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悪い、姦淫の時代に与えられるヨナのしるし

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51. 悪い、姦淫の時代に与えられるヨナのしるし

【聖書箇所】マタイの福音書12章38~42節

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  • マタイの福音書12章38~50節は大きく三つの部分からなっています。新共同訳聖書はそれぞれの部分に見出しがついているので一目瞭然です。それによれば、(1) 38~42節は「人々はしるしを欲しがる」、(2)43~45節は「汚れた霊が戻って来る」、(3)46~50節は「イエスの母、きょうだい」となっています。一見、関係のない内容のように思われますが、実はこの三つの部分が一連の流れとしてつながっています。今回は(1)のみを取り上げ、次回に(2)と(3)を取り上げます。そうすることで、その一連の流れを貫いているものが何であるかを探りたいと思います。まずは、今回の38~42節を見てみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書12章38~42節
38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。
39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。
40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。


1. 「悪い、姦淫の時代」に与えられる唯一のしるし

  • なぜ律法学者とパリサイ人たちは、「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言ったのでしょうか。同じ質問が16章にもありますので、その箇所を比べてみたいと思います。二度も同じことを記しているのは、重要な事柄が扱われているからです。

【新改訳2017】マタイ16章1、4節
1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
4 「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。

  • 12章と16章の共通点は、イェシュアに「あなたからしるしを見せてほしいと求めた」ことです。いずれも、当時の宗教指導者たちがイェシュアのところに来ています。それに対して、イェシュアは「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です」と述べたことです。この共通点が重要です。相違点は共通点を補強するためです。
  • 「しるし」(「セーメイオン」σημεῖον ・「オート」אוֹת)という言葉が、マタイの12章で初めて登場します。「しるし」とは目に見えるもので、それは癒しとか奇蹟という意味も含まれますが、本来的には「イェシュアがメシアであることの確かな証拠」を意味しています。
  • 12章と16章の相違点は何でしょうか。

①12章では「律法学者、パリサイ人たちの仲間のうちの何人か」であったのに対し、16章では「パリサイ人たちやサドカイ人たち」が来たとあります。「律法学者」も「パリサイ人」も「サドカイ人」も、いずれも当時の宗教指導者たちです。特に、パリサイ人とサドカイ人とは本来仲良くないのですが、ここでは手を組んで、イェシュアを試そうとしています。

②12章では「しるし」とあるのに対し、16章では「天からのしるし」となっています。旧約聖書にメシアが到来するときは、天にも地にも、驚くべきしるしがあると聖書にあるからです。たとえば、ヨエル書2章30~31節がそうです。「30 わたしは天と地に、しるしを現れさせる。それは血と火と煙の柱。31 【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」(新改訳2017)。そのようなアッと驚くようなしるしを見せてほしいと求めてきたのです。

③12章ではイェシュアのことを「先生」(ラビ)と呼んでいます。「先生」という呼び名は一見尊敬していると見せかけて、その実イェシュアを侮辱するものでした。16章では「先生」はなく、イェシュアを「試そうと」近づいて来たとあります。「試す」(「ペイラゾー」πειράζω)という語は、荒野で悪魔がイェシュアを誘惑したことばと同じ語です。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」とか、「あなたが神の子なら、下に身を投げ出しなさい。(聖書に・・と)書いてあるから」というようにです。こうした悪魔の命令したことに、イェシュアは引っ掛かりませんでした。

