天の御国には「幸いな人」が住む(前半)
5. 天の御国には「幸いな人」が住む(前半)
【聖書箇所】マタイの福音書5章3~6節
ベレーシート
- 「悔い改めよ。天の御国は近づいた。」と宣言して公生涯をスタートされたイェシュアが、口を開いて語った山上の説教における「八つの幸い」についての全体像を前回、概観しました。そこでは八つの面が別々のことではなく、一人の幸いな人のうちに八つの面があるのだということをお話しました。そのことを常に念頭においてください。しかも、「八」という数はイェシュアの象徴数であるということも覚えておいてください。人となられたイェシュアは八つの幸いな面を持って生きられた存在なのです。今回はその「八つの幸い」を二つに分けて、その前半の部分である「四つの幸い」について取り上げます。タイトルは「天の御国には『幸いな人』が住む」(前半)としたいと思います。
- エドゥアルト・シュヴァイツァーというスイス生まれの牧師で、神学者である方の書かれた「山上の説教」(青野太潮・片山寛訳、教文館、1989年)の中に、「八つの幸い」の訳文があるので紹介しましょう。今回取り扱う3~6節までを引用します。
3 霊において貧しい者たちに救いがある。なぜなら天国は彼らのものだから。
4 悲しんでいる者たちに救いがある。なぜなら彼らはなぐさめられるであろうから。
5 謙遜な者たちに救いがある。なぜなら彼らは地を相続するであろうから。
6 義に飢えかわく者たちに救いがある。なぜなら彼らは満腹するであろうから。
- この訳で面白いと思ったのは、「~者たちは幸いです」という部分が「~者たちには救いがある」と訳している点です。貧しい者たちに、悲しんでいる者たちに、謙遜な者たちに、義に飢えかわく者たちに救いがある。もしそのような者たちに救いがないとしたら、その者たちが「幸い」だとは到底言えません。訳が意訳になっていますが、納得できる訳ではないでしょうか。そのような者たちに神によって「救いが備えられている」、その救いの内容は、天の御国は彼らのものであり、悲しみは慰められ、謙遜な者たちが地を相続し、義に飢え渇く者たちは満たされるということです。そうした救いにあずかる者たちはなんと幸いでしょうか。天の御国はこのような救いにすでにあずかった者たちがいるところであり、いまだその約束の中に生かされている者たちのいるところなのです。今度は新改訳で同じ部分をゆっくりと読んでみましょう。
【新改訳改訂第3版】マタイの福音書5章3~6節
3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
(現在形)
4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。(未来形)
5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。 (未来形)
6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(未来形)
- ここに挙げられている御国の幸いにあずかる者たちにあるそれぞれの面が意味することを、イェシュアはここでは何も語っていません。そう簡単に説明できないのです。生まれながらの人間には理解できないのです。「これはいったいどういう意味ですか」と問わない限り、その答えは見出すことができない仕掛けになっています。たとえ、私たちが自分勝手にその意味を理解しようとしても、その真意を悟ることは決してできないのです。例えば、「心の貧しい者は幸いです」 (正確には「霊において貧しい者」) と言われても、その意味するところを神の視点から理解しなければ分からないのです。私たちの経験によって理解することは無理なのです。まさにそのことが「霊において貧しい」という意味なのですが、そのことにさえ気づかないのです。「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇く者」についても同様で、その正しい意味を理解することにおいては、・?・?・?・なのです。しかも、上記の四者すべてが密接なつながりをもっていることさえ理解できないのです。天の御国は、「霊の貧しい者たち」(「悲しむ者たち」「柔和な者たち」「義に飢え渇く者たち」)が、「幸いな者」として新しく生まれるところです。しかしそれは、ただただ神の奇蹟によることです。人間の力によってその幸いを得ることは不可能です。そんな不可能な幸いにあずかる者たちの資質が、「山上の説教」の冒頭で語られているのです。
- 幸いな者たちの四つの面が密接につながっていることを、まず説明してみたいと思います。自分が「霊において貧しい者」であることを悟った者は、はじめて神の深い悲しみを理解する者となります。それがイェシュアの言われる「悲しむ者」の意味です。人が経験する「悲しみ」以前に、神が悲しんでおられることを知る者のことです。人の「悲しみ」を理解できても、神の「悲しみ」を理解できる者はなかなかいません。その神の悲しみの原因は私たちの内に住む罪にあります。霊の貧しさや神の悲しみは、人が罪に支配されて、神を知ることができず(無知)、神のみこころを行うことができない(無力)現実にあります。人の内に、またこの地上に罪が横行しているために、不条理な現実によって打ち砕かれている者がいるのです。そのような者をイェシュアは「柔和な者」と表現しています。そして、そのような者たちが神に出会い、神を知り、神を求めるようになることを「義に飢え渇く者」と表現しているのです。
