人の霊(2)
シリーズ「霊の中に生きる」 No.2
人の霊(2)
べレーシート
●今日は、前回から始まったシリーズ「霊の中に生きる」の第二回目です。このシリーズは乳を飲んでいる幼子のための教えではなく、大人のための堅い食物の教えです。聖書はこれを「義の教え」とも言い、成熟を目指して進むための教えです。ですから一度聞いて分かるような話ではなく、何度も繰り返して噛むことで、はじめてその食物の味わいが深まってくるような教えです。本来ならば、前回した話を再度話したいほどですが、私のHP「牧師の書斎」にアップロードしてありますので、ぜひそれをプリントするなり、あるいはクリックするなりして読んでいただきたいと思います。そうするならば理解はより深まって来ると思います。ただしこれまでの「理解の型紙」を持って読むならば、理解することは難しいのです。なぜならイェシュアのことばは「霊であり、いのち」だからです。イェシュアのことばが意味するためには、イェシュアの霊と同じ霊をもって聞かないと周波数が合わず、語っている真意を理解することはできないのです。聖書の最高の教えは「霊の中に生きる」ことです。復活されたキリストは今や「いのちを与える御霊」となって、私たちの霊の中におられます。そのことを信じて、ますます神のみことばを悟ることができるように、お祈りしてから始めたいと思います。
1. 「神の霊」と「人の霊」
●ヨハネの福音書においては、「神の霊」と「人の霊」が繰り返し述べられていますが、この区別を明確に理解している人は少ないと思います。ちなみに、インターネットで「人の霊」を検索するなら、多くが「幽霊」の意味で出てきます。クリスチャンであっても正しく理解はしていないのです。ヨハネの福音書から三つの箇所を取り出してみたいと思います。
(1)【新改訳2017】ヨハネの福音書 3章6節
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
●【回復訳】では「その肉から生まれるのは肉であり、その霊から生まれるのは霊である」と訳しています。こちらの方が原文に近いです。「御霊」(原文では「その霊」となっており、冠詞付きの「霊」)と訳されているのは「神の霊」です。しかしその後にある「霊」(原文では冠詞なしの「霊」)は「人の霊」のことです。
●御霊によって生まれる、つまり再生されるまでの「人の霊」は機能不全を起こして、死んだようになっています。しかし「神の霊」が「人の霊」の中に入って来ることによって、人の霊は再生され、いのちを持つようになるのです。このことが「御霊によって生まれた者は霊です」という意味です。「人の霊」が「神の霊」によって機能を回復されることを「新しく生まれる」と表現します。しかし「肉によって生まれた者は肉です」とある「肉」とは、肉体という意味ではなく、人の「たましい」と「からだ」の部分を意味しており、「人の霊」は機能不全を起こしたままの状態です。ですから、人が新しく生まれて神の国を見るために、肉(=生まれながらの人)は何もできないと言っているのです。人は「たましい(心)とからだ」の二つの部分から成っているのではなく、「霊とたましいとからだ」の三つの部分から成っています。
●「神の霊」と「人の霊」の区別を知ることは非常に重要です。「神の霊」とはイェシュアが死から復活して「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)となられた、その御霊のことです。そしてイェシュアが弟子たちの前に現われて、息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と言われたことで、その御霊がはじめて「人の霊」の中に入ることができ、「人の霊」にいのちを与えるものとなったのです。このことにより、三一の神が「人の霊」の中に入って来ることによって、神が人の中にともに住むということが可能となったのです。このことの予型がすでに旧約時代の「幕屋」にありました。出エジプトしたイスラエルの民に神はモーセに対して「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただなかに住む」(出25:8)と言われました。「住む(とどまる)」というヘブル語は「シャーハン」(שָׁכַן)といいますが、この動詞の主体は3人称単数です。つまり神がイスラエルのただ中に住まわれるのです。その型の本体はイェシュアによって実現しました。つまり、「神の霊」が私たちの霊のただ中に入ってくることによって、それまで機能不全だった「人の霊」を回復させてくださり、「神の霊」と「人の霊」がいのちの交わりをすることができるようにしてくださったのです。神と人の交わりの場は、「人の心」ではなく、「人の霊」です。そこは神の敵サタンが決して入り込むことのできない「シークレット・プレイス」(secret place)であり、幕屋では「至聖所」に相当します。
(2) 【新改訳2017】ヨハネの福音書 4章24節
「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
●上記のことばは、礼拝を受けられる神が霊であるから、神を礼拝する人も霊によって神を礼拝しなければならないことを述べています。心で神を礼拝しても、真の礼拝とはなりません。心は生来の考えや感情を含んでいるからです。「人の霊」で神を礼拝するとは、そこが神の霊とミングリングしていなければなりません。キリストのすべてをもって礼拝することを神は求めておられるのです。人の勝手な思い込みや熱意で礼拝されることを神は良しとはされないということです。
