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異邦人のガリラヤは光栄を受けた

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8. 異邦人のガリラヤは光栄を受けた

【聖書箇所】9章1~21節

ベレーシート

  • イザヤ書9章には、結論がまず最初に置かれるというヘブル的修辞法の特徴が見られます。しかもそこにはパラレリズムも見ることができます。先ずは、「異邦人ガリラヤが光栄を受けた」というのが結論であり、それは、誰によって、いつ実現するのかということが預言されています。
  • 預言書の理解の難しさは、神のご計画の全体像(「御国の福音」)を知らずに読むところにあります。実際に実現しない預言は真の預言ではありません。しかし、その預言の実現の射程は実に広範囲に及んでいます。預言者が預言してから数年後に実現される事柄もあれば、今から二千年前のメシアなるイェシュアの初臨によってすでに実現している事柄もあります。しかし同時に、メシアの再臨によらなければ実現しない事柄もあるのです。それらが一つの章の中に、しかも重層的に記されているのです。それゆえ、御国の福音が何かを理解し、それがどのように展開するのか、それを知る必要があるのです。そのためには腰を落ち着けて聖書をじっくりと学ぶ必要があります。信仰するのに知識(神学)はいらないと言う方がいますが、それはある意味で真実ですが、ある意味では短絡的です。
  • 例えば、今回の9章7節にある「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」という部分だけを取り出して、伝道集会やリバイバル集会などのキャッチ・フレーズとして用いて、自分たちがしようとしている集会の成功は「万軍の主の熱心がこれを成功させてくださる」という意味で用いたりします。そこにいる人々もこの御言葉の約束をそのような意味なのだと理解してしまいます。しかし、このみことばの真意は、人間の理解を越えた神の壮大な救いのご計画が最終的に実現する神の深淵なモチーフなのです。教えの風に流されずに、聖書のみことばの真意を正しく理解したいという方々が、昨今、いろいろなところで起こされ始めています。このことは、神が「終わりの時」に向けた準備をしておられるのだと私は信じます。みことばの正しい理解は、私たちの霊性を吟味すると同時に、新しくすると確信します。

1. 異邦人のガリラヤが光栄を受けるという預言

【新改訳改訂第3版】イザヤ書9章1節
しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。


●新改訳の9章1節は、原文では8章の一番最後にあって、23節となっています。新共同訳はそのように配列しています。

●1節にあるヘブル語の「」と「」は、私たちが考える時間感覚とは異なります。「」とは未来・将来のことではなく、その逆で「昔」「事のはじまり」を意味します。そして「」とはやがて確実に起こる「将来」のことを意味します。具体的に言うなら、ここでの「先には」とは「ゼブルンの地とナフタリの地が、はずかしめを受けた」ことです。「ゼブルンの地とナフタリの地」はいずれも北イスラエルの地です。その地が誰によってはずかしめを受けたのかと言えば、実際にはアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルによってです。しかしその王を用いたのは主ご自身でした。その証拠に原文は受動態ではなく、使役態で「恥ずかしめさせた」 (「カーラル」קָלַלの完了形使役態の「ヘーカル」הֵקַלで)記されています。ところが「後」には、つまり「事の終わりに」は、主はその地に「栄光を受けさせる」(「カーヴァド」כָּבַדの使役態「ヒフヴィード」הִכְבִּיד)と原文では記されています。

●ここで、1節の前半には「ゼブルンの地とナフタリの地」とあるのが、後半では「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ」と言い換えられています。これはどういうことでしょうか。鍋谷堯爾氏はこのことについて解説しています(「イザヤ書註解」(上)2014年、いのちのことば社、254頁)。脚注