- もう一度、繰り返します。自分の「心(霊)の貧しさ」の状態を悟る者は、その貧しさをもたらした罪を「悲しむ者」となり、実際に罪の力に打ち砕かれて「柔和な者」とされた者は、ますます「義」(神との生きたかかわり)を求めて飢え渇く者となります。そしてそのような人は、神から慰められるだけでなく、王であるメシアとともに地を受け継ぎ、またそのたましいは何不足なく十全に満たされる者となり、御国のすべての祝福に与ることができるのです。ですから彼らは幸いなのです。
- このような者たちが幸いであるのは、神が支配する天の御国においてです。ですから、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というイェシュアの宣言に私たちはいつも戻らなければなりません。「悔い改めなさい」という命令の意味は、これまでの誤った生き方を悔いて、後悔しなさいという意味ではありません。人が光を浴びるために、光の方向に向きを変えるように、「神に向きを変えなさい」という意味です。具体的には、神を啓示する唯一の方である御子イェシュアの語ることに耳を傾け、イェシュアがなされたことに目を向け、心を向けることです。向きを変えることに努力は要りません。ただ向くだけです。そこから神が新しい事を始めてくださるからです。それが「悔い改め」が意味していることです。ただただ神の方に、イェシュアに向きを変えるということが求められているのです。自分がまだ神のことについて何も知らなくても、神の方に向きを変えるということが求められているのです。なぜなら、神が支配される神の王国が、すなわち旧約で神の民に約束されていた神の支配がすでにイェシュアによって近づいた(=到着した)からです。繰り返し、繰り返し、自分を神の方向に向けるのです。これがイェシュアの言う「悔い改めよ」という命令で、現在形で語られているのです。現在形であるということは、扉が開かれ続けているということです。しかし、永遠に開かれているわけではありません。やがて天の御国が閉じられる時が来ます。そのときまでは戸は開かれ続けています。ですから向きを変えるチャンスはそのときまで、いつもあるのです。やがて神によってその門が閉じられる日まで、私たちは「悔い改める」ことが求められ続けているのです。
- 「悔い改める」ことを別の表現にすると、あなたの心の扉が開くことを願ってノックしておられるとも言い換えることができます。あなたがすることは、ただ自分の心の戸を開いて自らイェシュアを迎えることでもあるのです。
【新改訳改訂第3版】ヨハネの黙示録3章20節
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
1. 霊において貧しいとはどういうことか
- 幸いな者となる者の四つの面をごく簡単に説明しましたが、その一つ一つを取り上げてみることはとても有益です。しかしその中の最初の一つを取り上げたとしても、他のすべてがそこに収斂(しゅうれん)する関係にあります。とすれば、最初の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」という節だけでも、他の三つの事柄(4~6節)を十分に含んでいるということです。ですから、3節を取り上げ、そのみことばに集中してみたいと思います。
- 聖書のいう「幸い」とは、ある状況や環境のことを意味しているのではなく、すべて「人」が強調されています。日本語訳はなかなか分かりにくいですが、英語は原文同様、Blessed are the man who というように、はっきりとしています。こうなったら幸せなのに、ある境遇や環境のもとに生まれれば、あんなことができれば、あんなことが起こらなければ、幸せなのに・・と人は考えます。多くの人が環境や状況に支配され、時代の流行に流され、人の言葉に支配されます。つまり、人は見たり聞いたりする外側からの刺激に対してきわめて敏感であり、それによって人の心(理性・感情・意志)も動かされ、支配されてしまうのです。なぜでしょうか。なぜそうなってしまうのでしょうか。そうなってしまう理由が私たちのうちにあるのです。
