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幕屋の聖別、レビ人、および部族の移動の仕方と順序、奉献

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民数記の目次

5. 幕屋の聖別、レビ人、および部族の移動の仕方と順序、奉献

【聖書箇所】 7章1節~89節

はじめに

  • 民数記の第7章は89節というとても長い章です。7章1節に「モーセが幕屋を建て終わった日に」とあります。それは第2年目の第1月の1日ですから、第1章にある人口調査(第2年目の第2月の1日)よりも前の出来事ということになります。幕屋が完成した日にモーセがなにし、またイスラエルの民たちが何をしたかがこの章に記されています。しかも、以下同文とせず、長々と同じことが述べられています。簡単にまとめられる事柄を、このように長々と退屈極まりなく繰り返されるのには、私たちは「神の思いは私たちの思いとは異なり」という事実をただ受け入れるしかありません。神は合理化しようとされない方だと認めることです。

1. 幕屋のすべての器具の聖別

  • さて、モーセがしたことは幕屋のすべての器具、祭壇、礼拝に必要なすべての用具に、油を注いで聖別したということです。つまり、それらは神の所有のものとして特別に取り分けられることを意味します。「聖別される」ということは、神以外のことには使われることはないということです。人も器具も「聖別する」(「カーダシュ」קָדַשׁ)ことは、「油を注ぐ」(「マーシャハ」מָשַׁח)ことによってなされます。
  • 神への礼拝を司る祭司とその子らは「油注がれた者」でしたが、他に、預言者たち、王たちも「油注がれた者」でした。それによって神に仕えるあらゆる権威と力を賦与されました。

2. 各部族の長たちがしたささげ物

(1) 運搬用の車両とそれを牽引する牛

  • 幕屋が聖別された後に、イスラエルの各部族の長はそれぞれ、毎日、順番に、神へのささげ物をもってきました。その中のひとつは、レビ人たちが幕屋を移動する際に必要な「おおいのある車」とそれを牽く牛です。それぞれの部族ごとに1頭の車を牽引する牛が、そして二部族で一両の車、合わせて6両をささげました。
  • ささげられた6両の車のうち、2両はゲルション族に与えられ、残り4両はメラリ族に与えられました。移動の際、それを使うことができたのは、幕屋の幕関係を担うゲルジョン族と幕屋の木材関係を担うメラリ族で、聖なる器具を運ぶケハテ族には与えられませんでした。ケハテ族は聖なる器具についているかつぎ棒を肩にかけて、人の手によって運ばなければなりませんでした。
  • 後に、ダビデが契約の箱を新しい都としたエルサレムに迎え入れようとしました。それを新しい牛車に載せて運びましたが、契約の箱がひっくり返って牛車から落ちそうになった時、ウザがそれを手で守ろうとしたとき、彼は神の怒りに触れて死んでしまうという事件が起こりました。ダビデは愕然とし、契約の箱を運ぶことを一時断念したのです。ダビデは契約の箱の運び方を知らなかったのでした。そのあとダビデは正しい運び方、すなわちケハテ族のレビ人がかつぎ棒を肩において運ぶという神の方法を知り、それに従って運んだのでした。

(2) 会見の幕屋完成のための奉献

  • 12の部族がそれぞれ同じものを同じ量、一日ごとに順に奉献しました。その奉献の内容は以下のとおりです。

画像の説明

脚注「指導者たちのささげものについて」

3. 12の部族のささげ物をする順序、それは行軍の順序

  • 各部族のささげ物は、ユダ部族からはじまり、最後はナフタリ族です。この順序は2章にある順序と同じです。

画像の説明

  • 東西南北に配置された、三部族からなる宿営には象徴的な旗がありました。ユダヤの伝説では、その旗のデザインはそれぞれ聖所と至聖所を隔てている「垂れ幕」に織りなされている四つの顔のデザインであったろうとされています。その顔とは「獅子」、「人」、「雄牛」、そして「鷲」です(エゼキエル1:10/10:14参照)。

最後に

  • 89節には、会見の天幕においてモーセが至聖所ではじめて主の語られる声を聞いたのでした。

脚注

  • 修道女のマグダレナE.トーレス=アルピ著「荒れ野の旅」(サンパウロ、2005)によれば、指導者たちの携えた物は「聖所のシェケルの重さで」量られており、その重さには深い意味があるとしています。たとえば、以下、本著の73~74頁からの引用。

「かれの捧げ物は聖書のシェケルで130シェケルの銀の皿一枚」(7:13)など。130という数字はアダムが自分に似た、自分にかたどったセトをもうけた年齢です(創世5:2)。これは、すなわち、命の豊かさ、神のみ名によって伝える生命の意味です。「重さ70シェケルの銀の鉢1個」、70は「全体」の意味ですので、すべての国々のための捧げ物の意味であり、同時に全面的にささげたいという意味も含みます。上述の銀の器には「穀物の捧げ物としてオリーブ油を混ぜた上等の小麦粉」(7:13)が盛られていました。約束された地の産物のシンボルです。また、捧げられる柄杓は空ではありません。
「香を持った、10シェケルの重さの金の柄杓一つ」(7:14)があります。香は礼拝のシンボルで10は完全を表わす数字です。完全な礼拝を捧げたい心を表します。また、供え物になる動物もささげます。」

  • このような「数字の神学」(Number Theology)、あるいは他にも、聖書には「名前の神学」(Name Theology)という領域があります。それぞれの数字、それぞれの名前にこめられた霊的な意味を探りだす神学によって、聖書ににこめられた真理との深いつながりがみえてくるのです。

2012.1.18


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