アッシリヤは神のさばきの杖に過ぎない
9. アッシリヤは神のさばきの杖に過ぎない
【聖書箇所】10章1~21節
ベレーシート
- 預言書にはある預言がある本体の予型となっているということを知っておくことは重要です。たとえば、イスラエルに対する強国であるアッシリヤ、あるいはバビロンが、やがて歴史の終末に登場する反キリストの型となっているということです。この反キリストの登場は神の民イスラエルを神に立ち返らせるために、神がその道具として用いる最後の人物です。イザヤ書10章5節には、神がその民を立ち返らせるために用いる「怒りの杖」、あるいは「憤りのむち」としてのアッシリアについて述べられています。
- イザヤ書10章1~4節は、9章から続いているリフレインのフレーズ「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされてる。」(LXX訳「それでもなお(主の)憤怒はおさまらず、その手はまだ高く上げられたままである。」)の枠の中にあり、その内容はユダの裁判を司る者たちのさばきについて語られています。10章5節から、そのさばきの道具としてアッシリヤが取り上げられています。
1. 神の怒りの杖としてのアッシリヤとその高慢ぶり
- イザヤは、神がアッシリヤを神を敬わない国をさばくための道具でしかないことを述べています。しかし、当のアッシリヤの王自身は、全くそうとは考えず、彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことでしかありませんでした。すでに彼は主要な都市を滅ぼしており、エルサレムも同じく滅ぼすことができると豪語しています。
- そのようなアッシリヤの王の高慢に対して、神である主は、アッシリヤを罰すると預言しています。アッシリヤの王は以下のような高慢なことば語ったからです。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書10章13~14節
13 ・・「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。
14 私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」
- こうした高ぶりは、アッシリヤのみならず、バビロン、メディヤ・ペルシャ、ギリシア、ローマといった歴史の中に登場大強国に共通するものです。10章の直接的な対象となっているのはアッシリヤですが、それゆえ、万軍の主は「やつれと火」という比喩を用いて、その国が消滅してしまうことを予告しています。「やつれ」とは体力の消耗を意味し、国力が内部から徐々に衰弱していくことをたとえています。「火」は反対に外部からのある種の攻撃を受けることで完全に滅びることをたとえています。アッシリヤがどんな栄光に満ちた繁栄を誇ったとしても、神はアッシリヤの傲慢と高慢を突如として火をもって焼き尽くされるのです。事実、アッシリヤはバビロンによって徹底的に破壊し尽くされたくした。その破壊の徹底ぶりが以下のように記されています。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書10章33~34節
33 見よ。万軍の【主】、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。
34 主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。
- この節には主による破壊用語が重ねられています。
(1) 「恐ろしい勢いで枝を切り払う」・・・・「サーアフ」(סָעַף)
(2) 「たけの高いものは切り落とされる」・・ 「ガーダア」(גָּדַע)
(3) 「そびえたものは低くされる」・・・・・ 「シャーファル」(שָׁפַל)
(4) 「林の茂みを斧で切り落とす」・・・・・ 「ナーカフ」(נָקַף)
(5) 「レバノン(=アッシリヤ)は倒される」・・ 「ナーファル」(נָפַל)
※中澤洽樹氏は(1)の「恐ろしい勢い」を、「一撃の下に」と訳しています。
2. 「残りの者」は、力ある神に立ち返る
- 高慢なアッシリヤは、神によって一撃の下に完全に消滅させられます。それゆえ復興はあり得ません。ところが神の民はそうではないのです。イスラエルもユダも神のさばきによる滅びは免れない定めにありますが、必ず「切り株」が残されて、そこから新芽が出るように、神に立ち返る「残りの者」がいるということです。
【新改訳改訂第3版】イザヤ書10章20~22節
20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、【主】に、まことをもって、たよる。
21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。
22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。
- 上記の20節にある「その日になると」という意味は、第一義的にはユダの王ヒゼキヤの治世にアッシリヤの滅びが実現した時を指していますが、預言的(二次的)には、キリストの再臨によって反キリストが滅ぼされた時を示唆しています。
- イザヤ書10章20〜22節にある「残りの者」はすべて「シェアール」(שְׁאָר)です。「残りの者」とは、神のさばきに耐えて生き残り、新しい神の民を形成する核的な存在となり、神の律法にしたがって生き、聖なる者となり(ゼパニヤ3:13)、主なる神を自らの神として認めるに至った者という意味で用いられるようになりました。こうした神の選民に対する配慮は、ただただ神のあわれみによるのです。
- 使徒パウロがローマ人への手紙9章27~28節でも引用しているように、22節の「残りの者だけが立ち返る」という預言はいまだ実現しておらず、将来のことです。「たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても」とあるのは、神がアブラハムになさった約束が成就したとしても、「その中の残りの者だけが立ち返る。」とされているのです。このことは、神の熱愛に基づく驚くべき奇蹟によらなければ実現することが不可能なのですが、そのことを知るだけでも心にワクワク感が起ってくるのです。なぜなら、そのときこそキリストにあって天と地がひとつにされるからであり、メシア王国が到来するからです。その祝福に、教会も与ることができるからです。
- 現在においてイスラエルに多くのユダヤ人たちが帰還していますが、聖書が預言している「残りの者」とは言えません。なぜなら、帰還している多くのユダヤ人は、いまだ神に立ち返ってはいないからです。聖書の「神に立ち返る」という意味は、イェシュアが神の約束されたメシアであることを知ることと不可分の関係にあります。従って、「残りの者」とメシアとの関係は切っても切れない関係にあるのです。
2014.8.13
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