- 私と妻が結婚したあとに、妻があるとき突然涙を流したことがあります。その話をしたいと思います。その涙とはどんな涙だったと思いますか。これは妻だけでなく、おそらくどんな人にも共通のものだと思うのでお話しするのですが、その涙とは「今味わっている最高のしあわせな気持ち」がいつか失われてしまうのではないか、終わってしまうのではないか、奪われてしまうのではないか、という心の底にある「恐れと不安」のゆえの涙でした。その「恐れと不安」の強度は人によって異なるでしょう。また、幸せの絶頂期に感じるか、その幸せを失ったときに感じるかも、人によってまちまちだと思いますが、いずれにしても、この「恐れと不安」があるゆえに、人はますます目に見えるものにしがみつき、すがりつこうとします。しかしそれは幻想の運命に終わるというのが、聖書の命題です。なぜなら、目に見えるものは必ず変わるからです。そうした「恐れと不安」から解放し、真のゆるがない幸いを与えようとしているのが、イェシュアが語った「天の御国の福音」なのです。その福音はすでにイェシュアの来臨(初臨)によって到着しているがゆえに、今でもすぐに受け取れる福音ですが、同時に、それはイェシュアが再臨することではじめて完全に実現する福音でもあるのです。「すでに、いまだ」という時の狭間の緊張の中で、信仰を持ちつつ、その到来を待ち望んで生きるというのが、イェシュアの弟子たちの課題なのです。
- そもそも、心の中に起こってくる「恐れと不安」はいったいどこから来るのでしょうか。原因がどこにあるのかが分からなければ、どんな有能な医者であっても手の下しようがありません。また、たとえその原因を知ったとしても、医者がそれに対処できるとは限りません。人の手によってはだれも直すことのできない人間の大問題、これが「恐れと不安」です。それがどこから来るのか、その答えは、人間の心の最も深くにある部分、つまり「霊」の部分からです。その部分がほとんど仮死状態になっているのです。つまり本来人を生かすべき霊が機能不全を引き起こしていることによるのです。しかもこの霊の部分の機能を回復するためには、神の全能の力を必要とするのです。その全能の力はイェシュアの死からの復活によってもたらされました。しかしそれが私たちの霊の部分を生き返らせるには、そのことをしてくださった方を信じる信仰が不可欠です。しかもその信仰さえも、神から与えられる必要があるのです。霊においては完全にどうすることもできない破産状態にあることを悟る者こそ、「霊において貧しい者」なのです。そして同時に、天の御国はその人のものとなることができるのです。
- 「幸い」というものが、人の内側からではなく、外側からのものに支配されているならば、いつそれを失うのか分からないという「恐れと不安」が絶えずつきまといます。しかも、「恐れと不安」に打ち勝たせてくれる「霊」の部分を回復させることは、人間には絶対にできない絶望的な状況なのです。自分の努力で打ち勝とうともがけばもがくほど、ますます「恐れと不安」にさいなまれることになるのです。こうした状況にさいなまれている人のことを、聖書は「霊において貧しい者」と表現しているのです。
(2) 人間を構成している三つの部分
- 「霊」の部分は人間存在の中核にありますが、その部分が機能していないことで、外側からの刺激に心が反応してしまいます。つまり、「からだ」(五感―視覚・聴覚・触覚・臭覚・味覚)が、「心」(理性・感情・意志)に働きかけます。本来、人間に備わっているはずの「霊」の部分が機能不全を起こしているために、自分の「からだ」と「心」だけで物事を考え、行動している形です。ある人は感情的に、「感じたままで」決断し行動します。ある人は知性的に「良く考えた上で」決断し行動します。そこには自分がこれまで蓄積した経験が土台となっています。神と交信する部分である霊の部分が全く働いていなくても、生きているように思います。霊が機能不全を起こしているので、神のご計画やみこころ、御旨と神の目的などとは一切無関係で行動していますが、「恐れと不安」から逃れることはできません。それゆえ人間を包んでいる外側にある「からだ」のどこかが痛くなったり、あるいは絶望的な病気にでもなったりすれば、「恐れと不安」のゆえに心が折れてしまいかねないのです。
- 特に、食べ物のことで心配するのは、「霊」の部分が十分に機能していない顕著な現われのひとつです。イェシュアは言われました。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものは、天の父があなだたがたに必要であることを知っておられます。ですから、まず神の国とその義(神とのかかわり)を求めなさい(求め続けなさい)。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と言われました。これは、神の国とその義を優先して求めるなら、神があなたがたの生存と防衛の保障をしてくださるという約束です。このイェシュアのことばは「霊」の部分が機能していない者にとっては、理解できませんし、また実行できません。「霊」の部分が機能するということは、イェシュアが語られたことがその人の人生にもたらされることを保障するのです。ですから、「恐れと不安」に打ち勝つことができるようになるのです。
