****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

ザカリヤの賛歌「ベネディクトゥス」

4. ザカリヤの賛歌 「ベネディクトゥス」

画像の説明

はじめに

  • ザカリヤが聖霊に満たされて語った賛歌を瞑想する前に、この賛歌の構造を見てみると、大きく二つの部分からなっています。前半は68~75節。後半は76~79節です。前半の主題は「救い」です。後半は、その「救い」を備えるザカリヤの子ヨハネについての預言があります。
  • 前半、後半を貫いているのは「救い」です。その証拠にこの箇所には、救いに関する用語が他の福音書に比べて多く使われています。

(1) 名詞の「救い」、salvation

  • 「ソーテーリア」σωτηρία 英語ではsalvation; 名詞。福音書ではマタイにはなく、マルコに1回、ヨハネも1回。そして、ルカは4回(ザカリヤの賛歌では3回)。
    1:69「救いσωτηρίαの角を、われらのために・・建てられた。」
    1:71 「この救いσωτηρίαはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。」
    (※この節の「救い」は原文では1回のみ。)
    1:77 「神の民に、罪の許しによる救いσωτηρίαの知識を与えるため」
  • ルカの福音書でもう1回使われている「救い」の名詞は19:9にあります。
    「きょう、救いσωτηρίαがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」

(2) 動詞の「救う」、save

  • 動詞の「救う」ソーゾーσωζω 英語ではsave. 福音書でマタイ、マルコそれぞれ15回。ルカは17回。ヨハネ6回。クリスマス関係で用いられている箇所は、マタイ1:21の1箇所のみです。英語ではsave. ちなみに、ルカの福音書では19章10節「人の子は、失われた人を救うσωζωために来たのです。」に使われています。自分の力では決して這い出すことの出来ない富(マモン)の泥沼からザアカイはイエスと出会うことで救い出されたのです。
  • 使徒4章12節「この方以外には、だれによっても救いσωτηρίαはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるσωζωべき名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。」

(3) 名詞の「救い主」、Savior

  • 「救い主」を意味する「ソーテール」σωτήρ 英語ではSavior. 新約では24回。クリスマス関係の箇所では以下の2回。
    ルカ1章47節「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたえます。」 
    ルカ2章11節「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。」
  • 以上、語彙を見るだけでも、ザカリヤの賛歌には「救い」がキーワードとなっていることは明らかです。以下、このザカリヤの賛歌の前半と後半を三つの視点から味わってみたいと思います。

1. 救いにおける神の主権

  • この預言の特徴の第一は、「顧みて」、「贖いをなし」、「(救いの角を)立てられた」とあるように、救いにおける神の主権です。すべてのことが神からはじまり、神により、神へと至るという事実に目を向けさせようとしています。
  • イスラエルの神である主は、過去において「その民を顧み、贖いをなし」(68節)てくださった方です。神は決してご自身の民を見捨てることなく、彼らを顧み、エジプトから、あるいはバビロンから救い出されました。
  • ここで「顧みる」と訳されたギリシャ語は「エピスケプトマイ」έπισκέπτομαιで、「訪れる、たずねる」という意味で、同じくザカリヤの賛歌の78節にも使われています。ヘブル書2章6節には「人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」と詩篇8:4が引用されています。ここの「顧みる」も「エピスケプトマイ」έπισκέπτομαιですが、旧約の詩篇8:4のヘブル語はパーカドפָּקַד(paqad)が使われており、その意味するところは、「心をかける、世話をする」です。自分とかかわった者のところに訪れて、どこまでも心をかけて世話をし、面倒を見るというイメージです。ここには人間に対する計り知れない愛のかかわりに対する驚きがあります。

2. 敵からの救い

  • 第二の特徴は、この救いはわれらの敵からの解放であることである。敵とは、神による救いを妨げるサタンとその勢力全般を指すと考えられます。
  • 過去においてなされた神の恵みは、今や神の救いのご計画の終わりの時代、最終段階を迎え、新たな恵みが注がれようとしていました。ザカリヤは聖霊に満たされて、「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」と宣言しています。しかも、その「救い」は、「敵からの救い」(ルカ1:71)、「われらを憎む者の手からの救い」(71節)とあります。
  • 「救いの角」である御子イエスが来られた時代はローマ帝国が支配していました。それまで、ユダヤの民は400年間、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、そしてローマの支配の中で、自分たちの国を持つことなく、長い間、抑圧され、搾取されてきました。そうした「敵からの救い」がここで取り上げられています。それは彼らにとって大きな希望だったのです。メシア待望もこうした抑圧された中から起こってきました。
  • しかし実際、この救いはキリスト再臨によって完成されることになります。旧約においては、教会の時代は預言されてはいないのです。キリスト再臨の前には、ユダヤの民にとって大艱難時代を経験します。偽キリストは彼らの敵の中でも最大の敵となる存在です。しかし、キリストは彼らを民族的に救われます(※「民族的」というのは、クリスチャンの救いが「個人的」なのに対してです。)
  • その完全な「敵からの救い」については、ユダヤの民のほとんどは理解することができませんでした。それまでユダヤの民の敵と考えられていた異邦人が、ユダヤ人とともに救いを相続するという神のご計画がはっきりと啓示されたのは使徒パウロでした。この啓示を聖書では「奥義」と言っています。かくされた事柄という意味です。つまり、教会時代のことで、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということ」(エペソ3:6)です。
  • しかしこのことは、御子イエスの公生涯における宣教において、実は示されていたのです。その証拠となる事件がルカの福音書4:16~29に出てきます。特に、「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がって、イエスを町の外に追い出し、・・がけのふちまで連れていき、そこから投げ落とそうとした。」(28~29節)という部分。なぜ、人々はイエスを崖から突き落とそうとしたのでしょうか。それは、イエスがイザヤ書を読みながら、「敵についての復讐について書かれている箇所」の前で止まり、故意にそこを朗読しなかったからです。