  • この1節には、同義的パラレリズム、反意的パラレリズムが見られます。同義的パラレリズムとしては、「苦しみのあった所」が「ゼブルンの地とナフタリの地」とは同義です。しかもそれは「異邦人のガリラヤ」と言い換えられます。「やみ」と「はずかしめ」も同義です。反意的パラレリズムは、「先には・・はずかしめを受けたが、後には・・光栄を受けた」という部分です。「はずかしめを受けた」のは、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルの侵入を指しています(Ⅱ列王記15:20を参照)
  • イザヤがなぜ「異邦人のガリラヤ」という表現をしたのかと言えば、その地に住んでいたイスラエルの民と移住してきた異邦人とが混血したことで、民族としての純粋さが失われたからです。そして後の時代に、ユダヤ人(ユダの人々)たちがガリラヤ地方に住むイスラエル人を異邦人のごとく軽蔑するようになるという意味なのです。しかし、イェシュアが宣教を開始された場所はこのガリラヤでした。しかも弟子たちをこの地域から選んでいます(イスカリオテのユダの他はみな)。イェシュアは、「わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言って、異邦人のガリラヤという扱いをされなかったのです。
  • 「異邦人のガリラヤが光栄(あるいは「栄光」)を受けた」そのときの喜びが2~5節に記されています。ここでの「光栄」(原語は動詞「カーヴァド」(כָּבַד)の使役形「ヒフビード」הִכְבִּיד)で、「重くする、栄光に満たす」という意味です。しかもここは預言的完了形で書かれていて、未来において確実に起ることが強調されています。ただし現在、完全には実現されていません。これからのことです。それがだれによって実現されるのか、それが6~7節に記されている内容です。

2. ひとりのみどりごによって

【新改訳改訂第3版】イザヤ書9章6~7節
6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。


6節の前半「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」の部分は、メシアの初臨によってすでに実現しています。しかし、後半の「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」の部分は、メシアの再臨によって実現します。7節もメシアの再臨についての預言です。遠くの山々を見るとき遠景と近影が一つの映像として見えるように。旧約の預言者たちは「メシアの初臨と再臨」を同時に見ていることが多いのです。

  • 「異邦人のガリラヤが光栄を受ける」ために、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」と預言されています。原文には「なぜなら」という「キー」という言葉があり、2~5節での祝福を受ける理由を説明しようとしています。「生まれる」という動詞も預言的完了形が使われています。これは、事実、イェシュアの誕生によって実現しました。ちなみに、新共同訳は「生まれた」と訳しています。
  • みどりご」(乳飲み子)と訳された語は「イェレド」(יֶלֶד)、「男の子」と訳された語は「ベーン」(בֵּן)です。いずれもイザヤ書7章14節で預言された「インマヌエル」、すなわちメシアを指していると考えられます。「主権がこの肩にある」とは、メシアであるひとりのみどりごに統治の権限が与えられることを意味します。「主権」(権威・王権)は冠詞付の「ハンミスラー」(הַמִּשְׂרָה)。
  • この方の称号が6節後半にあります。四つの名前で記されていますが、それぞれ二つの名詞が組み合わさっています。これらすべてはメシアの神性を示しています。

(1) 「不思議な助言者」(「ペレ・ヨーエーツ」פֶּלֶא יוֹעֵץ)
並はずれた、驚くべき、人間の考えをはるかに越えたみわざをなす助言者(あるいは政治的な議官、顧問)を意味します。「不思議」と訳された「ペレ」は「ヨーエーツ」(「ヤーアツ」יָעַץの分詞)にかかる連語形であることから、正規には「助言者の不思議」「助言者の驚異」と訳されるべき。
(2)「力ある神」(「エール・ギボール」אֵל גִּבּוֹר)。
「エール」(אֵל)は人間とは明確に区別される神であり神性を表します。しかも「ギボール」とは「勇士」とも訳され、働きの実行力が暗示されています。
(3)「永遠の父」(「アヴィーアド」אַבִיעַד)
「みどりご」は永遠に御父を啓示する方、証言する方という意味で「永遠の父」と呼ばれます。
(4)「平和の君」(「サル・シャーローム」שַׂר־שָׁלוֹם)
7節に「その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える」とあるように、これは地上におけるメシア王国(千年王国)を治める王として、そこで実現する限りない祝福の総称としての平和(「シャーローム」שָׁלוֹם)をもたらす方であることを意味しています。


