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マリヤの賛歌「マニフィカート」

3. マリヤの賛歌ー「マニフィカート」

Maria

はじめに

  • 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(1:46)で始まるマリヤの賛歌を瞑想します。
  • 「あがめる」と訳された動詞は「メガリューノー」μεγαλύνωで、本来、「大きくする」という意味ですが、そこから派生して、「ほめたたえる、尊敬する、目に見えるようにはっきりさせる、身をもって表わす」という意味にもなります。脚注
  • 1章49節にも、「大きくする、あがめる」という「メガリューノー」μεγαλύνωに関係する語彙が使われています。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」の「大きなこと」ということばは、大きさ表わす最大級のことば、「メガ」μεγα(三人称複数形は「メガラ」μεγαλα―great things)が使われています。
  • マリヤが、自分のたましいをもって、あるいは、自らの存在をもって主を「あがめ」ようとするその根拠は、一つは「主が自分に目を留めてくださった」からであり、もう一つは「力ある方が、私に大きなことをしてくださった」からです。マリヤが主を「あがめる」のは、すなわち、主を「大きくする」のは、主が私に「大きなことをしてくださった」ということと連動しています。
  • さて、主がマリヤに対してどんな「大きなこと」をしてくださったのか、そのことを思い巡らしてみたいと思います。

1. 聖霊による大いなる神のみわざ

  • メガ級の「大きなこと」の第一は、「聖霊による大いなる神のみわざ」です。すでに「アドベント瞑想No.2」で取り上げたように、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方があなたをおおう」という神のみわざです。御使いが「あなたはみごもって男の子を産みます。」と告知されたとき、マリヤは戸惑いました。「どうしてそのようなことがありえましょうか」と。これは不信仰ではなく、驚きの問いを表しています。その問いに答えたのが「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方があなたをおおう。」です。それゆえ、そのようなことが起こるのだと御使いは説明しました。
  • この時のマリヤの反応が驚きです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように。」(38節)でした。「はしため」と訳されたことばは、「ドーロス」δούλοςの女性形「ドーレイ」δούληです。つまり、「しもべ、奴隷」を意味します。
  • 「ほんとうに」と訳されたことばは、「見る(behold)」を意味する「イドー」ίδούが使われています。つまり、「よく見てください。私はあなたの奴隷です。」とマリヤはここで告白しているのです。しもべとは主人のいうことに従うべく定められた存在です。自分が「主のはしため」であるというアイデンティティと、主人の言うことに対して、「どうぞ、あなたのおことばどおりにこの身になりますように」との従順は同義です。マリヤは同じことを意味する表現を重ねることでそのことを強調しています。
  • しかも、彼女は処女です。処女とは乙女とも訳されますが、文字通りには、結婚していない身であり、まだだれかのものとなっていないきよさがあります。つまり、ここには主のおことばどおりになる道具(存在)として、自分の身を一生ささげようとする美しさがあります。「おことばどおり、この身になりますように」とは、神のご計画を実現する器として、「見てください。ここに私がおります。」という献身の心の現われです。自分の経験や能力を越えたあるがままの献身こそ、霊的な意味での「処女」と言えます。
  • マリヤが神の大いなるご計画のために自分の身をささげたときに、許嫁のヨセフに対しても神はうまく計らってくださいました。また、マリヤはシメオンから「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう」(ルカ2:35)と言われますが、当然のごとく、マリヤは神のために、神とともに自ら苦しむことを選び取ったとも言えます。
  • 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方があなたをおおう」という神のみわざによる処女受胎は、マリヤの神への献身という処女性と深く関連しているように思います。
  • 今は聖霊の時代です。使徒2章18節には、「その日には、わたしのしもべ(男性複数)にも、はしため(女性複数)にも、わたしの霊を注ぐ」とあります。聖霊は主にある私たちのうちに住み、私たちをとおして神ご自身のすばらしいご計画を実現なさろうとしています。つまり、マリヤと同様に、聖霊が私たちの上に臨み、いと高き方が私たちをおおっておられるのです。このことを信じて、マリヤが言ったように、「ほんとうに、私は主のしもべ(あるいは、はしため)です。どうぞ、あなたのおことば(ご計画)どおりにこの身になりますように」と応える者となること、これこそが、「わがたましいは主をあがめます(御名を大きくします)」という生き方です。

2. イスラエルに逆転をもたらす神のみわざ

  • 力ある神がしてくださった「大きなこと」の第二は、イスラエルの民に逆転をもたらす神のみわざです。御子イエスによってもたらされる変化についてマリヤは次のように預言しています。

    1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
    1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
    1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。