- 右の図を良く観てください。神によって創造された本来の人間は、三つの部分からなっていることを心に留めましょう。それは「霊・心・からだ」の三つです。マタイ5章3節の「心の」と訳されている部分は、原文では「トゥー・プニューマティ」(与格)で、「霊において」という意味です。多くの聖書が「心の貧しい人」と訳していますが、正しくは「霊において貧しい人、極貧状態にある人」なのです。人間はちりから造られていますが、主なる神が人の鼻からいのちの息吹を吹き込んだことで、生きる者とされたのです。このことは人間にだけ神がなさいました。他の生き物と人間の決定的な違いは何でしょうか。それは、神の息(ヘブル語では「ルーアッハ」)が吹き込まれたことです。その生きたいのちの息が「霊」の部分を構成していたのですが、人間の罪によってその霊の部分が完全に機能不全に陥ってしまっているのです。このことを悟っても悟らなくても「霊において貧しい者」であることには変わりませんが、そのことを悟った者こそ幸いなのです。なぜなら、そのような者こそ、「天の御国」に最も近いところにいる者であり、「御国」の支配のすばらしさを最高度に経験できる状態にあるからです。「天の御国はその人のもの」ということが永遠において確約されているだけでなく、その祝福を前味として味わうことができるようになるのです。
- 人格の中核にあるその「霊」の部分は、創造者である神と交信する部分です。その部分が罪によって機能不全に陥っているという状態が「貧しさ」であり、単なる物質的・精神的な意味での「貧しさ」とは異なります。「霊において貧しい」状態とは、具体的には、神に対して全く無知であることと、神の要求に対して全く無力であることを自ら認識しているということです。
(3) 霊の貧しい者の実相―パウロを例に
- 使徒パウロは自分の「霊の貧しさ」を、あるいは「霊の部分が機能不全に陥っている状態」を、以下のように述べています。彼はキリストに出会う前には、自信をもった人でした。人から後ろ指をさされるようなことはなにもないと豪語した人物です。ところが、彼の霊の部分が回復すると、以下のように一変しています。
【新改訳改訂第3版】ローマ書7章15,18~24節
15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。
・・・・
18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
- 特に24節こそ、自分の「霊の貧しさ」を知った者の告白なのです。このような者にこそ神の救いがあるのだとイェシュアは語っているのです。自分の霊の極貧状態に気づいた者は幸いです。多くの人はそのことに気づかないために、自分を少しでも豊かにしようと努力し、豊かさを獲得しようとします。しかし御国に生きる人には、すでに法外な豊かさが賦与される立場に置かれています。その賦与された豊かさを楽しむための助け手(=御霊)も与えられています。
- 「金の切れ目が縁の切れ目」と言われるように、利害関係だけでつながっている人間関係の中で生きている人は、それを喪失する恐れと不安をいつも抱えています。それはいわば「獲得していく人生」です。しかし「悔い改めなさい(神に向き直りなさい)。天の御国が近づいたから。」と呼び掛けるイェシュアの声に従うならば、すべてが「賦与されて生きる人生」へと変えられます。賦与されるものはどんなときにも決して失われないものです。「恐れと不安」に心が支配されることは、「霊において貧しい」ことの証拠です。そのことを素直に認め、神に立ち返り、神が賦与してくださる恵みの約束にひたすら拠り頼んで生きること。これが御国に住む者の生き方と言えます。その信仰も神から与えられる賜物なのです。使徒パウロは次のように述べています。
【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙6章23節
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。【新改訳改訂第3版】エペソ人への手紙2章8節
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
(4) 「柔和な者」とは
- 「霊において完全に破綻していると悟った極貧の者は幸いです。なぜなら、天の御国はその人たちのもの(所有)だからです。」こうした極貧状態をヘブル語では「アーニー」(עָנִי)とか、「エヴヨーン」(אֶבְיוֹן)という語彙で表します。極貧度の高いのは後者の「エヴヨーン」の方です。霊の貧しさのために何もできずにうずくまっているような、悲惨な惨めさなのです。それを新約では「柔和な者」「謙遜な者」とも訳しているのです。日本語の「柔和な」とか「謙遜な」というイメージとは異なっています。「柔和な者」とは、人からいじめられても何ら仕返しできない弱さの状態です。どうしてそのような者が幸いなのでしょうか。
- イェシュアはまさにこの「柔和さ」「謙遜さ」の極みなる方です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」とあります(Ⅰペテロ2:22)。一見、そこだけを読むと何とみじめな姿でしょうか。ところが、次があります。「正しくさばかれる方にお任せになりました。」という部分です。これは霊の部分が生きている姿です。しかし人の目には、「何も逆らえない惨めな姿」に見えます。その極みが十字架につけられたイェシュアの恥辱の姿です。ところが、イェシュアは最後まで御父を信頼してお任せになった(=ゆだねた)のです。ちなみに、イェシュアが十字架の上で語られた七つのことばのうち、最後のことばは何だったでしょうか。それはルカの福音書23章46節に記されています。