  • 律法学者やパリサイ人たちも「もしあなたがメシアであるのなら、そのようなしるしを示して見せてほしい」というのも、悪魔と同じことをしているのです。「見せて」の「エピデイクニューミ」(ἐπιδείκνυμι)、「求める」の「エペロータオー」(ἐπερωτάω)にある強調の接頭語「エピ」(ἐπι)が付いていることから、もっとより劇的な、もっとより衝撃的な証拠を見ない限り、決して信じないという彼らの悪意のニュアンスが垣間見えるのです。
  • イェシュアのもとに来た律法学者、およびパリサイ人のうちの何人かは、これまでのイェシュアの言動においてメシアとしての確かな証拠を見出せませんでした。イェシュアの語る教えは自分たちが教えている律法(トーラー)の伝統的な解釈と異なっていただけでなく、安息日の癒しはそもそも律法違反としか映りませんでした。イェシュアはすでにさまざまな癒しと奇蹟によって御国がいかなるものかをデモンストレーションしていたにもかかわらず、当時の支配者階級であった彼らの目には、そのようには見えなかったし、見ようとは思わなかったのです。それはなぜでしょうか。いくつかの理由があります。
  • 第一の理由は、律法学者やパリサイ人たちは律法主義に陥り、貴族階級のサドカイ派たちは儀式・形式主義に陥っていたからです。律法主義とは、神の教えを規則化して、それを文字どおりに忠実に守ろうと努力し、かつ守ることができるという考え方です。その結果、偽善に陥っていたのです。偽善とは「言うだけで実行しない、実行できない」ことです。それゆえイェシュアは、彼らを「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」(23:13, 15, 23, 25, 27, 29)としておられます。サドカイ人は大祭司を頂点とする神殿に仕える祭司たちで、神殿を維持するためにローマ帝国と癒着して権威を得、その地位にあぐらをかいていた保守派勢力の指導者たちです。イェシュアは自分の弟子たちに「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」と忠告しています。「パン種」とは彼らの「教え」のことです。
  • 第二の理由は、イェシュアに対する嫉妬からです。常に人々からあいさつされること、人々から先生と呼ばれることが大好きな連中です。神のことよりも自分が人からどのように評価されているかを気にします。イェシュアが言っているように「彼らがしていることはすべて人に見せるため」(マタイ23:5)でした。彼らの信仰は「聞く信仰」ではなく、「見せている信仰」だったのです。ですから、悪霊につかれた人をイェシュアが癒やされたことで、群衆が驚いて「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったため、それを聞いたパリサイ人たちはすかさず、「この人は、ただ悪霊どもの頭ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と言いました。パリサイ人たちは悪霊につかれた人が癒されたことよりも、「この人はダビデの子ではないだろうか」という群衆の言葉に反応しています。「ダビデの子」とはメシアの称号でした。彼らは群衆がイェシュアになびくことを何よりも快く思っていなかった人たちなのです。つまりイェシュアに対する嫉妬です。やがて彼らがイェシュアを十字架につけるようにローマ総督ピラトに告発したとき、「ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていた」(マタイ27:18)とあります。第三者からはそのように見抜かれていたのですが、当人たちは何とか正当化してイェシュアを殺そうと思っていたのです。聖書の最初の殺人事件はカインが弟のアベルを殺したことですが、その原因は「妬み」によるものでした。
  • 人からの称賛が自分の地位と立場と結びついている人は、他人が好意的な言葉で評されるのを聞くと、絶えざる不安にさらされるのです。イスラエルの最初の王となったサウルがそうでした。女たちが笑いながら、楽器を手にもって歌った「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という歌を聞いたとき、激しく怒り、不機嫌になったとあります。そして、「その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった」とあります。「目をつける」とは、ねたみと猜疑の目で見るようになったという意味です。同様に、人々の尊敬を求めることに熱心であったパリサイ人たちは、群衆の尊敬がイェシュアに向くことで、自分たちの権勢が奪われることを恐れたのです。そうした恐れが「この人は、ただ悪霊どもの頭ベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」という言葉に表されたのです。
  • 第三の理由は「悪い、姦淫の時代はしるしを求める」からです。律法主義に陥り、偽善者となっていたパリサイ人たち、そしてローマ帝国と癒着して権威を得、その地位にあぐらをかいていたサドカイ人たちが支配する時代を、イェシュアは「悪い、姦淫の時代」と呼んでいます。ギリシア語「ゲネア・ポネーラ・カイ・モイカリス」(Γενεὰ πονηρὰ καὶ μοιχαλiς)を、口語訳では「邪悪で不義な時代」、新共同訳では「よこしまで神に背いた時代」、フランシスコ会訳では「神を捨てた悪い時代」、バルバロ訳では「この悪いよこしまな代」、他には「よこしまで、ふしだらな時代」と訳されています。
  • 「悪い」と訳されたギリシア語「ポネーラ」(πονηρὰ)は、「悪い、役に立たない、劣悪な、悪質な、邪悪な、よこしまな、悪意」を表し、その名詞の「ホ・ポネイロス」(ὁ πονηρός)は、「私たちを試みに合わせないで、悪よりお救いください」(マタイ6:13)とあるように、邪悪な存在、すなわち「悪魔、サタン」を意味します。ヘブル語だと「ラー」(רָע)という形容詞になります。創世記28章8節に「エサウは、カナンの娘たちを、父イサクが気に入っていないことを知った」とありますが、「気に入っていない」と訳されたところに「ラー」(רָע)があります。エサウがカナンの娘たちと結婚したことが、父イサクの気に入らないことをしたという意味で使われていますが、それは神のご計画に役立たない、悪質な行為という意味にもなります。パリサイ人たちの律法主義が、神にとって「気に入らない、みこころにそっていない、むしろ背いている悪質な」という意味で「悪い」のです。
  • もう一方の「モイカリス」(μοιχαλiς)は、結婚して人妻でありながら他の男と関係を結ぶ者、姦婦を意味します。ここでは生ける神を裏切って偶像を拝する者、すなわち「神に背く者たち」を意味します。神とイスラエルの関係が夫と妻の関係であることから、神を裏切って偶像礼拝をするという意味で使われています。ヤコブ書4章4節では「節操のない人たち」と表現され、「世を愛することは、神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです」とあるように、みことば自身が注解しています。イェシュアの時代は神から見ればまさにそのような時代だったのです。そのような時代に、神の御子イェシュアが遣わされたのです。なにゆえに遣わされたのかといえば、それは以下の預言が成就するためです。

