****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

人の霊(1)


シリーズ「霊の中に生きる」 No.1

人の霊 (1)

ベレーシート

(1) 秘密の昇天
●イェシュアが死からよみがえったのは「週の初めの日」でした。主の例祭では「過越の祭り」の「安息日」の翌日の「週の初めの日」は「初穂の祭り」です。復活された日の朝、イェシュアは初穂としてのからだを御父にささげる必要があったために、自分にすがりつこうとするマグダラのマリアに対してこう言われました。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方・・のもとに上る』と伝えなさい。」と(ヨハネ20:17)。聖書には明確に書かれてはいませんが、復活されたその日の朝に、イェシュアは「秘密の昇天」をされているのです。御父である方のもとに上るということが、40日後の昇天だと考えているとすれば、復活の一週間後にトマスの前に現われたイェシュアが、「あなたの指をここに当てて・・・わたしの脇腹に入れなさい」(ヨハネ20:27)とは言われなかったはずです。

(2) いのちを与える霊となられたイェシュア
●復活の初穂である「御霊のからだ」は時間空間に支配されません。御使いと同様に、地と天を自由に上り下りすることができるのです。復活したその日の夕方、イェシュアは隠れている弟子たちのところに現われました。そこは戸に鍵がかけられていたにもかかわらず、その戸をすり抜けて彼らの真ん中に立たれたのです。そして弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と(同、22節)。息を吹きかける行為は、神である主が大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹きかけたシーンを想起させます(創世記2:7)。弟子に「息を吹きかけて」は動詞「エンフュサオー」(ἐμφυσάω)のアオリストで、新約ではこの箇所だけに使われています。そして息を吹きかけられることは「聖霊を受ける(聖霊を受け取る)」ことと同義で語られています。「聖霊」は「プニューマ・ハギオス」(πνεῦμα ἅγιος)で、ヘブル語にすると「ルーアッハ・ハッコーデシュ」(רוּחַ הַקֹּדֶשׁ)となります。聖書で「プニューマ」、および「ルーアッハ」は「息・風・霊」を意味します。

(3) 40日間の顕現

復活されたイェシュアが40日間、弟子たちのところに顕現されて御国の福音を再度語られたことは重要な出来事です。なぜ40日間なのかといえば、これは神の民にいわば新しいことを始めさせる準備期間だからです。40日(40夜)、400年という数は神の大いなるわざがなされる前の準備期間(試練も含む)なのです。例えば、
①ノアの大洪水・・ 「地の上に四十日四十夜、雨を降らせた」(創世記7:4, 12, 17, 8:6)
②アブラハムの子孫が寄留者となる・・主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」(創 15:13)
③シナイ山での契約・・モーセは四十日四十夜、山にいた (出 24:18)
④イスラエルの荒野での生活・・イスラエルの子らは、人が住んでいる土地に来るまで、四十年の間マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまでマナを食べた(出16:35)。
⑤カナンの地の偵察・・四十日の終わりに、彼らはその地の偵察から戻った(民 13:25, 14:34)
⑥モーセの召命・・四十年たったとき、シナイ山の荒野において、柴の茂みの燃える炎の中で、御使いがモーセに現れました(使 7:30)。
⑦イェシュアの公生涯の前・・イェシュアは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた(マル 1:13)。

●イェシュアの復活後40日間の顕現が非常に重要な期間であったことは疑いようもありません。失望と落胆の中にあったエマオの途上にある弟子たちにイェシュアは現われて、彼らにメシアが栄光を受けられるのは苦難を受けた後であることを聖書全体の中で説き明かされました。その間、彼らの心は内で燃えていたことを聖書は記しています(ルカ24:32)。イェシュアは神のみことばを通して彼らの霊の目を開かせたのです。これはヨハネが記す「息を吹きかけた」ことと呼応します。心が内で燃えるという経験、人の心を開かせて悟りを与えるということが、復活後40日間にわたる顕現において、イェシュアがなされた重要な出来事だったのです。そしてこれらは神のご計画において包括的な新しい創造的な出来事だったのです。それは信仰によってのみ、個別的な経験となるためでした。

