預言者アヒヤのヤロブアム家に対するさばきの宣告
列王記の目次
15. 預言者アヒヤのヤロブアム家に対するさばきの宣告
【聖書箇所】 14章1節~34節
はじめに
- 14章の主な内容は、ヤロブアムとその関係者に対する神のさばきの宣告です。その宣告を聞くはめになったのは、病気になったヤロブアムの息子アビヤがこれからどうなるのかを知るためにのために、父ヤロブアムがかつて自分に北イスラエル(10部族)を従えることになると預言したアヒヤのところに自分の妻を遣わしたことからでした。
1. ヤロブアムに対して語られた主のことば
- ヤロブアムに対する主のさはぎは厳しい者でした。自分の息子がこれからどうなってしまのかを尋ねるつもりでしたが、聞かされたのは、ヤロブアムの一族とその関係者の運命でした。アヒヤの預言によれば、息子のアビヤは死ぬが、彼だけが墓に入ることができ、他の者たちは「町で死ぬ者は犬が食らい、野で死ぬ者は空の鳥が食らう」という壮絶過酷な運命でした。
(1) 神を捨て去ったヤロブアム
- そもそも、ヤロブアムは預言者アヒヤを通して、ソロモン王に反逆することを許された人でした。ソロモンに対する刑罰の執行者として用いられた人でした。彼は神のみこどはに忠実に従うべきでしたが、現実は全く反対の方向にイスラエルの人々を引っ張っていきました。彼は権力によって人の心を得ようと、自分のために、宗教を取り入れ、その政策として偶像を取り入れました。その結果、ソロモンにもまさる罪を犯すことになったのです。ヤロブアムによって、北イスラエル王国は最初から平気で神に背き、神を捨て去ったのです。
- 14章9節には「あなたは・・自分のためにほかの神々と、鋳物の像を造り、・・わたしをあなたのうしろに捨て去った」とあります。「捨て去った」と訳されたへブル語は「シャーラフ」שָׁלַךְ(shalakh)で、「投げる、投げ捨てる」という意味です。主を後ろに捨て去ったことで、主もイスラエルを「捨てられる」(9節)のです。
(2) 神に捨てられたヤロブアム(イスラエル)
- 「捨て去る」「捨てられる」と似た表現ですが、主が「捨てる」という訳のへブル語は「ナータン」נָתַןで、敵に「引き渡す」という意味です。敵に引き渡されるということは、敵によって滅ぼされることを意味します。神を後ろに投げ捨てるというその代償は、神によって敵に引き渡されるということです。これが北イスラエルのたどった運命でした。
2. 「ダビデのようではなかった」という神のさばきの基準
- 預言者アヒヤによって宣告された神のさばきの言葉は以下の通りです。
【新改訳改訂第3版】Ⅰ列王記14章7~9節
わたしは民の中からあなたを高くあげ、わたしの民イスラエルを治める君主とし、ダビデの家から王国を引き裂いてあなたに与えた。あなたは、わたしのしもべダビデのようではなかった。ダビデは、わたしの命令を守り、心を尽くしてわたしに従い、ただ、わたしの見る目にかなったことだけを行った。ところが、あなたは・・・
- ここにあるダビデのようではなかったとはどういうことでしょうか。ダビデもその生涯に罪を犯しています。神のしもべとして必ずしも完全ではないことを、私たちは知っています。しかし、ここでの神のダビデに対する評価は、「主の命令を守り、心を尽くして、主に従い、主の目にかなったことだけを行った」とあります。
- 「主の目にかなったことだけを行った」とあります。そこにはなんらダビデが犯した罪が完全に赦され、忘れ去られています。それはダビデが主の前に自分の罪を悔い改めたからです。これはとても大切な点です。「ダビデのように」とは、決して完全という意味ではなく、神の前に素直に自分の罪を認め、悔い改める心を持つことです。そうするならば、神はその罪を完全に忘れてくださる方であるという福音をここに見ることができます。
3. レハブアムの罪に対する神のさばき
- ソロモン王国が二つに分裂して、その南王国の初代の王となったソロモンの息子レハブアムを先頭に、ユダの人々は偶像を拝んで、主の目の前に悪を行ったとあります(14:22)。
- その罪のために、主はユダをエジプトの王シシャクに「引き渡され」ました。その結果、神殿と王宮にあるすべての財宝のすべてが奪い去られました。幸いなことは、奪い去られたのは財宝だけで、そこに住む人々ではありませんでした。しかし、そのことは民をも「奪い去られる」(「ラーカハ」לָקַח)という懸念を示唆しています。やがて、ユダもバビロンによって文字通り、奪い去られるときが来るのです。それは偶像によって神の怒りを引き起こした結果でした。
2012.10.3
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