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受胎告知「アヴェ・マリア」

2. 受胎告知ー 「アヴェ・マリヤ」

受胎告知

はじめに

  • マリヤに対する受胎告知の記事の中から、二つの部分を取り上げて瞑想したいと思います。一つは、28節の冒頭にある御使いカブリエルのマリヤへの受胎告知の挨拶です。もう一つは告知の内容で、35節の「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(新改訳)ということばです。

1. 「おめでとう。恵まれた方」という挨拶が意味するもの

  • 「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」ではじまる御使いカブリエルのマリヤの受胎告知の挨拶に注目したい。「アヴェ・マリヤ」ということばの出典はここにあります。「アヴェ」とはラテン語の挨拶用語です。
  • さて、28節の「おめでとう」という訳語は、聖書の中で後にも先にもー旧約時代にも新約時代にもーここルカ1:28のみです。新改訳、新共同訳、口語訳はこぞって「おめでとう」と訳しています。原語のカイローχαίρωは、「ご挨拶申し上げます」、「こんにちは」等の挨拶用語ですが、ここでは訳者は意図的に「おめでとう」という訳語を当てているのです。当然、ほかの挨拶とは異なった挨拶だと考えているわけです。ちなみに、他の聖書の訳を見てみると以下のようになります。
  • 〔フランシスコ会訳〕
    「恵まれた者、喜びなさい。主はあなたとともにおられます。」
  • 〔岩波訳〕
    「喜びあれ、恵まれた女(ひと)、主があなたと共に」
  • 〔永井訳〕
    「慶(めでた)し、恵まれた者よ、主は汝と共に〔おわす〕、汝は婦のうちにて祝せられたる者〔なり〕。」
  • 〔山岸訳〕
    「喜べ。(こんにちは)。恵まれた女よ。主があなたと共におられる。」
  • 〔柳生訳〕
    「神に恵まれる者よ。なんじに祝福あれ。」
  • 〔バルバロ訳〕
    「あなたにあいさつします。恩寵に満ちたお方。主はあなたとともにおいでになります。(あなたは女の中で祝福された方です)」
  • 「おめでとうχαίρω、恵まれた方χαριτόω。主があなたとともにおられます。」(新改訳、新共同訳)にある原語のカイローχαίρωの本来的な意味は「喜ぶ」ということです。「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従する」と言って喜んで報告するイエスの弟子たちに向かって、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言いました。働きによる喜びではなく、天に名が書き記されているという存在論的な喜びを重視して言われました。使徒パウロはピリピ書の中で、この「喜ぶ」という動詞も名詞も共に鍵語として使っていますー1:18/2:17, 18/2:28/3:1/4:4/4:10参照―。その喜びの根拠は、神の一方的な好意にあずかったがゆえです。新しい恵みの時代が到来し、すべてのものが天に名が記される恵みが到来したことを意味しています。
  • カイローχαίρωの名詞形のカラχαράは59回。クリスマスの記事の中ではマタイ2:10、ルカ1:14, 2:10で使われています。他に、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、天にある神の御使いたちに喜びがわき起こる。」(ルカ15:7, 10)とあるように、「喜び」を表わす語彙です。
  • このように、マリヤに対して御使いが「おめでとう」と言ったことばは単なる挨拶程度のものではなく、全く新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶と言えます。それは、これに続くことばー「恵まれた方」と訳されたカリトオーχαριτόω(新約聖書では2回、ルカ1:28とエペソ1:6)によって補強されています。
  • マリヤだけが特別なのではありません。私たち一人ひとりも主にあって祝福される新しい時代が到来したのです。恵みの時代がきているのです。それゆえに、私たちはいつも互いに喜びをもって「神の一方的なご好意にあずかったあなたに、さらなる祝福がありますように」と挨拶し合いたいものです。

