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喜びながら、救いの泉から水を汲む

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11. 喜びながら、救いの泉から水を汲む

【聖書箇所】12章1~6節

ベレーシート

  • 「マイム・マイム」というフォークダンスがあります。私は小学生、中学生に踊った記憶がありますが、これはイスラエルのフォークソングです。一つの輪を作りながら、「グレープ・バイン」(ぶどうのつる)というイスラエル特有のステップで踊りながら、中心に向かう動きの中で「マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・べサソン」と歌います。このフレーズこそイザヤ書12章3節にあることばです。「マイム・べサーソーン」(מַיִם בְשָׂשׂוֹן)という部分は「喜びながら、水を(汲む)」という意味です。なんとこれはメシア王国到来(千年王国)に実現する輝かしい救いの預言です。そんなこととはつゆ知らず、それを歌いながら踊っていたということになります。無知とは恐ろしいものですが、その本当の意味を悟って、今度はイェシュアの再臨による御国の到来を喜んで待ち望みながら、主にある者たちと共に踊りたいものです。
  • さてイザヤ書12章は、「小イザヤ書」と言われる1~12章の最後の章です。「小イザヤ書」と言われる所以は、1~12章の中にイザヤ書全体がコンパクトにまとめられていることにあります。イザヤ書の中に展開する重要な語彙と思想がパッケージ化されているという意味でもあります。12章も1~6節と実に短いのですが、そこには貴重な宝が隠されています。特に、3節の「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。」は重要です。「救いの泉」を、口語訳では「救いの井戸」と訳していますが、「泉」も「井戸」も同義です。つまり、尽きることのない源泉を意味します。しかも「泉」は複数形で表されますが、それは不可欠性を強調する複数形と言えます。


1. 「その日」、あなたは(あなたがたは)言う

  • 預言書で「その日」(新共同訳は「その日には」と訳す)とあれば、数年(数百年)先の歴史において起こることもありますが、大方は「終わりの日」、すなわちメシア王国(御国の到来)の時のことを指しています。「その日」という同じフレーズが1節と4節にありますが、前者は個人の告白であるのに対して、後者は共同体の呼びかけです。その共同体は「シオンに住む者」に向かって呼びかけています。いずれも感謝ではじまり、主への告白とその理由をその内容としています。

(1) 感謝の歌
「主に感謝します」というその内容の一つは、主が私(個人というよりは集合人格的単数=イスラエルの民)の罪に対して怒られたにもかかわらず、その怒りがおさまり、慰めを与えられたというものです。もう一つの内容は、「主は、私のために救いとなられた」ということです。いわば「慰め」は「救い」、あるいは「回復」と同義です。また、4節以降ではそのことを「そのみわざ」「すばらしいこと」と表現しています。

(2) 七つの呼びかけ

①「(主に)感謝せよ」・・・・・・・・・・・・「ヤーダー」יָדָה
②「(御名を)呼び求めよ」・・・・・・・・・・「カーラー」קָרָא
③「~知らせよ」(新共同訳「告げ知らせよ」)・「ヤーダ」יָדַע
④「語り告げよ」(新共同訳は「語り告げよ」)・「ザーハル」זָכַר
⑤「ほめ歌え」・・・・・・・・・・・・・・・「ザーマル」זָמַר
⑥「大声をあげよ」・・・・・・・・・・・・・「ツァーハル」צָהַל
⑦「喜び歌え」・・・・・・・・・・・・・・・「ラーナン」רָנַן


