長血の女の癒しと会堂司の娘の生き返り
35. 長血の女の癒しと会堂司の娘の生き返り
【聖書箇所】マタイの福音書9章18~26節
ベレーシート
- 前回の「真新しい布切れ」と「新しいぶどう酒」の話が、天の御国の到来の仕方のたとえ話であったように、今回の「長血の女の癒し」と「会堂司の娘の生き返り」の奇蹟も天の御国の話です。天の御国はメシアが治める王国(「マルフート」מַלְכוּת)です。そのメシアであるイェシュアがその天の御国においてどのような方であるかが示されているのです。
- 今回の箇所のテキストは、同じく共観福音書であるマルコにもルカにもあります。しかしマタイだけが特別に短く、かつ簡潔です。マタイは8節分、マルコは24節分、ルカは16節分となっています。マルコはマタイの3倍、ルカはマタイの2倍です。
- しかもマタイでは、会堂司がイェシュアのもとにやって来て、「私の娘が今、死にました」と言っているのに対して、マルコやルカによれば、会堂司がイェシュアに頼んだ時点では、「私の小さい娘が死にかけています」とあるように、娘は危篤状態であったことを記しています。しかしイェシュアがその人の家に行く途中に会堂司の人々が来て、この娘が亡くなったことを伝えています。結果的には娘は死んでしまうので、マタイの描写は間違いないのですが、その間のプロセスを詳細に記しているマルコやルカの方、私たちの感覚に近いのです。この事象をどのように理解したらよいのでしょうか。
- 実はこれは間違っているのではなく、マタイがヘブル語で書かれたもので意味しているのです。というのは、マタイは「へブル的縮約法」という修辞法を用いているからです。「へブル的縮約法」とは、同じ出来事を描写するのに時間を短縮し、省略して要点を記しています。特にマタイはユダヤ人に対して福音書を書いています。マルコやルカとは異なり、イェシュアの弟子として当初からイェシュアのしてきたことを見てきたわけです。もっとも彼はユダヤ人であり、その思想や表現法はヘブル的なものであったはずです。事実、マタイの福音書はヘブル語で書かれたということを後の多くの教父たちが証言しています。それをギリシア語に翻訳したとしてもその表現法はそのまま表されています。その証拠の一つが、今回のテキストである会堂司の娘の記事なのです。イェシュアが娘を生き返らせたという点を強調させるために、枝葉末節なことをすべてカットしているのです。こうしたへブル的縮約法は旧約にも新約にも数多く見られますが、ここでは割愛します。
- 長血の女の記事は会堂司の娘の話に割り込むようにして挿入されています。順序として、長血の女の話から始めていこうと思います。
1. 長血の女の癒し
【新改訳2017】マタイの福音書9章20~22節
20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。
- 一見すると、十二年間も長血で苦しんで女が、イェシュアの衣の房に触れたことで、その病が癒されたという話で終わってしまいますが、そこには一体何が隠されているのでしょうか。
(1)「すると見よ」(20節)
- 「すると見よ」(へブル語では「ヴェ・ヒンネー」וְהִנֵּה)という言葉は、旧約の預言者たちが「終わりの日」に起こる出来事に目を留めさせるために使われる常套句です。ですから、これからの出来事は一人の女に起こった出来事というよりは、神のご計画におけるイスラエルの出来事を示していると言えるのです。
(2) 「十二」という数
- 長血の女が病を患った期間が「十二年間」とあります。なにゆえに十二年なのでしょうか。十一年間でも、十三年間でもなく、あえて十二年間としてあるところに意味があります。イェシュアが「12歳になられたとき」、巡礼先のエルサレムで両親とはぐれたことで、「わたしは必ず自分の父の家にいる」という真理が両親にはじめて明かされました。しかし、同じくユダヤ人である両親はその意味が分からなかったとあります。「12」という数字と「父の家」には密接な関係があるように思われます。その父の家に住むのは「神に選ばれた、神の所有の民」です。
- ヤコブの12人の息子たちと、そこから生じるイスラエルの12の部族。約束の地の偵察のためにそれぞれの部族から派遣された計12人の者たち。荒野の旅の途上のエリムという町で見出された12の泉。約束の地に渡って行った最初の宿営の地ギルガルに記念の石として据え置かれた12の石、大祭司が着る服の胸に身に着けるエポデには12の部族を表わす宝石が埋め込まれています。ダビデは神殿で仕える祭司の組織を12の二倍の24の組に分けています。旧約聖書の小預言書と言われる数も12です。
- 「12」という数は新約においても受け継がれます。イエスが選んだ12の使徒(弟子)に始まって、ヨハネの黙示録では、神の御座の回りには12を二倍した数の長老たち、また、12の部族のそれぞれにつき1万2千人の、合計14万4千人に神の刻印が押され、その者たちが神を礼拝しています。新しいエルサレムにおいては、12の部族の名が刻まれた12の門、聖なる都の12の土台には12の使徒の名が刻みつけられています。新しいエルサレムには年に12回実を結ぶいのちの木があります。