  • ここには主の御業による逆転があります。そこには二つの変化が見られます。一つは、「心の高ぶっている者を追い散らし、権力のある者を王位から引き降ろし、富む者を何も持たせないで追い返される」という変化。もう一つは、「低い者を高く上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせる」という変化です。
  • この世は、力、能力を持った者が尊重され、そうでない者は疎外されるという傾向があります。御子イエスはそうした世界に逆転をもたらしました。聖書は、「神は、高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与える」方とし、「高ぶりは破滅に先立つ」と述べています。事実、高ぶりのゆえに滅びに至った者がなん多いことでしょう。すべてのものは神から与えられています。自分のいのちも健康も、仕事も、必要な衣食住も・・です。ですから、私たちが高ぶって神を忘れることがないように、「気をつけよ。・・あなたの心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えよ。」(申命記8:11, 17, 18)との警告があります。
  • 人の価値は、社会的な地位(立場)や貧富にもよらず、また能力(学問)があるかどうかにもよりません。ただ神の御前にへりくだることのできる者だけが、神の恵みにあずかることができます。そのことをダビデは「神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた、悔いた心」と表現しています(詩篇51:17)。また使徒パウロは「神は、この世の知恵をはずかしめるために、あえて、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれました。この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」と述べています。この世で役に立たないと思われる者を、神はご自身のために役立つ者としてくださる方です。さらに、パウロ自身、「私は、キリストの力がおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」(コリント第二12:9)と述べています。こうした生き方の原型は御子イエスにあることは言うまでもありません。
  • 御子は、神でありながら、自らそれを捨てて、しもべの姿を取られました。そして、「心の貧しい者となり、罪に悲しむ者となり、柔和な者となり」(マタイ5:3~5)となられました。「幸いな者」とは神によってすべてが満たされる者のことです。そこに、逆転のみわざが世にあかしされていきます。私たちも、「キリストの力がおおうために」、自分の弱さを認め、そのことをむしろ喜び、誇る者でありたいと思います。

3. 神の民イスラエルに対する約束を実現される神のみわざ

  • 主がしてくださった「大きなこと」の第三は、神はイスラエルに約束したことを必ず実現してくださるということです。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」(54~55節)
  • 「語られたとおり」とは、神がひとたび約束されたことは決して忘れることなく、実現してくださるということです。私たちは自分が約束したこと、誓ったことを忘れてしまいやすい者です。しかし神がひとたび約束したことは、神は決して忘れません。いつも折にかなった助けの手を伸ばしてくださいます。「私たちは真実でなくても、主は常に真実である。主はご自身を否むことができない。」(テモテ第二2:13)と使徒パウロは言いましたが、「真実」とは、約束したことは必ず守るという姿勢に表われてきます。
  • 神の約束はすでに実現したものもありますが、いまだ実現していないことも多くあります。しかし必ず実現します。神の約束を信じて生きることの模範がマリヤでした。マリヤの親戚であったエリザベツは、マリヤに対して「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(1:45)と述べています。
  • 新改訳では「信じきった人」と訳されていますが、意訳です。原文では普通に「信じた人」という言葉です。「信じた人」というニュアンスと「信じ切った人」というニュアンスは少し違います。信じることにおいてのレヴェルの違いを感じさせます。しかし聖書の「信じる者は幸いです」という「信じる」は、普通に「信じきる」ことが求められています。
  • 「必ず実現する」とは、be a fulfillment, 完全な状態になることを意味します。ギリシャ語では、成し遂げることを意味する動詞「テレイオー」τελειόωの名詞形「テレイオーシス」
    τελείωσιςが使われています。つまり、このことばは完全な実現を表わす言葉です。新約ではルカ1:45とヘブル7:11の2回です。
  • 信仰の土台は、私たちの側の信じるという力の問題ではありません。それであるならば、「いわしの頭も信心から」ということになります。信心が大切なのではなく、神が、ご自身の約束をどこまでも果たそうとする変わることのない「神の真実」に対する信仰こそ、聖書がいわんとする信仰です。それゆえ、「イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」とは、「イエス・キリストの真実に対する信仰によって救われる」と換言することができます。神の真実による「テレイオーシス」があることをいつも心に刻みたいと思います。
  • 私たちの現実や力により頼むことなく、神の真実な約束によって生きることを選び取ることが求められています。その意味において、マリヤは神の真実に身を浸して生きたモデルと言えます。

脚注

ちなみに、「主の祈り」の中にある「御名をあがめられますように」の「あがめる」という動詞は「ハギアゾー」άγιαζωで、「聖なるものとする」「聖別する」「聖め別つ」という意味。したがって、「御名があがめられますように」とは、「あなたの名が聖なるものとされますように」という意味です。「聖なるものとする」とは、神としてのふさわしい価値と栄誉を認めることであり、神を神とすることです。


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