※このことについては、「ルカの福音書の神学的考察」の「2. イエスのバリア・フリー的宣教」の「②公生涯最初のナザレの出来事(ルカ4章16~30節)」を参照のこと。

3. 救いの目的

  • さて、第三の特徴は、神の主権的な救いの目的が74, 75節に記されています。それによれば、神の民の生涯のすべての日において「きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えること」とあります。すなわち、ここで言おうとしていることは、神の民が真の礼拝者となるということです。
  • しかし、この目的の実現のためには、聖霊の降臨を待たなければなりません。聖霊の時代は個々の人々のレヴェルではすでにはじまっていました。しかし、すべての人々が真の救いを経験し、主の御前に仕える者となるためには、人々の上に聖霊が注がれる必要がありました。それはペンテコステにおいて実現します。その意味ではこのザカリヤの賛歌は預言的と言えます。
  • 「きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える」ことができるために、聖霊の賦与が必要ですが、神はその賜物を与える前に、一人の預言者をお立てになりました。それが76節に語られている「いと高き方の預言者と呼ばれる」ザカリヤの子ヨハネです。ヨハネは主イエスの御前に先立ち、主の道備えをするという使命です。その内容は、人々に悔い改めを迫り、罪のゆるしのバプテスマを授けることでした。しかしそれだけでは不十分でした。喜んで仕える霊がそそがれる必要がありました。「きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える」ためには、聖霊のバプテスマに授からなければなりません。それを授けることのできる方は御子イエスです。それゆえ、この地上での御子の歩みにすべてがかかっていたのです。
  • 「恐れなく」とは注目すべきことです。律法によって義務的な仕え方をしている限りは「恐れ」から解放されることはありません。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全き者となっていないのです。」(ヨハネ第一、4:18)とあるように、私たちは御霊によって、愛において全き者となることができるということです。こにに大きな望みがあります。

おわりに

  • 前半と後半をつないでいる語彙に注目したいと思います。それは「あわれみ」(名詞、エレオスέλεος(英語はmercy)という言葉です。ザカリヤの賛歌には72節、78節、78節と3回使われています。マリヤの賛歌の中でも2回使われています(1:50, 54)。
  • 「あわれみ」は、ルカの福音書においても重要な言葉の一つです。それは、神の深い愛が注ぎ出されて、一つの行為や形となることを意味しています。神の私たちに対する「同情」と「行動」が一つになったことを意味することばです。神のあわれみとは、窮状にある人々に対する同情だけでなく、具体的行動が伴った神の真実な愛です。御子イエスは、病人や悪霊につかれた者、取税人、罪人などを見てあわれまれ、かわいそうに思われました。また、あわれみを求める人々の声に耳を傾けられ、彼らをいやし、助けられた。そしてこのキリストのあわれみのきわみは、十字架の贖いの死において最も明らかに示されています。
  • 福音書に「かわいそうに思い」と訳されていることばがあります。それはギリシャ語で「スプランクニゾマイ」σπλαγχνιζομαιです。神のあわれみを表わす言葉です。このことばが出てきたあとには、必ずといっていいほど、具体的な何かが起こっています。マタイ福音書9章36節、15章32節、18章27節、20章34節。ルカ福音書7章13節、10章33節、15章20節を参照のこと。
  • 以上、これでザカリヤの賛歌をすべて味わい尽くしたわけではありません。しかし、この短い小さな賛歌の中に、これから主によってもたらされようとしている恵みの世界の豊かさを垣間見ることができるのです。なんとも驚くべきことです。
  • ザカリヤの賛歌の最後の節「暗黒と死の陰に座る者たちを照らし、われらの足を平和に導く」という部分は、あとの万軍賛歌とシメオンの賛歌で取り上げられる主題として取り置きたいと思います。


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