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預言された一つのしるしー「インマヌエル」

1. 預言された一つのしるしー「インマヌエル」

1. マリヤの懐妊を知ったヨセフの恐れ

  • 19節に「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にしたくはなかったので、内密に去らせようと決めた。」とはどういうことでしょうか。このヨセフの決断の背景には、ヨセフが許嫁のマリヤから「聖霊によって」懐妊したことを聞かされたという前提があります。しかし果たしてそのことを誰が信じることができるでしょう。ヨセフが恐れたのはもっと差し迫った現実的な問題でした。マリヤはヨセフにこのことを伝えたことでいくらか心が軽くなったに違いありません。しかしヨセフは逆に大きな重荷をかかえることになったのでした。ここでヨセフについてスポットを当ててみたいと思います。

(1) ヨセフが「正しい人」であったとは
①律法(トーラー)に忠実な者、厳格な人。
②神とのかかわりが「義しい人」(岩波訳)、あるいは「曲がったことのきらいな性格」(L.B)を意味します。

(2)「彼女をさらし者にはしたくなかった」とは
①他の男と関係をもった娘をめとることは、律法が禁じていました。
②このまま婚約を続けていれば、マリヤは不貞を犯したということで周りから責められ訴えられることになります。不貞の罪は石打ちで処刑されるのが律法の定めでした。

  • 新改訳の「さらし者にはしたくなかった」とは、柳生訳「表ざたにするにしのびず」、新共同訳、フランシスコ会訳「表ざたにするのを望まず」、山岸訳「公に暴露したくなかった」とあります。これはヨセフのマリヤに対する愛のゆえであったと思われます。

(3)「内密に去らせようと決めた」とは
①マリヤに対する愛のゆえに、ヨセフは彼女との婚約をひそかに解消して、縁を切って別れる決断をしたということ
②しかも二人が遠く離れて会えない状態にすること
③マリヤには内緒で、すべてを内密に済ませるつもりでいたということ。
④このヨセフの決断は、自分が愛し、大切に思っていた彼女を失うことを意味していました。

  • 岩波訳「ひそかに離縁しようと思った」、柳生訳「ひそかに彼女との婚約を解消しようと考えていた」、フランシスコ会訳「ひそかに離縁しようと決心した」、新共同訳「ひそかに縁を切ろうと決心した」
  • 以上のようなことをヨセフは「思い巡らしていた」(柳生訳「思い悩んでいた」)のです。これはヨセフのマリヤに対する愛と責任感の強さを物語っています。

(4) 夢のなかで
「主の使いとヨセフ」・・興味深いことに、主の使いがヨセフに語るときには、いずれも「夢の中」に現われて語っています。4回―1:20~23/2:13/2:19~20/2:21。しかも、ヨセフは夢の中で語られた主の使いのことばになんのためらいもなく素直に従っています。この従順さこそヨセフの特質と言えます。「おことばどおりこの身になりますように」というマリヤの従順がたたえられることが多いのですが、ヨセフのそれはマリヤに決してひけを取らぬほどです。

  • しかしなぜ、ヨセフに対する主の使いは「夢」の中に現れるのか不思議です。しかも主の使いがヨセフに一方的に語るという点でも一貫しています。祭司ザカリヤにしても、処女マリヤにしても、羊飼いにしても、主の使いが現われていますが、夢の中ではなく、みな目に見える形で現われています。使徒ペテロに対しては、御使いはわざわざ寝ているペテロを起こして語りかけています(使徒12:7)。それなのになぜヨセフだけが特別に夢の中なのか謎です。
  • ヨセフという名は、旧約聖書では創世記37章以降の主人公で、父ヤコブから偏愛された子の名前でした。後にエジプトの宰相となって父ヤコブと自分の兄弟たちを救うことになる人物ですが、彼は「夢解きの名人」でもありました。彼だけがなぜ特別に夢の中でメッセージが告げられるのかは、ひょっとしてこのことを想起させているのかもしれません。
  • しかし、いずれにせよ、ここで重要なことは、ヨセフが主の使いのことばを信じて、素直に、即座に、従ったという事実です。ヨセフに対する主の使いのことばは、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」でした。到底、理性では理解出来ないことをヨセフはそのまま受け入れたことは驚くべきことです。マリヤに勝るとも劣らないヨセフの神への信頼、信仰の姿勢のすばらしさに気づかされ、あらためて感動させられます。

2. 「主の使い」が語った二つの名前

  • 主の使いが現われることで、マリヤが聖霊によってみごもったことをヨセフは再確認させられることになりました。そして、御使は生まれてくる男の子の名を「イエス」とつけるように命じ、しかもその子は「インマヌエル」と呼ばれると言いました。。

(1) 「イエス」のという名の意味
「イエス」という名は旧約聖書に登場するモーセの後継者ヨシュアのギリシア語訳「イエスース」から来ています。ヘブル語では「イェシュア」で、「主は救い」という意味です。旧約時代において、モーセはイスラエルの民をエジプトから救い出しましたが、イエスはその30年の生涯においてイスラエルの2千年の歴史をもう一度踏み直すという意味がこの名前に込められています。イエスはイスラエルの民に対する「第二のモーセ」なのです。

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(2)「インマヌエル」という名の意味
「インマヌエル」という呼び名は、イザヤ書7章にあるように、当時のユダの王アハズに語られたもので、神は信頼に足るお方であることを、神みずからあかしするひとつのしるしとして付けられた呼び名です。この呼び名は「神は私たちとともにおられる」という意味ですが、それは本来、状態を意味するのではなく、「神性と人性が共にある存在」という意味です。神と人とが一つになったユニークな存在で、その存在の神からの「しるし(サイン)」は「処女から産まれる男の子」でした。