2. 聖霊の産出としての受胎

  • 35節の「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(新改訳)という御使いガブリエルが語ったことばに注目してみたい。
  • このことばは、ユダヤの特徴的な修辞法である同義的並行法が用いられていて、「聖霊があなたの上に臨む」ことと「いと高き方の力があなたをおおう」こととは同義です。前者は「聖霊」が臨み、後者は「御父」の力が覆います。また「生まれる者」(御子)が、「聖なる者」であることと「神の子」であることとは同義です。
  • 参考までに、他の聖書の訳を挙げておきます。
  • 〔新共同訳〕
    「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
  • 〔柳生訳〕
    「聖霊がなんじに臨み、いと高き者の力がなんじを蔽うであろう。それは、生れ出ずる子は聖なるものにして、神の子と呼ばれるであろう。」
  • 〔岩波訳〕
    「聖霊があなたの上に到り来て、いと高き者の力が(その影で)あなたを被うであろう。このゆえに、生まれ来るものも聖なるものと呼ばれ、神の子と(称せられ)るであろう。」
  • 〔永井訳〕
    「聖き霊汝の上に来たり給はん。また至高者の力汝を蔽ふべし。かるが故にその生まるる聖なるものも、神の子と称えられ給ふべし。」
  • 新改訳で「臨む」と訳された言葉は、エペルコマイέπερχομαι 「上に」を表わすエピέπιと「来る、やって来る」を表わすエルコマイερχομαιが結びついた動詞です。つまり、人の上にやって来て、そこにとどまり、その人のうちに作用することを意味します。使徒1:8に同じ言葉が使われています。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」と。「聖霊が臨む」とは「力を受ける」ことと同義です。そして、ここにある「力」とはイエスの証人(殉教者)となる力を意味します。
  • 「おおう」と訳されたことばはエピスキアゾウέπισκιαζωです。このことばは、雲に包まれること(マタイ17:5、ルカ9:34)、だれかに影がかかることを意味します。70人訳聖書で詩篇91:4「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる(―全能者の陰に宿ることを意味する)」の「おおわれる」にこのエピスキアゾウが当てられています。また、出エジプト40:35「栄光の雲が会見の天幕をおおったために、モーセは会見の天幕に入ることができなかった。」も同様です。
  • 35節には、三位一体なる神の啓示があります。つまり、「聖霊」という神の第三位格、「いと高き方」という第一位格の「御父」、そして「神の子」という第二位格の「御子」がここに示されています。これらの三つのペルソナ(位格)は永遠に一つであり、それぞれが単独で存在することはありません。つまり、御子のいるところには、聖霊がおり、御父がいます。御子イエスの全生涯においてーその誕生から十字架と復活、昇天のすべてにおいてー御父と御霊はともにいるのです。これは、御子がこの地上にこられることよってはじめて啓示されたことでした。
  • 「みごもる」(31節)とは、マリヤに聖霊が臨んで、いと高き方の力がおおうことによってなされました。それゆえに、生まれる子は「いと高き方の子、神の子」と呼ばれるのです。「神の子」とは御父の子を意味します。すなわち「御子」です。御父と御子の特別な関係を表しています。しかも、「神の子」であるとは「聖なる者」を意味します。「聖」とは区別されることを意味します。つまり、私たちとは異なる存在という意味です。どこが異なるかと言えば、神性と人性とが完全にひとつとなっている存在(「インマヌエル」とも言う)であるという点です。実にユニークな存在、その受胎、その存在そのものが全くユニークなのです。これは「聖霊のプロダクト(産出)」です。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」―そのような存在がマリヤの胎に宿ったのでした。
  • 旧約時代では、聖霊はごく限られた人々にしか与えられていませんでした。その意味では、クリスマスの記事に登場する人々―ザアカイ、エリザベツ、バプテスマのヨハネ、シメオン、マリヤらは旧約最後の人々と言えます。しかし、聖霊によるプロダクト(産出)としての御子イエスの生涯を通して、御子イエスにつながるすべての人々に神の賜物としての聖霊が注がれる時代が今や到来しようとしているのです。その出来事がイエスの復活後50日後の「ペンテコステ」です。

画像の説明

3. 御子イエスと聖霊のかかわり

  • イエス・キリストは、地上の全生涯を通じて、聖霊の助けを受けられました。このことはきわめて重要なことで、神でありながらも、その神性を捨てて、人として生きることを選ばれた御子イエスは、すべてのことにおいて、聖霊の助けを受けられたのです。

(1) 御子の誕生は、聖霊の産出でした

  • 御使ガブリエルはマリヤに対して、彼女から生まれ出る御子は、聖霊によってその胎に宿ることを告げました(1:35)。神はヨセフにもマリヤの胎に宿る子は聖霊によることを示されています(マタイ1:20)。このことのゆえに、御子は神であると同時に人であることができ、「インマヌエル」と呼ばれるのです。この真理がなければ、福音は台無しになってしまいます。
  • イエスは単なる偉大な愛の実践家にとどまっているならばーそれはすばらしいことですがー、だれかのいのちを救うことができても、人類の罪を背負い贖うことはできません。人間の罪を完全に、しかも一回的に犠牲となって贖うためには御子イエスが完全な神であると同時に、人でなければならないのです。それゆえ、御子イエスの神性と人性、これは私たちの救いにとって欠かすことのできない真理です。これを御子のうちに実現してくださったのが御父から遣わされた聖霊(御霊)です。

