****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し完成します。******

天軍賛歌「グローリヤ」

5. 天軍賛歌 「グローリヤ」

angel

はじめに

  • プロテスタントの讃美歌(106番)や聖歌(138番)の「折り返し」部分には、「グローリア・イン・エクセルスィス・デーオ(Gloria in excelsis Deo)」ということばはが繰り返されて歌われますが、これはラテン語で、2章14節の御使いの賛歌の前半の部分だけです。後半の部分がなぜか歌われません。おそらく、後半の部分のことばは前半が4つのことばからなっているのに対して、後半は4つと3つで7つのことばからなっているからだと思われます。つまり、音楽の構造的な制約に収まり切れないためと思われます。しかし、カソリックのミサでは「通常文」のテキストとしてこの賛歌が歌われますが、その場合は14節のすべてのことばが歌われています。以下はラテン語のテキスト。
    Gloria in excelsis Deo いと高き所に、栄光が 神に
    Et in terra pax    (そして) 地の上に 平和が 
    Hominibus bonae voluntatis みこころにかなった人々に
  • 救い主誕生という喜びの知らせが、主の使いによって羊飼いたちに伝えられるや否や、天の軍勢が現われて、神を賛美する大コーラスが響きわたりました。御使いの賛美とはいかなるものか、そこに居合わせた羊飼いたちしか知りませんが、その内容を考えるなら、天の御使いたちが賛美した理由は二つあります。一つは天にある神の栄光のゆえです。もう一つはその栄光が地上に現された神のみわざのゆえです。

1. 天軍賛歌は「同義的パラレリズム」

  • この賛歌の特徴は詩篇にみられるように、ヘブル的パラレリズム(並行法)が使われているということです。つまり、2行からなる文節において、最初の行の内容が次の行で、別の言葉―同義的、反意的、総合的―で置き換えられる修辞法です。ルカ2:14のパラレリズムは、一見、反意的並行法に見えますが、実は、同義的並行法です。
  • この天軍賛歌2章14節の他の訳を見てみると、
    柳生訳では「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、神に喜ばれる人にあれ。」とあります。「みこころにかなう人々」と普通訳されるところを、柳生訳では「神に喜ばれる人」と訳しています。
    永井訳では「いと高きところには栄光神にあれ、また地上に平和、人には喜悦あれ。」と訳していますが、とても味わい深い訳です。永井訳では、新約にある「みこころにかなう」という箇所をすべて「悦ぶ、喜びを得たり、喜びとする」と訳しています。ちなみに、「みこころにかなう」と訳された「ユードキア」εύδοκίαは、新約で9回。動詞の「ユードケオー」εύδοκέωは新約で21回。good pleasure.
  • いずれにしても、「天にある神の栄光」と「地にある平和」と「人の喜び」がひとつに繋がっている、ひとつとなっていることが、この賛歌のすばらしいところと言えます。

2. 天における神の栄光

  • 「栄光」という言葉は神にのみふさわしい言葉です。英語ではグローリーglory、ギリシャ語では「ドクサ」δοξαです。「ドクサ」はヘブル語カーボードכָּבוֹדのギリシャ語訳です。「栄光」と訳されるカーボードの本来的な意味は「重い」ということです。つまり、永遠の重みのある事柄、重みのある神の世界を意味します。そうした永遠の神の重みが御子をとおしてこの世に現されたのです。私たちが御子イエスをとおしてこの神の重みに触れるとき、永遠の神の栄光にあずかるとも言えるのです。
  • 詩篇19篇1節に「天は神の栄光を語り告げ」とあるように、天においては、永遠に神の重み(栄光)がたたえられています。ヨハネの黙示録には、ヨハネ、四つの生き物、24人の長老、御使いたち、全被造物、主の花嫁が頌栄をささげています。そこには多くの頌栄用語―栄光(Glory)、力(Dominion)、誉れ(Honor)、感謝(Thanks)、力(Power)、富(Riches)、知恵(Wisdom)、勢い(Strength, Mighty)、賛美(Blessing)、救い(Salvation)―が見られます。7つの頌栄(1:6/4:9/4:11/5:12/5:13/7:12/19:1)の中で必ず登場する用語は「栄光」ということばのみです。ですから、これらの頌栄用語を「栄光」という一語で代表することができるかもしれません。つまり、「天は神の栄光を語り告げ」とあるのは、そこには、力も、誉れも、富、知恵・・といったことが含まれていると考えてもおかしくはないということです。
  • 神の栄光、すなわち、神にとっての「重い事柄」とは何でしょうか。それは、神が天と地を創造される前から持っておられた「重い事柄」です。それは、神が人とともに住むということではないでしょぅか。それはかつて「エデンの園」という形において実現しました。ところが人が罪を犯したことよって、エデンの園から追放されてしまったのです。だからといって、神の重い事柄である「神と人がともに住む」ことを神が放棄されたわけではありません。それをどのようにして回復し、実現するかを、神は長い時間をかけて、また選民イスラエル、あるいは教会を通して、幕屋、神殿、教会、御国、メシア的王国という概念を通して啓示されました。これらはすべて神と人が共に住む神の「家」の概念です。
  • その神の栄光(重い事柄)が、神の第二位格である御子をとおして、この地に現わされることが、地に平和(シャーローム)をもたらすことと同義と考えることが出来ます。そして地にいる人々が喜びを得ることができるのです。

3. 地には平和

  • 「平和」はギリシア語で「エイレーネー」είρήνηですが、これはヘブル語の「シャーローム」שָׁלוֹםの訳です。ちなみに、「シャーローム」の語源は動詞の「シャーレーム」(שָׁלֵם)で、神のご計画が完成する、実現するという意味があります。
  • 「シャーローム」は神の栄光の地的表現の総称ということができます。

    ①神、国、人に対してはそれぞれ「平和、和解、和平」
    ②個人的には「心の平安、平穏、安心、安全」
    ③商業的には「繁栄」
    ④肉体的、精神的には「健康、健全」
    ⑤生命的には「充足」
    ⑥学問的には「知恵」
    ⑥宗教的には「救い」
    ⑦究極的には「勝利」

  • こうした意味合いをもっているのが「シャーローム」です。永遠の神の栄光がこの地上に現わされるとき、そこには「シャーローム」が実現されていくのです。天の御使はこの「シャーローム」を喜ぶことができますが(ルカ15:7, 10)、それそのものを自ら経験することができません。なぜなら、御使は自ら悔い改めて御子による贖いにあずかることが出来ないからです。神の栄光にあずかり、シャロームを経験することができるのは、御子イエスを自分の救い主であることを信じる者たちです。
  • イザヤが預言した「平和の君」(イザヤ9:6)は、使徒パウロによって「キリストこそ私たちの平和」(エペソ2:13)と宣言されています。「平和」は福音の重要な事柄です。「平和」とは、天と地、神と人、ユダヤ人と異邦人など、人間の罪が作り出す「隔ての壁」を打ち壊して、二つのものを一つにすることであり、それを実現してくださるのがキリストです。
  • 天の軍勢によって、「いと高きところには栄光が、地には平和が」と語られたように、クリスマスの出来事―すなわち「救い主」の誕生は、御子イエスの誕生によって天と地がひとつに繋がることを告げ知らせているのです。つまり、天にある神の栄光が、御子によって地において実現するということの良き知らせなのです。キリストによってこそ、この宇宙にあるすべての「隔ての壁」が打ち壊されて、天と地が一つになることを、私たちは深く、重く、受け止めなければなりません。神の栄光はまさにそこに輝くのですから。


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