  • ただし、インマヌエルであるお方がこの世において歩まれる時には、神としてのあり方を捨てて、全く人として歩まれました。しかもその人としての歩みは「貧しい者として」、「弱い者として」歩まれました。貧しいのですから、神に依存しなければなりませんでした。弱いのですから、神の守りに依存しなければなりませんでした。神のことを伝える力も語る言葉も、すべて御父からいただかなくてはなりませんでした。御父のあわれみを人々に示すときにも、御父と御霊を信頼し、依存して歩まなければなりませんでした。それは御子自ら選ばれたことでした。人となられた御子イエスこそ、完全に御父に信頼して生きるモデルとなられました。そして、神と人とがともにある祝福を自分の身をもってあかしされました。

3. インマヌエルの預言の歴史的背景とその祝福

  • 「インマヌエル」の預言がなされた歴史的背景を知るならば、この名前の意味がより深く理解できます。イエス誕生の約700年前、アッシリアが一躍、世界の大国となったとき、それは中東の地域に大きな脅威をもたらしました。隣接するアラムは北イスラエル王国と反アッシリア同盟を結び、ユダの王アハズにも同盟を呼びかけました。しかしユダ王国のアハズ王はその呼びかけを断ります。そのために反アッシリア同盟軍が押し寄せて来るという情報が伝えられたときの状況が、「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」(イザヤ7:2)と記されています。L.B訳ではこの箇所を「王も民も震え上がり、暴風にゆさぶられる木々のようにおののきました」と恐れの強度を最大限に訳しています。
  • そこで主は預言者イザヤを遣わし、アハズに「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・心を弱らせてはなりません」と語り、同盟軍の滅亡を告げます。そして、アハズが静けさへの招きに答えることができるようにと神は次のように提案しました。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」(7:11)と。このフレーズの後半のことば「よみの深み、あるいは、上の高いところから」の意味は、どこであれ、どんなしるしであれ、それを行なうと請け負う神の決意を表しています。「よみ」とはここではアッシリアやエジプトを表わす隠喩、それゆえ、7:11のことばは強国アッシリアやエジプトのような人間的な力に信頼するか、それとも高い天に住む神に信頼するか、その選択の決断を迫るものでした。
  • ところが、これに対してアハズは「私は求めません。主を試みません。」と答えます。一見これは信仰深い人の反応のように見えます。しかしそれを聞いた預言者イザヤは、「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。」とアハズを非難しています。アハズがしるしを求めない真意は、すでに彼がアッシリアの軍事力に依存して、危機を乗り越えようと決意していたからでした。これは神をないがしろにする行為だったことは言うまでもない。
  • 預言者イザヤがアハズに語ったことは、神を絶対的に信頼せよということでした。アハズは神が支配する国の王であったにもかかわらず、危機的な状況において、神を信頼する事ができませんでした。王が信頼できなければ、その民も信頼できなくなります。王の心も民の心も「林の木々が風で揺らぐように動揺した」のは、人間の根源的なニーズである防衛の保障において神を信頼する事ができなかったゆえです。
  • 信頼すべき確かなしるしとして神自ら与えるしるし、これこそ7章14節の「インマヌエル預言」です。この預言は、人間の深いところにある生存と防衛を脅かす「恐れ」から解放する神の永遠の保障のしるしなのです。
  • 神の忠告は「信じなければ、あなたがたは確かにされない」ということでした。つまり、「神のことばに立って自分を確かにしなければ、確かにされない」という意味です。アハズに求められた「静けさ」は人間が作り出せる落ち着きではなく、神からくる「静けさ」です。
  • ちなみに、B.C.701年にはアッシリアの王セナケリブによるエルサレムの包囲がありました。そのときにもイザヤは「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と語っています。神のことばに立ち帰り、安らぎに入るなら、救いが現実となり、人間の思いや計算に立たずに、神に静かに信頼するとき、事態を乗り越える力が与えられることを意味しています。このようなイザヤが説く「静けさ」は神から来る力です。

4. 神の民の罪を救うとは

  • 神の民の罪とは、このようにアハズに代表される神への「不信の罪」です。神を信頼しない罪、この結果、やがて神の民はバビロンによって国を失い、捕囚の身とされます。後に解放されますが、それからというもの、ペルシャ、ギリシャ、ローマによって支配され続けました。そうした支配から救うために、神は第二のモーセをお遣わしになられました。それが「イエス」です。またその方は、神の確かな救いの「しるし」としての、イザヤが預言した「インマヌエル」と呼ばれる方でした。
  • かつて、ユダの王アハズとその民は神を信頼できなかったばかりに、せめて来るアラムと北イスラエル(エフライム)の軍勢に対して、恐れのゆえに、「林の木々が風で揺らぐように動揺」しましたが、預言者イザヤのいう「静かにしていなさい。恐れてはなりません。」という神からのメッセージを受け取ることができなかったのは、袖の下を使ってアッシリヤに援助を求めたからでした。この不信の罪こそ、神に対する罪の中で最も大きい罪です。神がご自身を現される民として選ばれたにもかかわらず、神の言われることに信頼できない罪こそ、イスラエルの神の民が犯した罪であり、神の民だけでなく、すべての人間が持っている罪です
  • 神はこのような現実の中に、再び、神を信頼できる道を造るために、「インマヌエル」という最後の切り札をお遣わしになられたのです。もし、私たちがこの方を信じられなかったとしたら、もう救いのカードはありません。そのような意味での最後の「切り札」なのです。言い換えるなら、「インマヌエル」と呼ばれるお方こそ、私たちにとっての大きな唯一の希望の光なのです。


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