●ところで、復活されたイェシュアが弟子たちに「聖霊を受けよ」と言って息を吹き込んだところは人のどの部分なのでしょうか。それは人の心の中にではありません。人の霊の中です。この人の霊の中に息を吹き込むことによって、「心が内で燃える」という経験をもたらし、「人の心を開かせて悟りを与える」という経験をもたらしたのです。今回から始まる「霊の中に生きる」というシリーズの主題は「人の霊」です。機能不全を起こしていた人の霊の中に、いのちを与える霊となったイェシュアがとどまることによって、人の霊の機能が回復されて「霊の中に生きる」ことが始まったのです。これがどういうことかを私たちは正しく理解する必要があるのです。

●私が育った福音派の教会で、「人の霊」について、その言葉とその存在の重要性についても聞くことはありませんでした。聖書はそのことを正しく語っているにもかかわらず、教えられては来なかったのです。後でお話ししますが、パウロはそのことを正しく認識していました。絶えずそのことを人に語っていたのですが、その後のキリスト教会の歴史で注目されることがなかったようです。しかし奥義派と言われるアンドリュー・マーレー、ウオッチマン・ニー、およびウイットネス・リーといった人たちが、このことの重要性を認め、語るようになりました。私もこれらの人たちから学んだことを分かち合っていきたいと思います。

1. 「神の霊」と「人の霊」

(1) 人は二区分か、三区分か
●新約聖書で「プニューマ」(πνεῦμα)を訳すとき、冠詞の有無にかかわらず、「御霊」と訳されます。特に新改訳聖書がそうです。「霊」と訳されることは少なく、多くが「御霊」と訳されていますから、「人の霊」の大切さに気づくことがないのです。そのために、訳語だけでは、ある箇所が神の霊としての「御霊」のことを言っているのか、それとも「人の霊」のことを言っているのかの判別がつかないのです。神の霊としての「御霊」と「人の霊」とは緊密な関係をもっています。つまり人の霊が回復して働くとき、御霊が必ずそこに働いているのです。ところが、多くが「御霊」と訳されることで、「人の霊」の存在が意識されなくなってしまうのです。またローマ書1章9節には「私の霊の中で仕えている神」(ἐν τῷ πνεύματί)と原文にあるにもかかわらず、それを「心から仕えている神」(新改訳2017, 聖書協会共同訳)と訳しているために、多くのクリスチャンは自分の中に「霊」が働いていることを意識することができないばかりか、「霊とたましい」「霊と心」を区別し、それを見分けることができずにいるのです。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙4章12節
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

●この箇所では、神のことばが生きて働くなら、関節と骨髄という微妙な部分さえも切り分けることができるように、「霊とたましい」さえも見分けることができるようになることを教えています。「関節」とは骨と骨の接続部位のことで、「骨髄」はそれぞれの骨の内部にあります。それを切り分けるとはどういうことでしょうか。それは霊とたましいを見分けるのに等しいということで、難しいという意味なのですが、神のことばが生きるとそれらを見分けることができようになると語っているのです。

●そもそも、人間が心とからだという二つの部分から成っているのではなくて、霊と心とからだの三つの部分から成っていることをパウロは以下の箇所で記しています。ただし、ここでは「心」ではなく「たましい」と言っています。

【新改訳2017】Ⅰテサロニケ人への手紙 5章23節
平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたのたましいからだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。

●もし使徒パウロがこの23節を記しておかなかったならば、人間は二つの部分から成ると認識してしまうところです。パウロは「たましいからだ」の三つの部分から成るとしていますが、これら三つは原文では「カイ」(καὶ)という接続詞でつながっていて、しかもそれぞれに冠詞がついています。人は「霊と魂とからだ」によって構成されているということです。それはそれぞれが固有の特性を保ちながら、全体が有機的な関係を持っていることを表しています。

① 「」は「ホ・プニューマ」(ὁ πνεῦμα)
② 「たましい」は「ヘー・プュシケー」(ἡ ψυχὴ)
③ 「からだ」は「ホ・ソーマ」(ὁ σῶμα)

●この節では、「ホ・プニューマ」をどの聖書も「御霊」とは訳していません。パウロは神の霊である「御霊」と人の「」を明確に意識して区別しています。例えば、以下の聖句がそうです。

①【新改訳2017】ローマ人への手紙8章16節
御霊ご自身が、私たちのとともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
②【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙 6章18節
兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたのとともにありますように。アーメン。
③【新改訳2017】ピリピ人の手紙4章23節
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたのとともにありますように。
④【新改訳2017】Ⅱテモテへの手紙4章22節
主があなたのとともにいてくださいますように。恵みがあなたがたとともにありますように。
⑤【新改訳2017】ピレモンへの手紙 25節
主イエス・キリストの恵みが、あなたがたのとともにありますように。