(3) 【新改訳2017】ヨハネの福音書 6章63節
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」
●特に後半の「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」ということばは重要です。つまりイェシュアが語る話を神の霊によって聞くのではなく、私たちの心で聞くなら正しく理解することはできませんし、いのちに至ることはないということです。そればかりか、かえって死をもたらすことにもなるということです。イェシュアのことばを「霊で聞く」のと、「心で聞く」のとで、その理解は真逆となってしまうということを試してみたいと思います。その前に、聖書は神の息吹によって記されたものです。そしてその聖書はイェシュアについて証ししているということです。永遠のいのちを得ようと思って(考えて)、多くのものたちが聖書を読んでいますが、それでは永遠のいのちを得ることができないのです。なぜなら永遠のいのちとはイェシュア自身のことで、彼が人の霊の中に入らないと得ることができないからです。イェシュアは「聖書(=旧約聖書)は、わたしについて証ししている」と言いましたが、そのことばも「霊であり、いのち」です。そのことを私たちに示すのが実は聖霊なのです。
2. 「霊」で読むことと「たましい(心)」で読むことの違い
【新改訳2017】ルカの福音書10章25~37節
25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
①A「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」
②B「律法をあなたはどう読んでいますか」
③A「『・・あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』」
④B「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
⑤A「では、私の隣人とはだれですか。」
⑥B そこで、イェシュアは「良きサマリア人のたとえ話」をします。
「三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
⑦A 「その人にあわれみ深い行いをした人です。」
⑧B 「あなたも行って、同じようにしなさい。」
●特に最後の37節のイェシュアのことば、「あなたも行って、同じようにしなさい。」をどう聞くかということです。「良きサマリア人のたとえ」をたましい(心)で聞くなら、「あなたもサマリア人のようになりなさい」という話になります。多くの教会が倫理道徳の話として教えていますが、このことばも「霊であり、いのち」です。このことばを霊で聞くならどういうことになるでしょうか。質問は「私の隣人とはだれか」。律法の教えは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。「私の隣人はこのサマリア人であり、このサマリア人を自分自身のように愛すること」なのです。サマリア人はこのイェシュア自身なのです。これを自分の隣人として愛することが永遠のいのちを得ることなのです。なぜイェシュアを愛することができるかと言えば、イェシュアが霊となって私たちの霊の中に入ってくださることによって、神との交わりが可能となっているからです。
●実はこのたとえ話には大切なことが一つ隠されています。しかし私たちはそのことになかなか気づきません。律法の専門家は自分の正しさを示そうとして「私の隣人とはだれのことですか」と質問しました。その質問からイェシュアがこのたとえを話したのですが、彼はこのたとえ話に出て来る「強盗たちに襲われた人」が自分だとは微塵も考えていないという点です。
●山上の説教の冒頭に「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(5:3)とあります。「心の貧しい者」と訳されていますが、原文では「霊の貧しい者」となっています。人の霊が貧しいとは霊の機能が十分に果たされていない状態で、自分の霊が機能不全であることを自覚している者のことです。そしてその者は「幸いです」とイェシュアは言っています。なぜなら、自分の霊が貧しいことを自覚している者だけが、天の御国がその人のものとなるからです。自分の心が満たされていると思っている人は、神の賜物を受け入れようとはしないからです。逆説的な修辞法です。
●ヨハネの福音書9章に「生まれつきの盲人」の話があります。
【新改訳2017】ヨハネの福音書9章1~3, 7節
1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。
2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」
3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。
