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「インマヌエル預言」の背景にあるもの (2)

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7. 「インマヌエル預言」の背景にあるもの (2)

【聖書箇所】8章1~22節

ベレーシート

  • 7章14節ではじめて登場する「インマヌエル」という言葉は、旧約聖書に3回のみ出て来るだけです。後の2回は、8章8節と10節です。10節ではインマヌエルのことばの意味である「神が、私たちとともにおられる」からと訳されていますが、原文は共に「インマヌエル」です。「インマヌエル」という語彙は、「私たちとともに」を意味する「インマーヌー」(עִמָּנוּ)と神を意味する「エール」(אֵל)の合成語です。中澤洽樹氏は8章の「インマヌエル」が呪文のように繰り返されていると述べています。8章8節にある「インマヌエル」は、アッシリヤ王とその全軍が川が氾濫して首にまで及ぶようにユダに押し寄せたとしても「インマヌエル」なのです。10節では、ユダに反抗する国々の民が立てるどんなはかりごとも、またどんなに決議を連ねたとしてもそれは実現しない。なぜなら、「インマヌエル!」だからです。神はアッシリヤによってはユダを破壊させません。この10節は詩篇2篇に見られるように、終末的な審判を射程に含んだ内容とも解釈できます。
  • 7章14節で預言された「インマヌエル」という「男の子」が、9章6~7節でその性質と働きが明らかにされ、ダビデ家の王なるメシアとして結実します。そしてそれは11章1~5節でメシア王国の統治者へと引き継がれていきます。なんともスケールの大きな神のご計画の中に、この「インマヌエル」預言がなされているのです。
  • また、7章14節で預言された「インマヌエル」が、イザヤの二人の息子の名前(「シェアル・ヤシュヴ」(残りの者は帰って来る)と「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは急、略奪は速やか」)と密接な関係をもって展開する歴史的なメッセージであることが明らかにされます。啓示の順序とその成就の順は逆ですが、いずれも「インマヌエル」の預言がそれを覆っているということです。イザヤの家庭そのものがイスラエルにおける一つのしるし(「オーット」אוֹת)であり、「さばきと救い」の予型(「モーフェーット」מוֹפֵת、新改訳では「不思議」)となっているのです。


1. ユダの民にインパクトを与えた(はずの)預言的行為

画像の説明

  • 8章1~4節には、主がイザヤに、大きな板に人々が分かるはっきりとした字体で、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書くように命じます。それのみならず、イザヤの第二子の子どもの名前も同じくするように命じました。これはユダの王とユダの人々に大きな衝撃を与えたと思います。これが「預言的行動」です。
  • 主はこの名前が意味することを4節で語っています。それによれば、きわめて近い将来、アラム(ダマスコ、レツィン)とエフライム(サマリヤ、ペカ)の分捕り物がアッシリヤによって速やかに持ち去られるということです。
  • ユダの民の中には、アハズの政策(親アッシリヤ)に反対する勢力(反アッシリヤ)があったようです(6節)。しかしどちらの派であっても、「シロアハの水(=主ご自身を象徴)をないがしろにする」ならば、強く水かさの多いユーフラテスの川の水が、アラムとエフライムにあふれさせるだけでなく、その流れがユダにも流れ込み、押し流し、首にまで達することを主はイザヤに語っています。しかし同時に、「インマヌエル」の翼がユダの国の幅いっぱいに広がっていることも付け加えているのです。このことが実際に起こります(Ⅱ列王記19章、イザヤ書37章)。

2. 主の啓示を束ね、主のメッセージを封印せよ

(1) 妨げの石、つまずきの石、

  • おそらくユダの人々の目にはイザヤの言動が「謀反」、あるいは「反逆」と写ったようです。しかし主はイザヤを励まし、民の道を歩まないようにと戒め、諭されます。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書8章12~15節
    12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。
    13 万軍の【主】、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。
    14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。
    15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕らえられる。

  • 主がイザヤに諭されたことは、万軍の主、「この方だけを聖なる方とし、この方だけを恐れ、おののきとせよ」ということでした。そうすれば、「この方が聖所(「ミクダーシュ」מִקְדָּשׁ)」となられるとあります。原文では「彼は聖なるものになる」とあります。中澤氏は「そうすれば、これが(お前たちの)聖域となると訳しています。これはエルサレムにある聖所のことではなく、主にある者たちの場、すなちわ「シークレット・プレイス」「隠れ場」のことだと思われます。これはエゼキエル書11章16節でも同じ意味で使われています。

    【新改訳改訂第3版】
    それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所(מִקְדָּשׁ)となっていた。』

  • 主が彼らの聖所のなられることで「残りの者」となれるのです。イザヤの語ったことばは、最も基本的・原則的な事柄です。神本意のメッセージです。しかし、多くの人々はそのことでつまずき、倒れて砕かれるのです。「原則はそうであったとしても、でも、現実は・・」という人々にとって、イザヤの語ったメッセージはつまずきとなります。ですからどんなに人々から謀反者と呼ばれたとしても、恐れてはならないと、主はイザヤを戒めているのです。

(2) 主が語られたことばを封印して、主を待ち望む

  • もう一つ、主はイザヤに以下のことを命じました。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書8章16節
    「このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」


    新改訳は上記のことばを主の命令として訳しています。確かに原文では命令形です。ところが、中澤氏をはじめ、新共同訳はイザヤ自身の決意として、つまり、彼があかしの書を束ね、おしえを弟子たちの中に封じておこうと訳しています。つまり、主のメッセージが人々にとってはつまずきであったとしても、そのメッセージが神からのものであったことが明白になるまで、しっかりと信じて、主のことばが確かなものであることに望みをかけさせようとしているのです。

    「あかし」と訳された原語は「テウーダー」(תְּעוּדָּה)です。その使用数も3回と少ないですが、これは動詞「ウード」(עוּד)が名詞化されたもので、主に戒められたこと、主から警告されたことを含んでいます。[おしえ」は主のみおしえである「トーラー」(תּוֹרָה)。


    【新改訳改訂第3版】イザヤ書8章17節
    私は【主】を待つ
    ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。
    私はこの方に、望みをかける


    ここには、イザヤの確信を示す二つの「待望用語」があります。一つは「待つ」と訳された「ハーハー」(חָכָה)で、一縷の望みとして熱心に待つことを意味します。もう一つは「望みをかける」と訳された「カーヴァー」(קָוָה)です。こちらは主を信頼しながら、期待しながら、沈黙の中で主を待つことを意味します。こうした姿勢こそが、神の民の将来の復興に向けた「しるし」、また「予型」なのです(18節)。


2014.8.9


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