- このように、「12」は神に選ばれた、神の所有の民の象徴的な数と言えます。なぜ神は「12」という数にこだわるのか、それは全イスラエルの回復というメッセージが込められているからです。12年間長血であった女は、神の所有の民イスラエルの「型」と言えます。
(3) 長血を患った女(イスラエル)
- 長血という病は婦人病の一種で、おそらく子宮に関するものと思われます。それはイスラエルにおいては汚れた病として人に触れることも、人から触れられることもできませんでした。長血の女はまさにだれによっても癒すことのできない絶望的な状態のイスラエルの民の衣の「型」だったと思われます。それがイェシュアの衣の房に触れたことによって癒されるという出来事なのです。
(4) イェシュアの「衣の房」
- 長血の女の人は、イェシュアのうしろから近づいて、イェシュアの衣の房に触れたのです。彼女は「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからです。マタイは「衣の房に触れた」と記していますが、彼女の思いは「この方の衣に触れさえすれば」となっています。おそらくマタイが記している「衣の房」というのが重要なのだと思います。旧約の民数記15章に次のような記述があります。
【新改訳2017】民数記15章38~39節
38 イスラエルの子らに告げて、彼らが代々にわたり、衣服の裾の四隅(כָּנָף)に房(צִיצִת)を作り、その隅(כָּנָף)の房(צִיצִת)に青いひも(פְּתִיל)を付けるように言え。(原文には「裾」という言葉はなく、意訳です。)
39 その房(צִיצִת)はあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こしてそれを行うためであり、淫らなことをする自分の心と目の欲にしたがって、さまよい歩くことのないようにするためである。
40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神に対して聖なる者となるためである。
- これをみると分かように、旧約では衣の「房」をヘブル語で「ツィーツィット」(צִיצִת)とも言い、新約では「カーナーフ」(כָּנָף)と訳されています。いずれも衣の裾の四隅にあるものです。
- 神は、イスラエルの民に対して「代々にわたり、着物のすその四隅に房を作り、その隅の房に青いひもをつけるように」と指示されました。この目的は、イスラエルの民がそれを見ることで、「主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため」であり、「神の聖なるものとなるため」でした。神の律法(トーラー)を思い起こし、ひとりひとりの心に刻み込むための「恵みの手段としてのしるし」である「衣の房(「ツィーツィット」צִיצִת)の青いひも」の存在はすばらしい神の発想です。ひもの色の「青」は本来、「神聖」を意味する色で「神」の色であり、そうした色のひもをひとりひとりが身につけることで、民族的なアイデンティティのシンボルとなります。ちなみに、今日のイスラエルの国旗の色は「青」です。
- ところがイェシュアが来られた時代には、衣の房は社会的身分の象徴の意味も帯び、裕福な身分の人であればあるほど派手なデザインの房をつけるようになりました。あるパリサイ人の飾りの房は、非常に長く、込み入ったデザインで、地面を引きずるほどであったとも言われています。こうした見せびらかしを、イェシュアは「人に見せるため・・・・衣の房(צִיצִת)を長くしたりする」(マタイ23:5)ことを責めておられます。
(5) 長血の女のしたことは預言的行為
- 長血の女がしたことは、本人が気づいていたかは別として、預言的行為の出来事でした。というのは、マラキ書4章1~2節にこのような終末預言があるからです。
【新改訳2017】マラキ書4章1~2節
1 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。
迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の【主】は言われる──
2 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
- 「見よ、その日が来る。」ではじまる終わりの日の預言です。その日には、主に対して「高ぶる者」「悪を行う者」たちの運命は、完全に焼き尽くされ、根も枝も残されないというさばきです。「聖絶」(「ヘーレム」חֵרֶם)のように、完全に滅ぼし尽くされるのです。しかし逆に、「主の名を恐れる者(=主を信じる者)」の上には「義の太陽」が上り、その翼による「いやし」がなされます。ここでの「いやし」は「救い」「解放」と同義です。
- 「義の太陽」はメシアを表わす比喩的表現で、聖書ではこの箇所にしか使われていません。また「翼」と訳された「カーナーフ」(כָּנָף)は、いやし(「マルフェー」מַרְפֵא)があると預言されています。「ある」と訳された動詞は「ヤ―ツァー」(יָצָא)が使われており、メシアの衣の房からいやしの力が「出て行く」という意味です。しかも預言的完了形になっており、やがて必ずそのようになるという意味です。ですから、イェシュアの衣の房(ここでは「カーナーフ」כָּנָף)を触ることは必ずしも迷信的なことではないです。その証拠に、長血の女だけではなく、衣の房にさわった人たちはみな癒やされたとあります(マタイ14:36)。
