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七つのともしび皿が燭台の前を照らすこととレビ人の務めの関係

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民数記の目次

6. 七つのともしび皿が燭台の前を照らすこととレビ人の務めの関係

【聖書箇所】 8章1節~26節

はじめに

  • 民数記8章は二つの部分からなっています。以下がその内容です。

画像の説明

  • この章での瞑想の焦点は、1~4節にある事柄が5~26節にしるされている事柄とどのような関係にあるかという点です。その前にそれぞれの部分に示されていることを把握する必要があります。

1. ともしび皿を上げるとき

メノーラー.PNG
  • 「ともしび皿を上げるとき」と新改訳は訳していますが、口語訳では「ともし火をともすとき」と訳しています。つまり、点火することを意味しています。その際、光が燭台の前を照らすようにしなさいというのが、神の指示でした。燭台(「メノーラー」מְּנוֹרָה)の前を照らすとは、聖所の中にあるパンを載せる「机」、「垂れ幕」、垂れ幕の前に置かれている「香壇」を照らすということです。そのような位置に燭台が設置せよということです。8:1~4にある主のことばは、アロンに対してのみ語られた事柄で、アロンのすべき務めでした。
  • モーセの幕屋にあったメノーラーは、今日、私たちが模型で見るようなものではなかったと思います。私たちが目にするメノーラーは、ロウソクを取り付けられるようになっており、形も筒状になっています。モーセの時代のメノーラーは祭司だけしか見ることはできなかったはずですから、だれにもその本当の形は分かりません。燭台は鋳型にはめて作られたり、部分ごとに作って後で接合されたものではありません。それは一塊の金を打ちたたいて造られたものでした。台座があり、中心となる支柱の左右にそれぞれ3本の枝があり、中央の支柱の枝と合わせて七本の枝があって、それぞれの一番上にともしび皿があるという形状です。
  • 「ともしび皿」には、純粋なオリーブ油と芯があって、そこに点火するようになっていました。しかも、出エジプト記27章20~21節によれば、その上質の純粋なオリーブ油はイスラエルの民のささげものによるものでした。アロンとその子らは、夕方から朝まで、主の前にともしびを整える責任がありました。
  • ちなみに、8章4節に「台座から花弁に至るまで」という表現があります。これはヘブル語特有の表現法で、メリズモ修辞法と言われます。つまり、相反する位置にあるものを使って全体を表わす表現法です。したがって、「台座から花弁に至るまで」とは、メノーラー全体を意味します。「天と地」という表現も「すべてのもの」とい意味です。メノーラー全体は槌で打ち叩かれて聖所の外で造られて、聖所の中にもちこまれた物です。ここにもイエスが宿営の外で十字架の苦しみを受けて、天の聖所に入れられたことを示しています。
  • 8章1~4節で重要なことは、燭台の火の光が聖所の中を照らすということです。その後で、レビ人が奉仕できる手順について述べられているのです。

2. レビ人の聖別

  • レビ人の働きは、イスラエルの人々が神を礼拝するために持ってくるいけにえを屠り、解体して、罪のためのいけにえであれば、脂肪の部分だけを祭壇の火で焼けるようにしなければなりませんでした。全焼のいけにえであれば、すべてを焼き尽くせるようにすることでした。また、いけにえそれ自体に傷がないか、あるいは病気がないかもチェックしなければなりませんでした。しかもこれらの務めはすべて祭司とその子らの監督のもとになされなければなりませんでした。
  • レビ人自身が奉仕にふさわしく聖別するために、まずイスラエルの人々が彼らの上に手を置いたあと、アロンがレビ人を主の前にささげました。そのとき、レビ人のために、罪のいけにえと全焼のいけにえがささげられました。また、水をふりかけ、全身にかみそりを当て、衣服を洗い、身をきよめることが必要でした。
  • ここで特筆すべきは、イスラエルの指導者モーセ自身もレビ人と同じく罪のためのいけにえをささげなければなりませんでした。モーセはいつでも幕屋の中にある至聖所へは出入り自由という特権が与えられていましたが、身分としてはレビ人だったのです。彼の子どももレビ人で祭司にはなれませんでした。祭司はアロンの家系にのみに与えられた特権だったのです。
  • 24節には、レビ人の務めの任期が25歳から50歳までとなっています。民数記4章3節では30~50歳と記されており、Ⅰ歴代誌23:24、エズラ3:8では、つまり、捕囚から帰還後では20歳からとなっています。

3. 主の奉仕者はすべてキリストの御名をあがめること

  • 8章の瞑想の重要なポイントとして、1~4節にある事柄が5~26節に記されている事柄とどのような関係にあるかという点について考えみたいと思います。
  • 幕屋の存在自体の目的は、神と人とが親しく交わるためのものです。しかし人が神との交わりを楽しむためには、神の光によってのみ可能であるということです。聖所の中は自然の光は入りません。メノーラーの光だけがそこにあるものを照らしているのです。
  • 「ともしび皿」、あるいは燭台(メノーラー)それ自体がキリストを表わす象徴です。またその中にある油は聖霊の象徴です。それによって照らされる聖所の中にあるすべてのもの(机、香壇、垂れ幕)もキリストを照らしています。尤も、キリストを指し示す光は油と祭壇の火がなければ灯すことができません。燭台の光によってはじめてキリストが啓示されるのです。神と人とに仕えるレビ人はこのことをよく知っていなければなりませんでした。レビ人の奉仕はこのともしび皿に灯る光のもとに常に位置していなければなりませんでした。ましてや、自分の働きや自分に注目させることはキリストの御名を汚すことになるのです
  • 神の光がなければ祭司の働きは無益なのです。同様に、神のすべての奉仕者も神の光がなくては無用の存在と言えます。使徒パウロはユダヤ教の律法学者としては有能な人物でしたが、神からの光、上からの光がなかったために主を迫害したのです。しかし彼は、ダマスコ途上において、「天(=神)からの光」に照らされて、はじめて霊の目が開かれ、神の働きをする者へと変えられたのでした。 使徒パウロのその生涯の務めはその天からの啓示であるキリストの光をあかしすることでした。使徒の働き26章17~18節にこう記されています。

    【新改訳改訂第3版】
    17
    わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
    18
    それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』

  • また、マタイの福音書25章にあるたとえ話にある花婿を出迎える賢い娘たちのように、ともしびを持つだけでなく、それが消えることがないように、目をさまして、いつも油を用意しておく必要があります。

2012.1.20


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