【新改訳2017】ホセア書 3章1節
【主】は私に言われた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している(נָאףの分詞形=מְנָאֵף)女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、【主】が愛しているように。」

  • もうひとつ、「悪い、姦淫の時代」の「時代」と訳された「ゲネア」(γενεά)は、一義的にはイェシュアの時代の世代を意味しますが、イェシュアの初臨から再臨までの期間(猶予期間)をあらわすとも言えます。なぜなら、イェシュアの再臨の時まで、イェシュアがメシアであることの「これぞ」というしるしは、ヨナのしるし以外には与えられていないからです。

2. 「ヨナのしるし」とは

  • 39節でイェシュアは「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です」と言われました。ところで、ヨナのしるしとは何でしょうか。
  • イェシュアは多くの癒しと奇跡によってご自分がメシアであることを示されました。にもかかわらず、それ以上のしるしをやたらに求めることは、悪魔がそうであったように、神を人間の思い通りに動かそうとすることであり、非常に不敬虔なことであるのです。
  • 私たちの周りにも「神が存在することを今証明してくれたら、神を信じてやってもいい」という人がいます。あるいは「私が親しくしている者が神を信じられないというので、癒しと奇跡の集会に連れて行きたいと思います。そこで神の癒しや奇蹟を見たら、きっとその人は信じると思うんです」と言っている人はいないでしょうか。信じる決め手になるようなしるしをやたらと求めているのはパリサイ人と一緒です。これが「悪い、姦淫の時代」と言われているもので、偶像礼拝となんら変わりありません。ですから、「悪い、姦淫の時代には、(あなたがたが考えているような)しるしは与えられない」のです。神が私たちの思う通りにはしないからです。ただし、イェシュアは「預言者ヨナのしるしは別です」と言われました。これはどういうことでしょうか。
  • 「ヨナのしるし」とは、イェシュアがメシアであることの、神による最終的な、決定的な、究極的なしるしなのです。もし、このしるしでイェシュアがメシアであることを信じることができなければ、後はないということです。「ヨナのしるし」といっても、神がこれからイェシュアを通して与えられるしるしです。その型がすでにヨナの出来事に予表されているということです。マタイ12章40節にこうあります。

【新改訳2017】マタイの福音書12章40節
40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

  • 預言者ヨナが三日三晩、大魚の腹にいたことを知っていますか。彼がなぜ大魚の腹にいることになったのか、その経緯を簡単に説明すると、こうです。紀元前8世紀頃、イスラエルの預言者ヨナは、異邦人であるアッシリヤの首都ニネベの人々に神のことばを伝えるように命じられます。ところが、ヨナは主の御顔を避けてニネベとは逆方向のタルシシュに逃れようと船に乗り込みます。ところが、神が激しい暴風を起こされたので、船は難波しそうになります。船員たちはそれぞれ困った時の神頼みということで必死に祈りますが、ヨナは船底に行ってぐっすり寝入ってしまいました。こんな彼を船長は起こして祈るように言います。船員たちはこのような災難に遭うのはだれかが悪いことをしたに違いないと思い、全員にくじを引かせて悪人を見つけ出そうとします。そしてそのくじがヨナに当たったことから、ヨナは白状します。そのことでヨナは海に投げ出されたのです。すると海は凪になりました。主は大きな魚を備えて、ヨナを飲み込ませました。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいたのです。そこでヨナは悔い改めの祈りをした時、主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させました。ヨナはニネベに行って神のことばを伝えたのです。その神のことばを聞いたニネベの人々は奇蹟的に悔い改めて、神のさばきを免れるということが起こったという話です。この話を律法学者とパリサイ人たちは知っていたはずです。なぜなら、ユダヤの年一度の「大贖罪日」にはヨナ書が読まれていたからです。
  • イェシュアは「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです(口語訳は「いることになる」)」、これがあなたがたに与えられる唯一のしるしだと言われました。これをもう少し丁寧に言うと、ヨナが三日三晩、大魚の腹にいてそこから吐き出されたように、人の子(イェシュアのこと)も、同様に三日三晩、死んで地の中にいて、三日目によみがえる、これがしるしだと言われたのです。ただ単に地の中にいたというだけでは意味をなしません。死んで、生き返るというしるし、これが「ヨナのしるし」と言われるものなのです。
  • おそらく律法学者やパリサイ人たちはこれを聞いても意味が分からなかったに違いありません。イェシュアがメシアであることを示すしるしを、弟子たちよりも前に彼らに話されたのです。弟子たちがこのしるしについて知るのは、マタイの16章21節からです。ピリポ・カイザリヤ地方に行かれた時、イェシュアは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれと言いますか。」と尋ねます。するとシモン・ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えます。模範解答です。するとイェシュアはペテロに言います。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられる私の父です」と。なぜ「バルヨナ・シモン」なのでしょうか。「バルヨナ・シモン」とは「ヨナの子、シモン」という意味です。このような言い方で彼を呼んだのは後にも先にもここだけです。意味深長です。彼は「あなたは生ける神の子キリストです」と模範解答をしていますが、イェシュアがメシアであることのしるしについては分かっていません。イェシュアはこのあとにそのしるしについて説明を始めます。

