識せずにいるクリスチャンが多いのではないでしょうか。新約聖書の多くはユダヤ人が書いたものであり、ルカの福音書と使徒の働きを書いた異邦人のルカは、「ヘブル人の中のヘブル人」と称する使徒パウロの影響をもろに受けた弟子です。なぜこのようなことを言わなければならないかといいますと、教会の歴史において、あるときからユダヤ性が意図的に排斥された出来事があったからです。今日の私たちが「教会」と考えてきているものが、教会本来のものではないものによって、変えられてしまっているのです。
  • 神がアブラハムを召し出されたときに言われたことばを忘れてはなりません。

【新改訳2017】創世記12章1~3節
1 【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

  • 特に、「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」ということが重要なのです。アブラハムはすべてのユダヤ人の父となった人です。イェシュアもアブラハムの子です。イェシュアによって選ばれた使徒たちもすべてユダヤ人です。初代教会はユダヤ人からなっていました。その後次第に、ユダヤ人がイェシュアを受け入れなかったことから宣教の矛先は異邦人に向けられています。そのための使徒として選ばれたのがパウロでした。パウロという名前はギリシア名で、本当のヘブル名は「サウロ」(神を尋ね求める意味を持つ「シャーウール」שָׁאוּל)です。多くの書簡を書いたパウロはまさにユダヤ的ルーツを豊かに持っていた使徒だったのです。今日の動向として、ユダヤ的ルーツをもって聖書を解釈しようとする人たちが、少しずつですが増えつつあります。しかし4世紀以降、ユダヤ的ルーツを断ち切ってキリスト教という一つの政治的システムが構築されてしまったために、教会がそこに立ち戻ることは決して容易ではありません。

2. 預言者を預言者だということで受け入れるということ

41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます
また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます

  • 41節は明らかに「同義的パラレリズム」となっています。「預言者」と「義人」が入れ替わっただけの文章になっています。「預言者」と「義人」の組み合わせは、マタイの他の箇所にもあります(13:17,23:29)。そのことからすると、旧約時代の「神の人」、あるいは「神が聖別された人」と考えることができます。つまり、「預言者を預言者だからということで受け入れる」、あるいは「義人を義人だからということで受け入れる」とは、「神の人」、「神が聖別された人」を受け入れることを意味しているのです。このことをⅠ列王記17章13節以降の箇所から学びたいと思います。それは、預言者エリヤがツァレファテに住む一人のやもめのところに遣わされた話です。ツァレファテのある地域一帯は飢饉に見舞われており、そこに住むひとりのやもめが、最後の食事を自分と息子のために用意し、あとは餓死するのを待つだけでした。そのような悲劇的な状況の中で、エリヤは信じられないようなことを要求したのです。

【新改訳2017】Ⅰ列王記17章13~17節
13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
14 イスラエルの神、【主】が、こう言われるからです。『【主】が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」
15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。

  • 信じられないような要求というのは、エリヤが飢えているやもめのところへ行って、彼女や息子よりも、まず自分に食べさせるように命じたことです。このことは、やもめが主から遣わされた預言者を尊ぶなら、神の祝福に対して扉を開くことになることを知っていたからです。イェシュアはこうした神の事柄をふまえながら、「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。」(マタイ10:41)と約束されたのです。主から遣わされた預言者である「神の人」を尊ぶことを選ぶとき、神の超自然的な供給(祝福)を受けたのです。17~24節の中でこのやもめの息子が病気になりますが、彼女がエリヤのことを二度も「神の人」と呼んでいることからも分かります(18、24節)。その結果は以下の通りです。
    「その女はエリヤに言った。『今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある【主】のことばが真実であることを知りました。』」
  • 預言者はエリヤだけではありません。モーセも預言者です。ですからモーセの書いたモーセ五書は尊ばれなければなりません。