●イェシュアは「生まれつきの盲人」をいやしました。このことを知った人々はどのようして目が開いたのか聞きました。「イェシュアという人が・・・のことをすると目が見えるようになった」と、彼は告げました。これを聞いた人々はパリサイ人のところにこの人を連れて行ったのです。実は、この奇蹟がなされたのは安息日でした。ですから、パリサイ人たちは自分たちの理解の型紙によって「安息日にそのようなことをするのは、メシアなんかではなく、神から出たのでもない。安息日を守らないからだ」「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と言って、いやされた人を外に追い出したのです。彼を追い出した者たちに対してイェシュアは以下のように述べられました。
【新改訳2017】ヨハネの福音書9章39~41節
39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
●自分たちは盲目なのに「自分の目が見えている」と言っている。そのような人たちの罪は残ると。霊的に盲目なのに、自分は見えていると思っている。パリサイ人とはそのような人の象徴です。彼らは自分の理解の型紙をもって神の世界のことを見ているので、真実を見ることができないのです。実は「霊が貧しい」のにそのことに気づいていないのです。同じくパリサイ人であったパウロもそういう人でした。その彼がこう言っています。
【新改訳2017】Ⅱコリント人への手紙5章16~17節
16 ですから、私たちは今後、肉にしたがって(=人間的な標準で)人を知ろうとはしません。かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
●パウロは、今後、肉(自分の心―知性、感情、意志)にしたがってキリストを知ろうとはしないと堅く決心しています。キリストのことを外面的なもので、表面的な視点で知ろうとしないということです。それはパウロが「霊の中で生きる」ことを決心したからにほかなりません。キリストにあって「すべてが新しくなった」ということも、生来の心で理解していると、何も変わっていない自分を見て、失望することになります。それは霊的な事柄を自分の心が判断してしまうからなのです。新しく造られた者とは「霊によって生きる者」のことなのに、霊で始まったにもかかわらず、いつの間にか自分の心で生きるようになってしまっていることに気づかないのです。心は曲者です。心で知ろうとしてはいけないのです。なぜなら、私たちが霊によって生きるために神の御子であるイェシュアが受肉して、聖霊によって私たちを取り込み、死と復活によって「いのちを与える霊」となり、私たちの霊の中に入ってくださって神とともに生きるようにしてくださったからです。
●イェシュアは死からよみがえられたとき、「いのちを与える御霊」となり「人の霊」の中へと入っていのちをもたらしました。私たちは霊の中にいのちを持つことで新しく生きる者となったのです。そのことをパウロは「キリストにあって新しく造られた者」と呼んでいます。つまり神に「創造された者」ということです。この「創造した」ということばは、聖書の冒頭にある「天と地を創造した」の「創造した」と同じ語彙です。つまり神によってのみなされる「創造する」という動詞が、ここでは名詞として使われています。
3. 「聖霊」というお方
●さて、今回は「聖霊」という語彙に注目してみたいと思います。イェシュアは十字架の死から三日目によみがえられました。その復活の朝(=週の初めの日に)、イェシュアは秘密の昇天をし、その日の夕方、隠れるようにしていた弟子たちの所に現われ、「平安があなたがたにあるように」と二度言われました。このイェシュアのことばも単なる挨拶用語ではなく、「霊であり、いのち」をもたらすことばなのです。このことばのあとで、イェシュアは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい(=聖霊を受け取りなさい)」と言われました。このことによって神が人の霊の中に入ることが起こったのです。イェシュアの生涯の一連の出来事―神が人となった受肉、そして三十年の生活と受洗から始まる三年半の公生涯、そして十字架の死と復活によって、イェシュアは「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45後半)となられました。このことによって、イェシュアは霊として「人の霊」を回復させて、その中に住むことを可能としたのです。心の中ではありません。「人の霊」の中なのです。繰り返しますが、そこは人の最も深いところにあるシークレット・プレイス(secret place)であり、サタンが決して入り込むことのできない聖なる場所なのです。そこに神がともに住むことが可能となったのです。つまり天と地、神と人が結合してひとつとなったのです。これが神の新しい創造なのです。