●「御霊」の部分が、「主」と「主イエス・キリストの恵み」に置き換えられていますが、「私たちの霊」「あなたがたの霊」の「霊」が明確に人の霊として意識されているのです。しかも人の霊は単独に存在しているのではなく、そこにキリストも御霊ご自身もおられるのです。ただしそれはイェシュアを信じ受け入れた人の場合で、信じていない人は依然として霊の部分が機能不全を起こしているため、あたかも「心とからだ」の二区分で構成されているものとして認識されるのは致し方ありません。

●「御霊」は「いのちを与えるキリストの霊」でもあります。復活の日の夕方に、イェシュアが弟子たちに息を吹きかけたのは、彼らの「霊」の部分に対してなのです。彼らの「たましい」でも「心」でもなく、彼らの「霊の中に」息を吹き込まれたのです。そして信仰をもって聖なる霊を受け入れるようにと言われたのです。それは、人の霊の中に「いのちを与える御霊」(Ⅰコリント15:45)となられたキリストがともにおられるためです。キリストは私たちの心にではなく、霊の中に住まわれるのです。このことをしっかり受け止めたいと思います。これはキリストの霊がどのように私たちのうちに住んでいるのか、とどまっているのかを知るために重要なことなのです。また、私たちがキリストのうちにとどまるということがどういうことかを知る上でも重要なことなのです。神を知るために、神の贖いの全貌を知るために、神のからくりを知ることが大切です。パウロが手紙の最後に、主が、あるいは、主の恵みが「人の霊とともにありますように」と記しているのは、その重要性に心を留めさせるためだったと思われます。

(2) 人の三区分はどのようにして造られたのか

●人の「たましいからだ」はどのようにして造られたのでしょうか。創世記2章7節には人が造られていくプロセスが記されています。最初のプロセスは外側の部分が形造られて、その中に(鼻から)「いのちの息」が吹き込まれることによって、人は「生きるもの」となったとあります。

【新改訳2017】創世記2章7節
神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

●これを原文で見てみましょう。
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●大地のちりで形造られた人に、神である主は「いのちの息」を鼻から吹き込みました。この「いのちの息」のことを「ニシュマット・ハッイーム」と言います。「ニシュマット」とは「ニシュマー」(נִשְמָה)の連語形で「息」を意味します。これは「霊・風・息」を意味する「ルーアッハ」(רוּחַ)と同義です。「いのちの息」を吹き込まれたことで、人は「生きるもの」となったのですが、これを「ネフェシュ・ハッヤー」と言います。「ハッヤー」は「生きる」を意味し、「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)は「存在、たましい、心」を意味します。それ自体は動物にあるものと同様です。そうすると、「動物も人も同じだ」と思われるかもしれません。神を信じない者にとってはそうかもしれません。そのような「人は滅び失せる獣に等しい」(詩篇49:12)のです。ところが、人には動物にないものが与えられているのです。それが「霊」なのです。

●ところで「いのち」の「ハッイーム」(חַיִּים)は複数形です。なぜここでのいのちが複数形で表されているのでしょうか。「いのち」の単数形は「ハイ」(חַי)です。しかしここでの「いのち」は複数形の「ハッイーム」となっています。それは、この息が人に吹き込まれることで、「」と「たましい」が生み出されたからであると考えます。動物にはこの「霊」はありません。「たましい」のみです。しかし人の場合、神の「いのちの息」がからだに入ったときに、一つは「」を生かすいのちとなり、もう一つは「たましい」を生かすいのちとなったのです。

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●エデンの園の中央に置かれた「いのちの木」の「いのち」も「ハッイーム」という複数形です。ということは、「いのちの木」は人の「霊」と「たましい」の両方を生かし、やがて完全な回復を与えるいのちだということになります。

3. 「霊・たましい・からだ」の機能とそれに関連する語彙

(1)「霊」
●人の霊は神のいのちを受け取る受信装置的な部分であり、大切な役割を与えられているものです。人の霊は人全体の最も中心的な位置として、たましいに影響を与えます。それゆえ、霊とたましいは意識をもって区分されるべきなのです。神のことばが生きて働くとは、この区分があることを見分けさせてくれるだけでなく、霊によって、霊の中に生きることができるようになるのです。

