瞑想Ps134/B
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瞑想Ps134/B
- 「都上りの歌」の最後の短い詩篇ですが、ここに来て気づいたことがあります。それは冒頭の「ヒンネー」הִנֵּהという語彙についてです。この語彙はほとんど同意語の「ヘン」הֵןと共に実に多く使われています。前者は1060回、後者は99回です。NIV訳では前者の549回は訳されていません。後者も37回は訳されていないようです。どうしてなのかよく分かりませんが、訳されている箇所を見るなら、重要な語彙であることが明確です。ちなみに、「都上りの歌」の中でこられの語彙が使われているのは、前者の場合7回です(121:4/123:2/127:3/128:4/132:6/133:1/134:1)。後者は使われていません。
- 「ヒネー」הִנֵּה、および「ヘン」הֵןがある場合には、後続の単語、名詞句、定動詞句、あるいは節を強調しています。以下、「都上りの歌」の中にある「ヒネー」を列挙してみます。
- ちなみに、一方の「ヘン」
121:4
見よהִנֵּה。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
123:2
ご覧くださいהִנֵּה。私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。
127:3
見よהִנֵּה。子どもたちは主の賜物、胎の身は報酬である。・・幸いなことよ。矢筒をその矢(子どものこと)で満たしている人は。
128:4
見よהִנֵּה。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。
132:6
今や、私たちはエフラデそれを聞き、・・・で、それを見出した。
※「それを」とは、ダビデが主の住まいを造ろうとした誓いのことです。
133:1
見よ。兄弟たちが一つとなって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
134:1:
さあ、主をたたえよ。
- 「ヒンネー」の訳は後続の部分によって意味合いが少々異なってきますが、驚き、喚起、期待、確かさ、生き生きさを表わすことには変わりません。関根訳はこの語彙に対しては一貫して「見よ」で訳しています。134:1の冒頭も「見よ」と訳しています。
- 「ヒンネー」は、驚きや喚起、生き生きさを表わそうとする極めて強い感情表現の語彙です。ルードヴィヒ・ケーラーはその著『ヘブライ的人間』の中でヘブライ人の精神的特徴をいくつか上げながら、「このように全体を通じて言えることは、猛烈な激情性と鋭い感受性とがヘブライ人の精神生活の特徴だということである。」と記しています(『ヘブライ的人間』141頁。池田裕訳、日本基督教団出版社、1970)。
- この語彙を十分に検証するならば、もっとヘブライ人の精神を理解する手がかりをつかむことができるかもしれません。
- 訳語についても、たとえば主がアブラハムに相続人はアブラハムのしもべエリエゼルではなく、あなた自身から生まれ出てくる者でなければならないことを語った箇所である創世記15:4を取り上げてみると、「ヒネー」は以下のように訳されています。
新共同訳
「見よ。主の言葉があった。・・・」
新改訳
「すると、主の言葉が彼に臨み、・・・」
口語訳
「この時、主の言葉が彼に臨んだ。・・」
- ここでの「ヒンネー」は、主の言葉がアブラハムに臨んだその内容に喚起させようとしていますが、その喚起させることばが、「見よ」、「すると」、「この時」とそれぞれ訳しているのです。
- ちなみにもう一方の「ヘン」הֵןが詩篇で使われている箇所をひとつ取り上げてみます。それは、51:5, 6です。新改訳ではここの「ヘン」を「ああ」と訳し、口語訳と関根訳は「見よ」と訳しています。いずれも、後続の事柄が強調されています。新共同訳、バルバロ訳はこの部分では訳していません。この部分はダビデが罪を犯しても、犯さなくても、自分の中に原罪性があることを悟ったきわめて重要な箇所なのです。そこに「ヘン」が置かれていることは興味深ことだと思います。
51:5
ああהֵן、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
51:6
ああהֵן、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。