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神のなさることは、すべて時にかなって美しい

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

3. 神のなさることは、すべて時にかなって美しい

【聖書箇所】3章1~22節

ベレーシート

  • 「日の下」(「タハット・ハッシャーメシュ」תַּחַת הַשָּׁמֶשׁ)が、3章1節では「天の下」(「タハット・ハッシャーマーイム」תַּחַת הַשָּׁמָיִם)に変わっています。「日の下」(太陽の下)と「天の下」は異なります。「天の下」とは「神の世界」を意味します。このフレーズが「伝道者の書」で使われているのは3回(1:13/2:3/3:1)だけです。3章1~15節では「天の下」のことについて記されており、再び、16節からは「日の下」で見たことが記されています。
  • 「天の下」では、神が支配する「定まった時期(季節)」(「ゼマン」זְמַן)や「時」(「エーット」עֵת)があります。人はその時の支配から逃れることはできません。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」のです。ヨブのように、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と言えればすばらしいことですが、その神の時の支配を受け入れることができないところに、人の悩みがあります。

1. 神のなさることは、すべて時にかなって美しい

  • 人の支配のおよばぬ神の時の支配について、コーへレット(伝道者)は、3章11節で次のように述べています。

    【新改訳改訂第3版】
    神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

    【新共同訳】
    神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。


    ●原文の直訳は「すべてのことを・神はなされる・美しく・時にかなって」「また、永遠を・神は与える・人の心の中に」「にもかかわらず・見極めることはできない・人は・神がなされるわざを・初めから終わりまで」となっています。

  • 11節で、神のなさるすべてのことが、時にかなって「美しい」としていることが印象的です。「美しい」と訳された「ヤーフェ」(יָפֶה)は、特定の人物の顔や姿の際立った美しさを表わす語彙ですが、ここでは、神の時の支配や歴史(摂理)の美しさ・麗しさについて用いられている、聖書の中でも珍しい箇所です。
  • クラシック音楽の有名な交響曲を聞くと、その構成のすばらしさに圧倒されます。モーツァルトやベートーベン、特にチャイコフスキーのような作曲家の音楽の流れはまさに見事というほかありません。豊かな旋律の流れが形を変えながら流れていく、まさに時間芸術です。そこには始まりがあり、終わりがありますが、その流れはわずか1時間もありません。しかし神の時の支配は永遠です。そしてその時の流れの初めから終わりまで、私たち人間には見極めることができないのです。しかし伝道者は言います。「神のなさるすべてのことは、時にかなって美しい。」と。私たちはそれを信じるしかありません。
  • 神がご支配される時の中で、「天の下」で私たちができると言えば、「生きている間に喜び楽しむほか何も」ありません(12節)。また、「すべての労苦の中にしあわせを見いだす」(13節)しかありません。「天の下」においては、それも神の賜物として受けとめることはある意味では健全かもしれません。しかし、本来、人には永遠への思いが与えられているのです。にもかかわらず、その「初めから終わりまで見きわめることができない」ばかりか、「人の子の結末と獣の結末とは同じ結末」(19節)であり、「人は何も獣にまさっていない。」(19節)「みな同じ所に行く」(20節)。とすれば、人が永遠の思いを与えられたとしても、それは「むなしい」ことだと伝道者は言っているのです。

2. すべてのことを相働かせて益とされる神への揺るぎない確信

  • 人が自由に支配することのできない時の流れの中にあって、使徒パウロは次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】ローマ書8章28節
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

【新共同訳】
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

【フランシスコ会訳】
聖霊は、神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人とともに働き、すべてが益となるように計らわれることをわたしたちは知っています。


●上記の訳では、主体が「神」「万事」「聖霊」とあって、異なっていますが、原文の最初にある「私たちは知っています」はみな共通しています。ここでの「私たち」とは、「神を愛する人々」であり、「神のご計画に従って召された人々」のことです。また、「すべてのこと」の内容についてはここでは特に記されてはおりませんが、おそらく、私たちの目には良いように見えることも、悪いように見えることもすべて、あるいは、意識されることもされないことも含めて、人生の中で経験するありとあらゆる事柄、出来事が、私の「益となる(幸いな結果をもたらす)」という事実です。その事実を知っているとパウロは述べているのです。ここでの「益」は、神の恩寵の総称としてのユダヤ的表現である「トーヴ」(טוֹב)だと理解できます。パウロが「私たちは知っている」と言うのは、神のトーヴに対する揺るぎない確信の表明です。


  • こうした確信があるのとないのとでは生き方が全く変わってきます。つまり、神はどんなときにも「トーヴ」な方であり、「トーヴ」なものしか与えることのできない方であるという確信があるならば、どんな苦しみにあったとしても、そこに意味があることを確信することができ、希望を持つことができます。逆に、意味があることが確信できなければ、苦難に耐えることは難しいのです。しかし、すべてのことを相働かせてコーディネイトしてくださる方がおられる」という確信があれば、自分がなすべき歩みにおいてブレなくなります。それゆえ御霊の導きにゆだねながら今なすべきこと、今与えられている責任に対して渾身の力を注ぐことができるのです。それがキリストにある者の生き方であることを確信して、パウロはここで「私たちは知っています」と言っているのです。
  • 聖霊のコーディネイトは私たちの理性ではうまく描き切れないほどに、より綿密に仕組まれているのです。しかしそのコーディネイトの目的はあくまでも「私たちの益のため」なのです。それはまるで、着物の帯の美しい文様のようです。それはその帯の裏を観るなら決して綺麗ではありませんが、表から観ると実に綺麗なのです。そんな人生を、神を愛する者たち、神の御計画に従って召された者たちに、聖霊(神)が描いてくださるのです。なんとすばらしいことでしょうか。そんな生涯が約束されているのです。それゆえ、私たちに与えられている賜物としての聖霊の導きに感謝して歩みたいと思います。

2016.2.27


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