【新改訳2017】マタイの福音書 14章36節
せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。
- 「衣の房」である「カーナーフ」(כָּנָף)にさわることであっても、あるいは「ツィーツィット」(צִיצִת)にさわることであっても、表記こそ異なりますが、いずれも神のことばである「トーラー」に聞き従い、それを守ることを意味します。しかしそのためには、マラキ書が示すように、「見よ。その日が来る」とされる「終わりの日」が来なければ、それは実現しないのです。つまり私たちのからだが復活するか、変えられることがなければ、神の律法を守ることができないからです。人間には治せない病気を、神は完全に癒されます。ただしその条件は主の律法に耳を傾け、それを守ることです。そのことがトーラーに記されています。
【新改訳2017】出エジプト記15章22~25節
22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
25 モーセが【主】に叫ぶと、【主】は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
- この話は、マラの水は苦くて飲めなかったことに対して、主が示された方法はモーセに一本の木を示し、彼がそれを水の中に投げ込むということです。それで水は甘くなったのです。主はモーセに一本の木を示しています。この「示す」というヘブル語は「ヤーラー」(יָרָה)で、本来は「投げる」という意味ですが、そこから「示す、教える、指示する、方向づける」という意味になり、「律法」を意味する「トーラー」(תּוֹרָה)の語源となっています。つまり、神が示したこの一本の木とは「トーラー」を象徴しているのです。「トーラー」は神が人に示すみおしえであり、神の民が神の民としてふさわしく生きていくために無くてはならない指標です。苦い水を甘い水に変えられることは、イスラエルの民が神の「トーラー」に従って生きることによってであり、これが神の民としての喜びとなることを意味していることです。
26 そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」
- このことが実現するのは、キリストの再臨によって、イスラエルの民が変えられ、律法にある主の御声に聞き従うようになるときです。「天の御国」が完全に来ないと、本当の「癒し」は実現しないことを、長血の女の出来事は教えています。
(6) あなたの信仰があなたを癒やした
【新改訳2017】マタイの福音書9章22節
イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。
- イェシュアは女に対して「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救った(=癒やした)のです」と述べていますが、原文では冠詞付きで「あなたのその信仰」となっています。「鰯(いわし)の頭も信心から」の信仰ではありまん)ません。「あなたのその信仰」とは。単に長血の女がイェシュアの衣の房に触ることではなく、そこに示されている神のトーラーに対する信仰なのです。神のトーラーに対する信仰が彼女に回復されたことで、「その時から彼女は癒やされた」のです。
- 「娘よ、しっかりしなさい。」というイェシュアのことばにも、父が娘に対する愛情を感じさせるように、神の民イスラエルに「その信仰」が回復されることを願う神の愛の励ましが込められています。このように、神の民が律法にある主の御声に聞き従うようになることは、「死者の中から生き返ること」に匹敵する出来事なのです。そのことを示しているのが「会堂司の娘の生き返り」の出来事です。ですから、会堂司の娘の死と長血の女の奇蹟は「天の御国」おける神のご計画であり、二つでワンセットなのです。
2. 会堂司の娘の生き返り
【新改訳2017】マタイの福音書9章18~19節、23~25節
18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。
19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、
24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。
25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。
- イェシュアがなされたすべての行為は、神の永遠のご計画に沿ってなされています。ですから私たちは、パウロの「神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」(使徒20:27)という俯瞰的視点を持って聖書を読まなければなりません。会堂司の娘の死からの生き返りは、長血の女がいやしがもたらした「その信仰」、すなわち神がモーセを通して、また預言者たちを通して語って来たことに対する信仰が必要なのです。
