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1. 士師記の主題と特徴

歴史書(1)の目次

士師記 1. 主題と特徴

(1) 主題は「臨戦意識の有無による勝敗」である

① 臨戦意識とは、神の約束によって与えられたカナンの地において「わな」となるものを完全に追い払っていくという敵前感をもった危機意識である。ヨシュアが晩年、イスラエルの民に訴えようとしたことは「妥協による敗北」の危険であった。もし妥協するならば、神が約束された祝福(安息)を享受することができないばかりか、主が与えた良い地から、民が滅び失せるという警告であった。ヨシュア記23章参照。

② イスラエルは神に特別に選ばれた「聖なる民」としてカナンの偶像と対決しなければならなかった。なぜなら、彼らはイスラエルの神こそあらゆる恵みを唯一保障できる神であることをあかしするという課題を担わせられていたからである。それゆえ、他の神々に心を移すことは霊的姦淫を犯す罪であった。今日のクリスチャンもこの誘惑にさらされている。

③ ヨシュア記では神の約束されたものを信仰によって攻め取ったことが記されている。ところが実際には、まだ占領していない地がたくさん残っていた(ヨシュア記13章1節)。それゆえ各部族は自分に与えられた地に住む敵を追い払うことを課題としたが追い払うことをしなかった。脚注1
それゆえ、ヨシュアが警告したとおり、そのことはイスラエルの民にとって「わな」「むち」「落とし穴」「目のとげ」(ヨシュア記23章13節)となった。

④ 士師記は、新約聖書の以下の真理を例証している。

a. 「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。・いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全とうしようではありませんか。」(Ⅱコリント6章14節~7章1節)。

b. 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(Ⅰペテロ5章8~9節)。

(2) 特 徴

①〔求心的図式〕から〔遠心的図式〕への移行

a. ヨシュア記がヨシュアを中心とするイスラエルの総力戦によって約束の地を征服し、占領して、その中心に主ご自身が住まわれるという「求心的図式」で表わされるとすれば、士師記はカナンに定着した各部族が敵を追い払うことなく、カナンの偶像を拝んで次第に堕落していく「遠心的図式」で表わされる時代である。

b. 「遠心的図式」の時代では12部族の一致が崩れ、各部族は自分たちの利得だけを考えるようになった。統治形態としては部族連合であるが、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士17章6節、21章25節)時代であった。

②《循環図式》をもった時代

a. 偶像礼拝に傾斜していく民に対して、主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主はイスラエルを敵の手に渡される。しかし民が圧迫の中で主に叫び求めた時、主は「さばきつかさ」たちを起こしてご自身の民を救出された(士師記2章10節~19節)。

b. この循環パターンはイスラエルのどの部族にも見られる。人間の側からみるならば、士師記は臨戦意識を喪失した妥協による失敗の歴史であるが、神の側からみるならば神の忍耐に支えられた恵みの歴史ということができる。

画像の説明

c. 「さばきつかさ」の登場。ヨシュアの死後、「さばきつかさ」(士2章16節)、「救助者」(3章9節)とか呼ばれるカリスマ的指導者が立てられる。彼らは世襲的な統治者ではなく、イスラエルを圧迫から救い、神にある安息を回復するために特別に立てられた救助者であった。彼らは、外敵からの攻撃の時には戦いの統率者として民の先頭に立ち、平和な時には部族間のもめごとを調停する裁判官的職務を果たした。

③《遊牧生活》から《農耕生活》への変化、土地取得がもたらす危機

a. 賜物の賦与は常に課題を伴う。イスラエルが占領した土地は疑いもなく神の恵みの賜物として与えられたものである。ところが、この賜物は同時に課題を伴うことを忘れてはならない。その課題とは、賜物(土地)に優先されてしまいやすい人間の弱さにおいて、その賜物の与え主に絶えず栄光を帰すことである。土地が自分の生活を保障するものではなく、あくまでも神こそが私たちの生活を保障する方である。人間が自分の生活の物質的基盤(仕事、金銭、人間関係等)が神とすりかえられるとき、それはりっぱな偶像となる。このことがイスラエルの民に起こった。 

b. 土地の賦与は生活における豊かさをもたらす。農耕民にとって土地は生命を保証するものであり、それゆえ土地に対する執着は大きい。また、農耕生活にとって最もありがたいことは豊作である。豊作をもたらす神なら無条件で拝みたくなる。豊作をもたらすためには、イスラエルの民はカナンの先住民に農耕に関する技術を学ばざるを得なかった。ところが当時の農耕技術の大部分は呪術的なものであった。つまりカナンの先住民から農耕技術を学びとる際に、イスラエルの民の中に、自然の諸力を神格化した神(偶像)への信仰が入り込んで行った。これが土地取得においてもたらした危機なのである。賜物をお与えになった神が悪いのではなく、その賜物を正しく受け止めなかった民に責任があるのである。

④士師記の霊的使信(意義)

  • 士師記の時代はカナンの最初の360年間に起こった出来事がしるされている。その記述は必ずしも年代的に厳密な歴史を意図していない。なぜなら、士師記は選択された出来事の霊的意義に強調点を置いているからである。 

a. 《弱さにもかかわらずの勝利》 常識的には弱いとされる者がその臨戦意識(敵前感)のゆえに、かえって勝ちうるという視点が見られる。
ⅰ. 左ききのエフデ  ⅱ.女預言者デボラ ⅲ.臆病なギデオン(脚注2)  
ⅳ. 私生児のエフタ

b. 《強さにもかかわらずの敗北》
ⅰ. 勇み足のエフタ  ⅱ. 強さを誇る無比の勇士サムソン

  • このように、世間一般の通念としての強い人、弱い人、有能な人、無能な人とかの判断基準が退けられている。そこで問われていることは、主を恐れることに基づく臨戦意識(敵前感という危機意識)の有無だということである。弱いことを恐れない、むしろ自分の弱さを誇るという真理が例証されている。

脚注1
なぜイスラエルはカナンを完全に占領することができなかったか。
①敵が鉄の戦車を持っていたから(ヨシュア記17章16、18節、士師記1章19節、4章3、13節)。 
②山地を占領したことで満足してしまったから(戦いよりも安住を選んだ)  
③征服した土地が12部族に分割したことで一体となって戦うという体制が解体してしまったから。 
④偉大な指導者を失ったから
・・・・等の理由が考えられる。

脚注2
ギデオンの敵前感を何よりも如実に示しているエピソードは、その精兵の選び方であった。7章以下を参照。ギデオンは民を水際に連れて行き、その水の飲み方で選別しようとした。そして、手に口に当てて水をなめた三百人のみを聖なる戦いの兵卒として選んだ。水に代表される衣食住の必要においても、臨戦意識があるかどうがが求められているのである。


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