(2)「たましい」
●「たましい」は「からだ」の中に「神の霊」が吹き込まれた結果もたらされたものです。人は「たましい」によって特徴づけられます。「たましい」は「知性・感情・意志」の部分で、人の自由意志を発動する器官です。これを聖書は「ネフェシュ・ハッヤー」、訳すと「生きるもの」「生きる者」「生き物」と呼んでいるのです。「たましい」は「からだ」によって表現されることになります。「霊」が健全に機能している場合は、「たましい」は「霊」によって支配されて神のいのちの統制下のもとに置かれますが、「霊」が機能不全を起こしている場合には「からだ」からもたらされる情報(五感)によって「たましい」は大きく影響を受けのです(前頁下図参照)。

(3) 「からだ」

電球.PNG

●「からだ」はそれだけでは生きたものにはなりません。電球にたとえるならば、それはフィラメントに相当します。そこに「霊」としての電気を通すことによって、フィラメントは光を発します。この光こそが「たましい」の部分です。「霊とたましいとからだ」が調和しているなら、それは人の究極的な表現となります。ところが、その中の霊が機能不全を起こすと何が起こるのかといえば、電気の力ではなく、たましいの部分が自ら光を発して輝かせようとするようになるのです。それは真のいのちの光ではなく、たましいが作り出す知識の光となってしまうのです。そしてその知識の光はからだをも朽ちさせてしまうのです。


4. 「霊とたましい」を見分ける

●これから、私たちが「霊とたましい」を見分けて、神のことばをいのちとして受け取るための演習をしてみたいと思います。詩篇1篇を読んでみましょう。その中から(1~3節に限定)最も大切な語彙を一つ選んでください

【新改訳2017】詩篇1篇1~3節
1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。
2 【主】のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。

●同じ詩篇1篇を別の訳で見てみましょう。そこで、【新改訳改訂第3版】の訳の1~3節を取り上げます。

1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人
2 まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

●この訳だと明確に繰り返されている語彙を見つけることができます。赤字で記された「その人」です。四回使われているので、目立ちます。目立っていますが、この訳でも重要なことばが「その人」だと答える人はそう多くはありません。重要な語彙は、「幸いなこと」「【主】の教え」「喜び」「口ずさむ」「木」「実がなる」「何をしても栄える」という答えが返ってきます。9回目にして「その人」にたどり着いた方もいる一方、一発で「その人」と答えた方もいます。しかしそのような人は、10年間でただ一人だけでした。それほどに気づかないのです。どうしてでしょうか。その一つの弊害に置換神学があります。置換神学の弊害は自分の心を中心にして神のことばを読んでいるということです。「自分の心」とは、自分を中心として、自分の心の基準で読んでいるということになります。どのように読むと神のことばか生きて働くのでしょうか。そのための原則をイェシュアご自身が教えています。以下のことばがそうです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書5章39節
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです

●ここでの「聖書」とは、今日の「旧約聖書」のことです。その聖書が「わたしについて証ししているものです」とイェシュアが言っているにもかかわらず、私たちクリスチャンもユダヤ人と同様のことをしているのです。自分の思いで聖書を読もうとしているのです。さらにもう一つの弊害は、訳出された聖書の問題です。特にこの詩篇1篇の原文を見るとそれが明らかです。

画像の説明

●この詩篇の冒頭には「アシュレー・ハーイーシュ」とあります。その意味は「幸いなのは、その人」です。「その人」とは「イェシュア」のことです。「アシェル」は関係代名詞で、それに続くことばがすべて「その人」のことを示す内容となっています。その内容を見て行くと、明らかに「その人」は尋常な人ではないことが分かります。孤高な人であり、かつ主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさんでいる人なのです。このような人がひとたび口を開いたならば、何が飛び出すでしょうか。それは神のご計画にある御国の福音です。イェシュアがそうでした。彼が公生涯に入ってから語ったのは彼が常に口ずさんできたことです。そのことが詩篇1篇に預言的に記されているのです。そして最後に大切なこととして、「幸いなのは、その人」と言っている存在についてです。その存在とは御霊です。御霊はイェシュアのことをあかしする存在です(ヨハネ15:26)。その御霊は「助け主」とも言われます。その声に聞き従うことが「霊の中に生きる」ということなのです。詩篇にはこの御霊の声があります。それがどこにあるのかも含めて、「霊の中に生きる」ことをシリーズで学んで行きたいと思います。

2022.5.1
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