※上記の動詞は、詩篇においても重要な礼拝用語です。

イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方


2. 「水を汲む」

【新改訳改訂第3版】イザヤ書12章3節
あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。

  • 「水を汲む」の「汲む」と訳された動詞は「シャーアヴ」(שָׁאַב)で、井戸から水を「汲み上げる」ことを意味します。この動詞は旧約で19回使われています。創世記24章では8回使われています。創世記24章には、アブラハムの最年長のしもべエリエゼルが主人の生まれ故郷にイサクの嫁を探しに行くストーリーが記されています。そこには、彼が何を基準にしてイサクにふさわしい妻を捜そうしたかが記されています。イサクにふさわしい妻と出会うことができるようにエリエゼルは神に祈ります。そのとき、彼は不思議なことを言います。イサクにふさわしい妻とは、水を汲みに出て来る娘たちの中で、彼が「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。」と言い、その娘が「お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。」と言ったなら、その娘こそイサクのために主が定めておられる妻だとしたことです。この条件がなぜイサクにふさわしい妻と言えるのでしょうか。
  • しもべエリエゼルが長旅のために用意したらくだはなんと10頭でした。らくだは水を80~130リットルを一気に飲むことができるそうです。そんならくだが10頭もいて、それに水を飲ませるとすればどれだけの水を汲まなければならないか。考えただけでも大変なことです。それだけの水を井戸から汲み上げるということは、細腕の娘では対応できません。つまり、かなりの生活力をもった娘でなければできません。そんな娘が水がめを肩に載せてエリエゼルの前に現われたのでした。そして、彼女はエリエゼルに水を飲ませただけでなく、全部のらくだのために水を汲んだと記されています。この娘こそイサクの妻となるリベカです。聖書はその娘について「非常に美しく、処女で、・・」とありますので、とてもスリムなイメージを(私は)抱きやすいのですが、リべカはなんと10頭のらくだに苦も無く水を飲ませるほどの娘だったのです。
  • ちなみに、箴言31章10節に「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。」とあります。かなりの生活力があるように描かれていますが、「しっかりした妻」のヘブル語は「エーシェット・ハイル」(אֵשֶׁת־חַיִל)で「たくましい妻」という意味です。「しっかり」、あるいは「有能な」という訳は意訳です。17節にも「腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう」とありますから、その体つきは、水がめを運んだり、石臼をひいたりできる鍛えられた太い腕をイメージさせます。箴言の私訳と注解している松田明三郎氏はこの箇所だけは比喩的表現で、文字通り解釈してはならないとあえて記しています。ではここでいうところの女性の「たくましさ」とはどのように解釈すればよいのか、それについては触れていません。
  • いずれにしても、「水を汲む」という労働は大変なものであったということです。しかし、そんな過酷な労働もメシア王国においては、「喜びながら救いの井戸から水を汲む」ようになるのです。もっとも、ここでの「水を汲む」というのは、実際のことではなく霊的な意味です。ヨハネの福音書4章に、ヤコブの深い井戸に水を汲みに来たサマリヤの女が登場します。その女にイェシュアは「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちの水がわき出ます。」(ヨハネ4:15)と言ったとき、サマリヤの女はすかさず「その水を私に下さい。」と求めました。その誤解の背景には、日々の水汲みの労働がいかに大変なことであったことを示唆しています。
  • 水を「汲む」の「シャーアヴ」(שָׁאַב)の三つの文字には、神である父(אָב)を熱心に尋ね求めるという意味が隠されています。また「シン」(שׁ)と「ベート」(ב)の二つの文字からなる親語根を持つ動詞だと考えるならば、その親語根に子語根を付け加えることで、その周辺に以下のような親戚に関係にあたる語彙が浮かび上がってきます。

①「シャーヴァー」(שָׁבָה)・・虜にされる、捕らわれる。
②「シューヴ」(שׁוּב)・・返る、帰る。
③「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)・・住む、とどまる。
④「ナーシャヴ」(נָשַׁב)・・風が吹く(氷を解かすような力)。
⑤「シャーアヴ」(שָׁאַב)・・(水を)汲む。


※上記の語彙から以下のようなストーリーを考えることができます。

「とりこにされ」(「シャーヴァー」שָׁבָה)ていた者たちが、神の主権的な聖霊の力が「吹く」(「ナーシャヴ」נָשַׁב)ことによって、はじめて彼らは悔い改めて主のもとに「帰る」(「シューヴ」שׁוּב)ことができる。その者たちはメシアの王的支配の下で祝福のうちに主の家に「住む」(「ヤーシャヴ」יָשַׁב)ことが許され、さらには、喜びながら、救いの井戸から尽きることのない永遠のいのちの水を「汲む」(「シャーアヴ」שָׁאַב)ことができるようになるのです。