3. 万軍の主の熱心がこれを成し遂げる

  • 7節の最後にある「今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」というフレーズは特別に取り上げる必要があります。これこそ神のご計画と目的を実現する動機だからです。「今より」とは、「やみの中、死の陰の地、異邦人のガリラヤの地にメシアが現われた時から」という意味です。
  • 「主の熱心」と訳されたヘブル語は「キヌアット・アドナイ」(קִנְאַת יהוה)は正しく理解される必要があります。まずは語根のקנאの動詞、名詞、形容詞を探ってみると以下のようになります。

(1) 動詞は「カーナー」(קָנָא)・・「ねたむ、熱愛する、熱中する、沸騰する」の意。
(2) 名詞は「キヌアー」(קִנְאה)・・「ねたみ、熱意、熱愛、熱中」の意。
(3) 形容詞は「カンナ―」(קַנָּא)・・「嫉妬深い、妬ましい」の意。


聖書の中の知恵文学においては、形容詞も名詞も人間的な感情を表現する語彙として用いられています。しかし歴史書、および預言書において、形容詞の「カンナ―」(קַנָּא)が神について用いられる時には、「ねたむ神」となります。それはあくまでも愛の裏返しです。つまり、神とイスラエルの民との間に結ばれた深い絆(契約)と関係があります。もし、イスラエルの民が神を離れて偶像にひれ伏すならば、もやは真実の意味での神の民ではなくなってしまいます。そのときには、イスラエルは契約の民としての特権を失い、単なる一つの地上の一国民としか存在しなくなります。イスラエルの使命は神を証しする民、諸国の光、また祭司の民となることです。その使命を喪失する不幸を神が赦すことができないのです。神はご自分の民の運命に対して決して無関心ではおられない、その迷いを放り出すことができない。そのような熱烈な愛こそ「万軍の主の熱心(熱意)」が意味することなのです。

メシア王国が実現する前に、イスラエルの民は世界のあらゆるところから神ご自身の民(「残された者」レムナト)として集められます。これはきわめて驚くべき主なる神の熱心によるものです。


4. 民の悔い改めを誘発させるための神の怒り

  • 9章の後半(9~21節)には三つのリフレイン(定型句)を用いて神は民を取り扱おうとされています(12, 17, 21節)。そのリフレイン・フレーズは「それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。」というものです。このフレーズは5章25節、10章4節にもあります。
  • リフレイン・フレーズで区切られる区分は以下の通りです。
    (1) 8~12節・・民の虚勢に対するさばき
    (2) 13~17節・・イスラエルの指導者たちに対するさばき
    (3) 18~21節・・ユダを攻撃しようとするエフライムとマナセに対するさばき
  • 神の徹底的な処罰の目的はご自分の民を救うためです。決して抑制されることのない怒りの感情ということではありません。万軍の主の熱心さゆえの、取り扱いのためのさばきです。しかし北イスラエルの民は高慢になり、「この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった」のです(13節)。
    「神に立ち返る(帰る)ことなく」(「ロー・シューヴ」לֹא שׁוּב)、「神を尋ね求めない」(「ロー・ダーラシュ」לֹא דָּרַשׁ)。それゆえ、神の怒りによるさばきは続くのです。

脚注

(ユダの)アハズ王の援助要請に応じたティグラテ・ピレセル、イスラエルを攻め、北から順に、イヨン、アベル・ベテ・マアカ、ヤノアハ、ケデシュ、ハツォルと、ナフタリの全土を占領し、また、ガリラヤからギルアデまで南下して、これらの地方の住民をアッシリヤへ捕らえ移した(列王記15:29)。〈ナフタリ〉は、その南西に境を接し、シャロンの平野の中央部に面していた。ナフタリを占領したティグラテ・ピレセルは、当然ゼブルンをも攻め取り、さらに西進して地中海沿いに南下した。・・・・占領された地域の住民は、捕虜として連れ去られ、残った民は、アッシリヤ直轄の三地域に編入された。すなわち、地中海側から東方へ、ドルと、メギドと、ギルアデである。9章1節ではドルが「海沿いの道」、メギドが「異邦人のガリラヤ」、ギルアデが「ヨルダン川のかなた」と、詩的に表現されている。


2014.8.12


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