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メシアの統治による平和と離散の民の帰還

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10. メシアの統治による平和と離散の民の帰還

【聖書箇所】11章1~16節

ベレーシート

  • イザヤ書11章には、大きく二つのことが記されています。人はメシアの統治による平和(1~9節)と、離散した民が帰還(10~16節)することが預言されています。

1. 御霊の導きを受けられるメシアの統治

【新改訳改訂第3版】イザヤ書11章1~2節
1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
2 その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。

  • 1節の「エッサイの根株」とは、エッサイから出る子孫を意味します。この預言はエッサイの息子であるダビデのことを指しているのではありません。なぜならイザヤの時代は、ダビデの時代よりずっと後だからです。「エッサイ」は「ベツレヘム」の人であり、ボアズとルツの子孫です。エッサイの系列をここでは「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)と言い、後の「ナザレ」を意味すると思われます。したがって「ナザレ人」とは「ダビデの若枝」とも言えるのです。
  • 「新芽」(「ホーテル」חֹטֶר)も「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)もいずれも単数名詞であり、同義的並行法によって同義と言えます。これらの語彙の背景には、ユダ王国は一旦滅びますが、アッシリヤに預言されているような滅びではなく、根が残されており、そこからメシアの象徴である「新芽」、あるいは「若枝」が生え出て来ることを預言しているのです。
  • そして、メシアの上には「主の霊がとどまる」と預言されています。「とどまる」と訳された動詞は「ナーハ―」(נָחָה)で、本来は「導く」「指導する」という動的な意味です。事実、イェシュアがバプテスマを受けられた時、天が開かれて、神の御霊が鳩のように下って、彼の上に来られるのをイェシュア自身がご覧になっています。これはイザヤ書11章2節にある預言の成就です。イェシュアが公の生涯において御国の福音の宣教を開始される前に、悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野に上って行かれました。この御霊の助けによりイェシュアは神のことばを自由自在に語られたのです。「とどまる」というのは、密接なかかわり、永続的なかかわりを意味しています。つまり、メシアであるイェシュアは単独ではその働きをなし得ないということです。
  • 11章2節にはメシアを導かれる七つの霊が記述されています。七つとは「御霊」の七つの働きや性質を表わしていると思われますが、それぞが密接な関係にあります。新約のヨハネの黙示録においては、メシアは「人の子のような方」と表現され、神の「七つの御霊」と表現されています。そのルーツはイザヤ11章2節にあります(黙示録1:4/3:1/4:5/5:6)。

①「主の霊」・・メシアの全人間性において多岐に及ぶ聖霊の影響力。
②「知恵の霊」・・物事の本質と目的を見抜き、神のみこころを達成する正しい方法を見出す能力。
③「悟りの霊」・・さまざまな状況や関係を洞察する能力。
④「はかりごとの霊」・・正しい決定を下す能力。
⑤「能力の霊」・・自分に与えられた使命を恐れることなく実行する能力。
⑥「主を知る知識の霊」・・神との愛と信頼関係から生じる神の知識。
⑦「主を恐れる霊」・・神を愛し、神を喜び、神を楽しむことのできる資質。

  • 3節では、メシアの統治には決して間違いがないことが記されています。それは、彼がその目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下すことがないからです。その統治の性質は、寄るべのない者たちを「正義と公正」をもって貧しい者たちをさばかれます。メシアの王国(千年王国)の時代にも罪はあります。なぜなら、七年間の大患難時代を人間のからだをもって通過する者たちとその子孫たちが存在するからです。しかし王なるメシアは「口のむち」で、「くちびるの息」で悪者たちを処罰します。「口のむち」と「くちびるの息」は同義語です。いずれも口から出るものであり、教え、命令、威嚇、判決、決定、宣告などによってメシアは統治されるからです。

2. メシアの王的支配によってもたらされる「平和」

  • 6~16節にはメシア王国における普遍的平和が預言されています。
    (1) 人間と自然界における平和 (6~9節)
    (2) イスラエルと諸国民との平和 (10節)
    (3) エフライムとユダの平和―全イスラエルの回復と平和―(11~13節)

(1) 人間と自然界における平和 (6~9節)

【新改訳改訂第3版】イザヤ書11章6~9節

画像の説明

6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

  • メシアの統治の結果、もたらされる普遍的平和が詩的な表現で描かれています。聖書では最も貪欲で残忍な動物として描かれている「狼」が、ここでは「子羊」とともに「宿る」とあります。「宿る」と訳された動詞は「ともにえさを食べる」という意味で、千年王国時代はすべて草食です。「ひょう」と「子やぎ」もともに伏しとあります。これも今の時代ではあり得ない光景です。子牛、若獅子(ライオン)、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。肥えた家畜は野獣の格好の餌食ですが、食われることがありません。子どもが彼らを従えている光景です。メシアがこの地上を支配すると、すべての敵意は止み、野獣はその凶暴性を失い、弱い動物は安全に生きられるようになるのです。人間と動物(獣と家畜)が共存するのです。「追う」と訳された原語は「導く」とも訳されます。つまり、人間が動物との関係において優位性を保っていることを示しています。
  • 7節の「雌牛と熊とは共に草を食べ、獅子も牛のようにわらを食う」という表現も平和的共存を表わしています。ここで文字通りに解釈するなら、肉食動物が草食動物に変わるということです。エデンの園の状態に回復するとこういうことになるということです。

(2) イスラエルと諸国民との平和 (10節)

  • 「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」とあります。これは、メシア王国(千年王国)においてはイスラエル(エルサレム)は国々における中心的な位置に回復することを意味しています。しかも諸国民はユダの人々を慕い求めるということになるのです。

(3) エフライムとユダの平和(全イスラエルの帰還と回復)―(11~13節)

これについては、⇒以下を参照のこと

2014.8.15


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