瞑想Ps126/A
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瞑想Ps126/A
- 5節の「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」と、6節の「種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束を抱えながら、喜び叫びながら帰ってくる。」は同義です。(※)
「涙とともに種を蒔く」とはどういうことでしょうか。この箇所をしばしば伝道の働きに解釈して、涙ながらに苦労して伝道するならば、必ず、束を抱えるような収穫を得ると理解してきましたが、この箇所はそのようなことを言うとしているのではありません。この箇所は働きを励ますことではなく、神とのかかわりのために必要な、神のお取り扱いとしての「種蒔き」のたとえです。
- バビロン捕囚の出来事は神がご自身の民をふるいにかけるためのものでした。神の民を再び新しくするために、あえて神の都エルサレムを敵の手に渡しました。「種」とは神のことばであり、「種入れ」とは神の律法の書(トーラー)のことです。「涙とともに」とはエルサレム陥落とバビロン捕囚、およびそこでの生活を指しています。神の民はそこで神のことばの種を自分の心の中に蒔くことを、神は願われました。もし良い地に種が落ちるならば、黙っていても芽吹き、多くの収穫が期待できます。良い地とは涙によって耕され、柔らかくされた心です。
- バビロン捕囚の涙の経験を通して、神の民は神との新しい生きたかかわりをみことばを通して形成されていきました。人々はみことばを深く掘り下げ、みこころを見出し、神に仕える者にふさわしく整えられつつあった時、涙が喜びの叫びとなる突然の解放が訪れたのです。
※
但し、5節の「涙とともに種を蒔く者」の「者」は複数形で、6節の「泣きながら出て行く者」の「者」は単数形です。