3.「小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる」行為とは

42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。

  • 実は、今回のテキスト(40~42節)の中で最も重要な箇所は42節のことばなのです。「わたしの弟子」とはイェシュアの弟子(「タルミード」תַּלְמִיד)のことです。その弟子のことを「小さな者」と呼んでいます。イェシュアは「ラビ」(רַבִּי)。すなわち「私の大いなる者、私の先生」と呼ばれる教師です。その弟子たちが「小さい者たち」(「ハッケタニーム」הַקְּטַנִּים)と呼ばれるのは理にかなっています。しかしその「小さい者たちの一人」に、「一杯の冷たい水」を飲ませる人は、決して自分の報いを失うことがないことをイェシュアは約束されました。
  • さて、「一杯の冷たい水を飲ませる」とはどのように解釈されるべきでしょうか。もし文字通りに解釈するならば、空気が乾燥しているパレスチナ地方では喉をカラカラにしている弟子の一人に水一杯を差し出すことは人間としての当然の義務であって、特別にほめられることではないにもかかわらず、神はその者の行為に報いてくださるという意味になります。一方で、「水一杯を飲ませる」ことを比喩的に解釈して、「福音を宣教する弟子を家に招き入れて、その人の生活を支え、その働きに協力すること」だと理解することも可能です。しかし私はそれ以上のことを意味すると考えます。つまり「一杯の冷たい水でも飲ませる」行為とは、神から遣わされた者をあるがままに、しかも大切に「受け入れる」ことを意味すると思うのです。それは今日のキリスト教会に当てはめるなら、福音のユダヤ性の回復、ユダヤ的ルーツの回復を意味しないでしょうか。本来、イェシュアが伝えようとした「御国の福音」そのものがユダヤ的概念をもったものなのです。
  • キリスト教の歴史の中でこのユダヤ性を断ち切るという出来事が起こりました。使徒パウロが異邦人教会であるローマの教会への手紙の中で、「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」と警告していましたが、実際にそれが起こってしまったのです。それはローマ帝国がキリスト教を国教としてしまったことによって起こりました。つまり皇帝コンスタンティヌス帝によって、ユダヤ的ルーツが完全に断ち切られてしまったのです。このことはキリスト教会に計り知れないほどの影響をもたらしました。このことについては多くの学びを必要としますし、今後もお話ししていくつもりですが、今回はその一つとして、イェシュアが教えようとしていた事柄が完全に的を外して解釈されている例を紹介したいと思います。
  • 「五千人の給食」の奇蹟の話があります。イェシュアが「五つのパンと二匹の魚」を用いて群衆を養ったという話です。しかも余ったパンくずを集めると十二のかごがいっぱいになったという話です。そこに出て来る「五つのパンと二匹の魚」をユダヤ的ルーツを外して、文字通りそのまま理解して解釈すると、「どんなわずかなものでも、どんなに小さなものであっても、それを主に捧げて行くならば、主がそれを祝福して用いてくださり、有り余るほどの恵みと祝福となって人々に行き渡る」というような解釈になってしまうのです。しかし「五つのパンと二匹の魚」をユダヤ的ルーツをもって解釈するならば、そのような解釈には全くならないのです。
  • ユダヤ教の聖書は私たちが持っている聖書とは構成が異なります。ユダヤ人の聖書は今日の私たちの旧約聖書ですが、彼らは旧約聖書と言わずに「タナフ」と言っています。この「タナフ」というのは聖書を構成する三つの部分の頭文字を取って「タナフ」と言っているのです。その三つの部分とは「トーラー」(תּוֹרָה)、「ネヴィーイーム」(נְבִיאִים)、「ケトゥーヴィーム」(כְּתוּבִים)の三つです。この三つの頭文字を取ると「タナフ」(תַּנַךְ)となるのです。「トーラー」は「律法」、「ネヴィーイーム」は「預言者」、「ケトゥーヴィーム」は「詩篇」を代表とする「諸書(聖文書)」と訳されています。イェシュアは復活後にエマオ途上にある二人の弟子たちに現われて、「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」(ルカ24:27)とあります。さらにはエルサレムにいた弟子たちにも現れて、「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」(ルカ24:44)と言われました。つまり、イェシュアの言われる「聖書全体」とは「モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあること」なのです。キリスト教の聖書とユダヤ人の聖書との違いを見てみると以下のようになっています。

ユダヤ教《法的理解》⇒中心から「律法」「預言」「詩歌」
・・ 権威の順に並んでいる。
Tanakh
A 律法【トーラー】(創世記~申命記までの5巻)・・基本法
B 預言者【ネヴィーイーム】・・・・・・基本法の解釈と応用
① 前預言書(ヨシュア記~列王記)
② 後預言書(イザヤ書~12の預言書)
C 聖文書【ケトゥーヴィーム】・・・・・ 基本法の参考書

キリスト教《救済史的理解》⇒「律法」(モーセ五書)「歴史書」「聖文書(詩歌)」「預言書」の順。キリスト教の聖書の配列は、七十人訳聖書に準拠しています。

画像の説明

  • イェシュアが「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(マタイ5:17~18)と言っているように、「律法や預言者」というのは、ユダヤ人が用いていた聖書(タナフ)を念頭に置いているのです。「五千人の給食」における「五つのパンと二匹の魚」の「五つのパン」とは律法(モーセ五書)、「二匹の魚」とは預言者と聖文書を表しているのです。イェシュアは終始御国のことしか語っておられません。御国において人が食べて養われるのは「神の口から出る神のことば」、すなわち「タナフ」(聖書)しかありません。
  • 「五千人の給食」の「五つのパンと二匹の魚」がそのように解釈できないのは、キリスト教会におけるユダヤ性が失われたためです。このような例は他にも多くあります。その意味では福音書は今日においてもいまだ閉じられた書と言えるのです。本来の教会に伝えられたユダヤ的ルーツを大切にして、それを回復することが、「この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる」ことにつながると思います。イェシュアから使徒たちへ、使徒たちから聖徒たちに「ひとたび伝えられた信仰」のために戦うことによって、教会は改革されていのちを回復するだけでなく、確かな「報い」が約束されているのです。
  • イェシュアの言われる「報い」とは何でしょうか。それを知るためにイェシュアのことばを見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書25章31~40節
31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。
32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。
34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい
35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人(※使徒、弟子)にしたことは、わたしにしたのです。』

  • イェシュアの言われる「報い」とは、世界の基が据えられたときから、備えられていた御国を受け継ぐこと」なのです。ちなみに、「報い」と訳されたヘブル語の「サーハール」(שָׂכָר)の初発箇所は創世記15章1節で、「あなたへの報いは非常に大きい。」と神がアブラハムに語られたのですが、その報いがどのようなものかはその箇所では語られていません。しかし聖書全体を見るならその報いとは「御国を受け継ぐこと」としか考えられません。これまで話してきたことを踏まえながら、もう一度、マタイ10章の最後の42節のみことばを味わってみましょう。冒頭にある「あなたがたに言います。」という部分の位置をずらして味わってみましょう。

わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、まことに、あなたがたに言います。決して報いを失うことがありません


2018.11.25


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