(2) 御子イエスは聖霊の油注ぎを受けられました

  • 御子イエスは「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」(ヨハネ5:19)と宣言されました。そうした生き方や働きのために、御子は聖霊の油注ぎを受けられました。イエス自身、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから」(ルカ4:18)というイザヤ書の預言を引用することによって、この事実を確信しておられます。
    このことは、「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。「このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし・・」と記されている使徒10:38によっても確証できます。
  • イザヤ書11章1, 2節には「エッサイの枝から一つの芽が出、・・その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」とあります。また、同42章1節では「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選ぶ人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。」と。さらには、詩篇45篇7節に「それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたに注がれた」とあり、ヘブル書1章9節に引用されています。詩篇2:6には「しかし、わたしは、わたしの王を立てた(王に油を注いだ)。わたしの聖なる山シオンに。」と読むことができます。

(3) 聖霊は御子のうちに住まわれました

  • 御子イエスがバプテスマをお受けになったとき、聖霊がイエスの上に下って、その上にとどまられたと書かれています(ヨハネ1:33)。これは、御子イエスが公生涯に入られるとき、その使命を完遂することができるように、いっそう明確な形で、聖霊が御子の上に注がれたと考えられます。聖霊は御子のうちに住み、キリストとともに働かれました。御子は折にふれて御父がご自分のうちにおられると言われました(ヨハネ10:38/14:11)。神の御霊は御子のうちに住まわれたように、私たちの心にも神の御霊が住まわれるのです。

(4) 御子は聖霊に満たされていました

  • ヨハネ3:34によれば、御父は御子に御霊を無制限にお与えになられました。ルカ4:1にも御子イエスは聖霊に満たされてヨルダン川から帰って来られたとあります。それゆえ、口を開けば御父のことばを語ることが出来、御父のみこころをなすことができました。それは御霊に満たされていたからです。

(5) 御子は聖霊の力を帯びておられました

  • 御子イエスは、聖霊に満たされたときには心の奥底から生ける水が流れ出るようになり(ヨハネ7:38)、その力が外部に現われるようになると言われました。ルカ4:14によれば、御子イエスは御霊の力を帯びてその地上におけるすべてのわざを成し遂げられたのです。たとえば、悪霊ども追いだしているのは神の御霊によるのであると、御子ははっきりと言明されています(マタイ12:28)。また御子は、ご自分のうちにおられる御父がそのわざをしておられるのであるとも付け加えています(ヨハネ14:10)。

(6) 御子は聖霊に導かれておられました

  • 「イエスは・・御霊に導かれて荒野におり、40日間、悪魔の試みに会われた。」(ルカ4:1, 2)とあります。この御霊の導きは御子イエスの生涯を通じて見られます。御子イエスはいつも御霊によって教えられ、御霊によってあらゆる真理に導かれておられました。そのために、御父は御子の上に、「知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊をとどまらせてくださったのである。」(イザヤ11:2)。

(7) 御子には御霊の実があふれておられました

  • 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。」(ガリラヤ5:22, 23)。御子イエスのみがこれらの徳性を全部を完全に所有しておられました。御霊が関与しておられたからです。

(8) 御子は聖霊によってよみがえらせられました

  • 御子を墓の中からよみがえらせたのも神の御霊の力でした。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)。神の御霊は御子のうちに住んでおられて、御子をよみがえらせてくださったのです。


むすび

  • 御子の誕生の前から、その死後に至るまで、言い換えるなら、その地上の全生涯を通じて、御子は御霊の助けと力を必要とする道を選ばれました。このことから、二つの重要な結論を引き出すことができます。

(1) 御子イエスは地上に下って来られた神であられたが、また完全な人となって、自分自身からは何事もなさらなかったということ。

(2) あらゆる比類なき偉大さを備えておられた生ける神の子は、一日たりとも、御霊の助けなしに行動することをなさらなかったということ。

  • とすれば、罪に汚れた力のない存在である私たちが、その同じ御霊の臨在と満たしなしにクリスチャン生活を生き抜くことはできません。まことに、御子イエスは、聖霊によって誕生し、聖霊による油注ぎと認証を受けられたこと。その御霊は御子のうちに住み、御子を満たしておられたこと。御子のうちには御霊の実があふれていたこと。御子は御霊の力を帯び、御霊に導かれておられたこと。そして、御子がご自身を犠牲としてささげ、死者の中からよみがえらせられたのも御霊によってであったことを知らなければなりません。そしてこの御子イエスにしっかりととどまらなければならないのです。そして「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(ヨハネ第一、2:6)
  • これらのことが私たちにとって生きた現実となっているか、それこそが、これからの私たちの霊性にかかわる問題であると信じます。


付記
You tube で以下の曲を聞くことができます。
(1) シューベルトの「アヴェ・マリア」
(2) カッチーニの「アヴェ・マリア」
(3) グノーの「アヴェ・マリア」


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