【新改訳改訂第3版】ルカ 23章46節
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
- 「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」これこそ、「柔和な者」「謙遜な者」の極み、イェシュアの姿です。そのような者に対して「地を相続する」と約束されているのです。「地を相続する」とは、王として治めることを意味します。私たちクリスチャンも御国がこの地に来たときには、イェシュアとともに、地のどこかを治めることが約束されています。その「柔和な者」の極みであるイェシュアは弟子たちにこう語っています。
【新改訳改訂第3版】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
- 上記のことばは、神の福音を語っても多くの人々が拒絶するような働きに参与している弟子たちに対して語られたことばです。ここで語られている「わたしは・・へりくだっているから」の「へりくだっている」が「柔和な」「謙遜な」という意味の「プラウス」(πραΰς)という語彙で、マタイ5章5節にある「柔和な」と同じ語彙です。ねたみのゆえにいじめられたり、不当な仕打ちを受けたり、貧乏くじを引いたりすることは惨めに見えます。しかしそのような者の霊の部分が生かされる時、つまり、神を信頼して、ゆだねる心を持つとき、状況は一変するのです。神がその者に対してどこまでも責任をもってくださり、償ってくださるからです。償うだけでなく、地を相続させてくださるのです。ですから、「柔和な者」は幸いなのです。イェシュアも弟子たちに「柔和であるわたしから学びなさい。」と語っています。
(5) 「義に飢え渇く者たち」とは
- 「霊」の部分の機能を十分に働かせるためには、神のことばであるパンが不可欠です。そのパンを求める者たちのことを、マタイ5章6節では「義に飢え渇く者たち」としています。
- イェシュアが40日断食した後で、試みる存在である「悪魔」がイェシュアを誘惑しました(マタイ4:3)。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と。イェシュアは答えられました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と。
- 「書いてある」というのは、神のトーラーの中にすでに語られ、約束されているということです。イェシュアはそのことばにしたがっているのです。私たちを永遠に生かすことのできるパンはどこにあるのでしょうか。それは神のことば、それを語った御子イェシュアのことばです。そのことを信じることができるとすれば、すでに「霊」の機能が回復している証拠と言えるのです。私たちのこのからだはやがて朽ち果てます。しかし、イェシュアを信じるなら、朽ちることのない永遠のからだが与えられるのです。その朽ちないからだに必要なのは、神のパン、すなわち、神のことばです。神のことばは永遠に私たちを生かし続けることができるからです。ですから、私たちは神に向きを変えて、神からのパンによって養われるならば、天の御国にあるすべての祝福を手にすることができるのです。これが「義に飢え渇く者たち」のすがたでもあり、「霊において貧しい者たち」の姿でもあるのです。そしてそのような者たちは幸いなのです。なぜなら、天の御国の一切の祝福はそのような人のものであり、一切が満たされるからです。
2. 天の御国はひたすら神の恵みに拠り頼む世界
- 最後に、今日の四つの幸いな者たちを要約している聖書の箇所を取り上げてみたいと思います。それは有名な詩篇23篇です。この詩篇に書かれていることは、今すでに経験できることであり、かつ、やがて完全な形で経験できることなのです。天の御国の「幸いな人」の姿を預言している詩篇なのです。
【新改訳改訂第3版】詩篇23篇
1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。
- この詩篇には神に対する要求は何一つありません。神によってすべてが満足している「幸いな人」を描いています。主体はすべて「主」である「あなた」です。完成された御国においては、「霊」の部分が、聖霊によって本来の機能が回復するために、貧しい者はなく、すべてが神の祝福の豊かさに輝いています。まさに天の御国にいる幸いな人は、詩篇23篇に描かれているような人です。
- この詩篇の結論は、「私は、いつまでも主の家に住まいましょう。」です。主の家に住むことの前に、主に向きを変えて、主のもとに帰らなければなりませんが、その目的は主の家に永遠に住むことなのです。この詩篇には自分が永遠にいるべきところを見出した幸いな者の喜びがあふれています。
2017.2.26
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