●ところで、イェシュアが吹きかけられた「息」は「聖霊」です。この「聖霊」(「ハギオス・プニューマ」)は、イェシュアの霊です。つまり「聖霊」はイェシュアご自身です。イェシュアは御父とひとつですから、イェシュアご自身の中に三一の神が存在しています。つまり復活は、単にイェシュアが死からよみがえったというだけでなく、その日以来、弟子たちの霊の中に神がともに住むようになった画期的な記念すべき日なのです(ヨハネ14:16~17)。イェシュアの霊である「聖霊」は永遠に弟子たちとともにおられ、決して離れ去ることはありません。この出来事は「最初のアダム」の中にすべての人類が包括されているように、イェシュアは「最後のアダム」として「最初のアダム」がもたらした罪と死を終わらせ、復活によって「第二の人」として、人を神とともに生きる存在へと新しく創造してくださったのです。「最初のアダム」、および「最後のアダム」という表現は、聖書における集合人格という独特な概念です。したがって「最後のアダム」であるイェシュアがなした出来事は包括的です。包括的という意味は、イェシュアを信じて新しく生まれる前にすでに新しく人は生まれた者とされているということです。その事実を一人ひとりが信じることで、個別的な出来事となるのです。この論理をお判りいただけますか。
●ここでの「聖霊」ということばは、ヨハネの福音書においては、イェシュアの生涯の三つの場面においてのみ登場します。それだけ特別な表現であるということです。聖書の神は御父、御子、御霊の三つの位格(ペルソナ)をもつ三一の神です。「聖霊」ということばは第三位格の御霊です。しかし、イェシュアが「いのちを与える御霊」となったということは、イェシュアと御霊は一つであることを意味しています。イェシュアが霊とならなければ、人の霊の中に入って機能不全を起こしている霊を再生して、ともに住むことはできなかったのです。それゆえ、イェシュアを信じる者は霊の中で生きる者でなければなりません。霊の中で神とともに生き、霊の中で神を礼拝し、霊の中で祈り、霊の中で神のみことばを受け取らなければなりません。心ではありません。心は曲者です。神を信じていない人でも心をもち、心を働かせて物事を判断します。そこを中心としてすべて善悪の判断しているのです。しかし、心はあくまでも「たましい」の領域であり、「霊」の領域とは異なるものです。神は人の霊の中に働くことで心を新しくされるのです。その混乱が神のみことばが生きて働くことを妨げています。神との交わりはすべて霊の中においてなされるのです。イェシュアが「あなたがたはわたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたにとどまります」(ヨハネ15:4)と言っているのは、人の霊の中においてともに住むことを言っているのです。心は肉と呼ばれます。肉はキリストとともに住むことにおいて、何の力もないのです。
●「聖霊」という語彙がヨハネの福音書においては以下の3箇所にしか出てきません。それらを見て行くならば、「聖霊」という語彙は特別な表現として、イェシュアの生涯における特別な時に使われていることが分かります。
(1)【新改訳2017】ヨハネの福音書 1章33節
「私自身(=バプテスマのヨハネ)もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』 」
●バプテスマとは人を神の領域に移すことを意味します。イェシュアが公生涯の開始のときに洗礼を受けることによって、天から鳩の姿で聖霊が彼の上に臨みました。そのことによって、イェシュアの三年半におよぶ公生涯はまさに聖霊に導かれた生涯とも言えます。そのイェシュアが「聖霊によってバプテスマを授ける者」であるとは、どういう意味でしょうか。イェシュアは洗礼の時に「最初のアダム」としての私たちを取り込んでくださり、ともに十字架で死ぬことによって「私たちの古い人」、つまり罪と死の定めにある「最初のアダム」を終わらせてくださり、ともに復活し、ともに「いのちを与える御霊」を共有して、私たちを聖霊による新しい領域(=神のいのちの領域)に移してくださったのです。これこそが、「聖霊によってバプテスマを授ける者」という意味です。
(2)【新改訳2017】ヨハネの福音書 14章26節
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
●聖霊は「教え」「思い起こさせる」だけでなく、イェシュアについて「証ししてくださる」(ヨハネ15:26)のです。イェシュアは「聖霊」のことを「助け主」とも「真理の御霊」とも呼んでいますが、大切なことは、「聖霊はイェシュアについて証ししてくださる」ということです。聖書を読む時に、必ずイェシュアについて証しし、イェシュアの真意を教え、イェシュアが語ったことばのすべてのことを思い起こさせてくださるだけでなく、いのちのことばとしてそれらを関係づけてくださって、そこにある深い事柄を、隠された奥義を私たちに啓示してくださる方なのです。その方こそ聖霊なのです。ですから、その聖霊が指し示しているイェシュアのことを、イェシュアが語っている真意を霊で聞くことが、「霊の中に生きる」ということなのです。
(3)【新改訳2017】ヨハネの福音書20章22節
・・彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
●イェシュアの一連の出来事(受肉・受洗・十字架の死・復活・昇天)を通して、イェシュアが「いのちを与える御霊」となって私たちの霊の中に入ってきてくださったことによって、神と人がともに生きるようにしてくださったということです。それゆえ、私たちは絶えず「霊の中に生きる」ことを通して、キリストにある大いなる救い、キリストにある計り知れない知恵と知識の富、キリストにある永遠のいのちを享受することができるのです。心と霊を見分ける利点は、私たちのうちに神のことばが生きて働くようになることなのです。
2022.5.15
a:2415 t:2 y:0