3. 仮庵の祭りに歌われる感謝の歌

  • ユダヤ暦の第七の月の15日から七日間にわたる主の「仮庵の祭り」では、「水取りの儀式」がシロアムの池で行なわれます。大祭司がきれいな衣を着て金の杓子をもってシロアムの池から水を汲み、それを神殿にまで運びます。その時に、イザヤ書12章を歌いながら、神殿までその水を運ぶ行列されるのです。今日においても歌われているようです。
  • ユダヤ人は七日間、仮庵に住まなければならないことがトーラーの中に記されています。この時の様子について記している本から引用したいと思います。その本は「聖書の世界が見える」(植物編)で、著者は韓国のリュ・モーセという方です。イスラエルの宣教師であると同時に、漢方医学、現代医学の博士。翻訳は上田あつ子、出版は「ツラノ書院」(2011.6発行)です。以下は、その本からの引用です(249~253頁)。少々長い引用ですが、とても重要な事柄なので引用させてもらいます。

●仮庵の祭りのハイライトは、神殿の祭司の庭にある祭壇の南西側に柳の木を立て、毎日、祭壇の周りを一周ずつ回るのです。ユダヤ人たちはエルサレムの西側にある「モツァ」という川縁から、毎日新しい柳の木を折って来ました。柳の木の枝は折られた瞬間に生気がなくなり、たった1日でも枯れてしおれてしまうからです。

最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜ぶ。(レビ23:40)

画像の説明

●このように6日間新しい柳の木の枝を立てておき、仮庵の祭りの最後の日には、特別な行事をしました。・・・本来、祭壇がある神殿の祭司の庭は、祭司以外には誰も入ることができない聖域ですが、しかし、この日(最後の日)だけは例外で、すべてのイスラエルの巡礼者たちに(女性も子どもたちにも)開放されました。普段は祭壇の周囲を1周しますが、仮庵の祭りの最後の日には、祭壇の周囲を7回りました。この時、巡礼者たちは祭壇の周囲を回りながら、詩篇の祈りを切にささげました。イスラエルの人々は、水がないため、渇いてしおれて行く柳の木の枝を横に、「主よ。どうか私たちを救ってください。」(詩篇118:25)と叫びながら祈りをささげたのです。・・・

画像の説明

●荒野の民イスラエルにとって、水はいのちそのものであり、創造主の恵みを象徴するものです。水がなく、枯れてしまう柳の木のように、創造主の特別な恵みがなくては枯れて、廃れてしまうしかないイスラエルを救ってくださいという切なる願いをささげたのです。

●「どうぞ、救ってください。」とはヘブル語で「ホサナ」(「ホーシーアー・ナー」הוֹשִׁיעָה נָּא)です。・・仮庵の祭りに使われる柳の木の別称はホサナです。ホサナは水を求めて叫び声を上げる柳の木を指します。
・・・・
●イエスは仮庵の祭りの最後の日、神殿の祭司の庭に出て行かれました。この時、ユダヤ人たちは、創造主の恵みを切に求めていましたが、すぐ横に立っておられるイエスを知ることはありませんでした。何と皮肉なことでしょう。・・・水を失い枯れ行く柳の木と、救いを切に求め、ホサナを叫ぶユダヤ人たちに、ご自分がメシアであることを叫んでおられたのです。

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)


最後に

  • あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む。」(イザヤ12:3)とは、尽きることのない泉から流れ出る、救いの喜びに満たされることの預言です。しかしその救いの喜びとは、私たちが労苦して「汲む」ことではなく、神の恩寵として、腹の底から湧き上り、流れ出てくる生ける水であり、主を知ることの喜びです。「マイ(ム)・マイ(ム)・マイ(ム)・マイ(ム)・マイム・ヴェサソン」と歌い踊りながら、メシア王国の到来を待ち望みたいと思います。


2014.8.16


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