(1) 会堂司の信仰
- ここで会堂司の信仰を見てみたいと思います。彼はイェシュアのもとに来て「ひれ伏して」います。この「ひれ伏す」と訳された言葉は、「礼拝する」という意味のギリシア語「プロスクネオー」(προσκυνέω)が使われています。しかしこのことばが未完了形で繰り返したことを考えると、ここは「礼拝する」というよりも、「敬意をもってひれ伏して願い続ける」という意味合いに近いです。彼は娘が死んでしまったにもかかわらず、「おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」と述べています。一見、この言葉はとても信仰的に見えますが、娘が生き返るための方法をイェシュアに指示しています。結果的には、イェシュアは彼が指示したように娘の上に「手を置いて」ではなく、娘の「手を取られた」ことで彼女を生き返らせています。実はこのことがむしろ重要なのことなのです。
(2)「少女の手を取られた」イェシュア
- 「手を取られた」と訳されたイェシュアの行為ですが、これは単に彼女を起こそうとするために手を取ったということではなく、もっと深い意味が込められています。イェシュアが娘の手を「取られた」というギリシア語は「クラテオー」(κρατέω)のアオリストで、「捕らえる」というニュアンスです。これをヘブル語にすると「アーハズ」(אָחַז)となります。その初出箇所は創世記22章13節に出てきます。
【新改訳2017】創世記 22章13 節
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
- ここの「アーハズ」は受動態が使われて「引っかけていた」と訳されていますが、態を変えるなら、藪は雄羊の角を「捕らえた」ということになります。イェシュアの場合、何を捕らえたのかと言えば、それは彼女の手ですが、「手」は身体の「手」というよりも、彼女を「支配しているもの」という意味があり、それをイェシュアが「捕らえた」ということです。ヘブル語で「手」は「ヤード」(יָד)と言いますが、それは「支配」という意味があります。例えば「ダビデの手」と言えば、それは「ダビデが支配しているもの」を意味しています。同様に、「少女の手を」と言えば、「少女が支配しているもの」を意味するのです。その娘が支配しているものとは「死」です。これをイェシュアは「取られた」、すなわち「捕らえた」となります。つまりイェシュアが「少女の手を取られた」とは、少女のうちに支配している死をイェシュアは捕らえたことになります。その結果として、「すると少女は起き上がった」のです。「起き上がる」とは、復活を意味する「エゲイロー」(ἐγείρω)が使われています。単なる蘇生したことを表わすのではなく、それは「死は勝利に呑み込まれた」という「復活」を象徴する出来事だったのです。
(3) 「少女」の歳は隠されている
- マルコとルカの福音書には、この少女が12歳であったことを記しているにもかかわらず、マタイはなぜ少女の歳を記していないのでしょうか。またなぜ会堂司の名前も「ヤイロ」だとマルコとルカは記しているのにマタイは記していないのでしょうか。それは前にも述べたように、「ヘブル的縮約法」によるものです。「長血の女」と「会堂司の娘」はイスラエルの民の「型」として扱われているためです。そのことが重要なことで、不要なプロセスや説明を省いていると考えられます。
ベアハリート
- イェシュアは少女のことを死んだのではなく、眠っているのだと言われました。みな死からよみがえり、変えられるからです。使徒パウロは、これは天の御国(神の国)における奥義であると啓示されました。
【新改訳2017】Ⅰコリント書15章50~54節、57節
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」
57 ・・神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
- 長血の女も会堂司の娘もイスラエルを表わす「型」だとすれば、長血の女はイェシュアをメシアと信じるに対するイスラエルの残りの者を意味し、会堂司の少女はメシア王国において「第一の復活」にあずかるイスラエルの旧約の聖徒たちと考えることができます。前者の「イェシュアに対する信仰をもったイスラエル」は、「イェシュアを信じる異邦人クリスチャン」を含めた教会のメンバーでもあります。いずれにしても、メシアの再臨(空中再臨および地上再臨)の時には、勝利が与えられることを、今回の二つの奇蹟は示しているのです。パウロとともに、「死は勝利に呑み込まれた」「神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださった」と告白したいと思います。
2018.7.29
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