【新改訳2017】マタイの福音書 16章21節
そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

  • これを聞いた弟子たちはどう思ったことでしょう。少なくともペテロの反応はこうでした。

【新改訳2017】マタイの福音書16章22~23節
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

  • 全く分かっていないのがバレバレです。「ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」、このしるしこそが、「悪い、姦淫の時代に与えられる唯一のしるし」なのです。イェシュアがメシアであることの、神の最終的な、決定的な、究極的なしるしなのです。イェシュアは「人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります」、このことを繰り返し弟子たちに語りますが、彼らはただ悲しむだけで、信じることができなかったのです。イェシュアが十字架によって死んだ後でさえも、三日目によみがえらなければならないということを、三年半寝食を共にした弟子たちでさえ、信じることができなかったのです。
  • 復活されたイェシュアはエマオに向かう弟子たちに現われて言います。

【新改訳2017】ルカの福音書24章25~27節
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

  • エルサレムでも復活のイェシュアは現われて言います。

【新改訳2017】ルカの福音書24章44,48~49節
44 そしてイエスは言われた。・・・わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
48 あなたがたは、これらのことの証人となります。
49 見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

  • 弟子たちは「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」というイェシュアのことばを信じて、エルサレムで祈り待ち望みました。そして10日目、「五旬節」の日に約束された聖霊を受けたのです。それからの弟子たちは、イェシュアこそ、聖書が預言していたメシアであることを証しし始めたのです。イェシュアがメシアであることのしるし、証拠とは何ですか。それは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれ、聖書に書いてあるとおりに、三日目に蘇られたことです。それが聖書のいう「福音」なのです。十字架の死と復活という出来事が、イェシュアがメシアであることの決定的な、究極的なしるしなのです。このことに律法学者もパリサイ人たちも、聖書を研究するラビたちも誰も気がつきませんでした。メシアとはこういうものだという先入観が、理解の型紙が、そのことを見えなくしていたのです。聖書に書かれているのに、です。使徒たちはイェシュアの死と復活を大胆に宣言して、イェシュアがメシアであることを論証し、メシアの王国の完成がいかにすばらしいものであるかを宣べ伝えて行ったのです。

3. 「ヨナにまさるもの、ソロモンにまさるもの」とは

【新改訳2017】マタイの福音書12章41~42節
41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。

  • 41節と42節を見ると分かるように、同義的パラレリズムになっています。それは、ニネベの人々がヨナの説教を通して悔い改めたこと、南の女王がソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たこと、この二つがメシアのさばきの前で「悪い、姦淫の時代の人々」が、神に悔い改めないなら、神の知恵を聞こうとしないなら、「罪ありとする」としています。しかしイェシュアは「見なさい。ここに」(「ヒンネー・フォー」הִנֵּה־פֹה)と喚起しています。なぜなら、ここに「ヨナにまさるもの」「ソロモンにまさるもの」があるからです。すでに12章6節には「ここに宮よりも大いなるものがある」とあります。宮、すなわち神殿を司るのは大祭司です。ヨナは預言者、そしてソロモンはです。イェシュアによってメシアの王国の支配が今ここに、そしてやがて完成することを宣言しているのです。それは単にイェシュアを信じれば、罪が赦されて、神の子とされて、天国に行けるという個人的な救い以上のことを言っているのです。
  • イェシュアがメシアであると告白することは、御国の民となるための唯一の条件です。それは神がイスラエルに対して約束されたことがひとつもたがわず成就することであり、異邦人である私たちもそれに接ぎ木されることなのです。私たちは礼拝で「イェシュア・ハマシアッハ」と賛美していますが、それがどれほど偉大で崇高であることか、勝利と栄光に富んだことであるか。私たちの霊の目がますます開かれるように祈りたいと思います。

2019.3.24

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