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三つ撚りの糸は簡単には切れない

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伝道者の書は「光なき人生の虚無から、まことの光に生きることを指し示す」最高のテキストです。

4. 三つ撚りの糸は簡単には切れない

【聖書箇所】4章1~18節

ベレーシート

  • 4章には、「日の下で」行われる虐待の悪について(1~3節)、すべての労苦と仕事の成功の根源にある妬み(4~6節)のむなしさ。また「ひとりぼっち」のむなしさ(7~8節)について語られています。さらに、指導者に対する人々の迎合のむなしさ(13~16節)について語っていますが、とりわけ9~12節の部分は他とは異なっています。「日の下」にある唯一の報いについて語られています。今回はその箇所の中から、12節の「三つ撚りの糸は簡単には切れない」というフレーズに焦点を当ててみたいと思います。
  • このフレーズは、私が結婚した時に妻が行っていた教会のK牧師のお祝いの色紙に書かれていたものですが、私も大学の聖研の合宿でこのみことばを知っていました。そして今もなお、このフレーズを結婚式でのメッセージの中で使っています。一般の結婚式では「切る」ということばは縁起が悪いということで使われませんが、私は敢えて使っています。というのは、「三つ撚りの糸は簡単には切れない」とあるからです。というのは、「切れない」永遠のかかわりがあることを示唆するためです。どんなに愛し合っている二人でも、「日の下で」は危ういからです。二人だけでなく、もう一つの糸、すなわち、二人を引き合わせて下さった方(=イエス・キリスト)が入ることで切れない撚り糸になるからです。
  • ところで、この「三つ撚りの糸は簡単には切れない」というフレーズは、神の永遠のご計画と深くかかわっている重要なみことばであることを、今回の瞑想で改めて深く思わせられました。まずは、9~12節を見てみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】伝道者の書4章9~12節
9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
11 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。


●12節の「三つ撚りの糸は簡単には切れない。」という部分を、新共同訳は「三つよりの糸は切れにくい」と訳しています。新改訳のような「切れない」という断定ではなく、「ひょっとしたら切れるかもしれない」という可能性を含んだ訳となっています。おそらくここでの動詞が完了形ではなく、未完了となっていることからの訳なのだと思います。

●ちなみに、「三つ撚り」のことを「メシュラーシュ」(מְשֻׁלָּשׁ)と言いますが、この語彙の語幹となる動詞「シャーラシュ」(שָׁלַשׁ)も、「日の下で」と訳された「タハット」(תַּחַת)と「シェルシュ」(שֶׁמֶשׁ)と同様に、「山本山」の配列です。


1. ふたりが労苦すれば、良い報いがある

  • この箇所全体は「ふたりであることの祝福」が述べられています。一人では得られないすばらしさです。伝道者は「日の下で」ふたりであることのすばらしさを、ひとりぼっちのむなしさと比較しています。このふたりとは必ずしも結婚する者のことを意味していません。仲間、友人、協力者であっても良いのですが、特に11節には「いっしょに寝ると暖かい」とありますから、ここでの「ふたり」とは「夫婦」と理解するほうが自然です。
  • 天地創造の後、神である主がエデンの園に置かれた人はひとりでした。その人はすべての生き物に名前をつける(=それは生き物を支配することを意味します)という立場にいましたが、人には「ふさわしい助け手が見つからなかった」とあります(創世記2:20)。そこで神である主は「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言って、深い眠りをその人に下し、彼が眠っている間に、彼のあばら骨の一つを取ってひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られました(2:21~23)。「ふさわしい助け手」の存在によって、人は人となるのです。「ふさわしい助け手」を与えられた人がその「助け手」とともに労することに良い報いがあるというのです。「労すること」とは、「結び合って一体となるための労苦」を意味します。それは愛し合うことを通して「家」を建て上げることです。ここに結婚の奥義があります。この結婚の奥義は、神のご計画と密接なつながりをもっているのです。「人がひとりでいるのは良くない」とする神のみこころが、神のご計画の目的と密接に関係しているからです。

2. 「三つ撚りの糸は切れない」という神の秘密

男の女のヘブル語.JPG
  • 「夫と妻が結び合って一体となる労苦」は、決して二人だけによるものではないというのが聖書の教えです。それは「男」と「女」を表わすヘブル語の文字の中に隠されています。
  • 男はヘブル語で「イーシュ」(אִישׁ)、女はヘブル語で「イッシャー」(אִשּׁה)です。男と女を表わすヘブル語をよく観察すると、相手にあって自分にはない文字といえば、女の場合は「ヨッド」(י)で、男の場合は「へー」(ה)という文字です。
    主の名前.JPG
    その二つの文字を合わせると「ヤー」(יָה)となります。つまり、男と女が一体となることで、主の名前を表わす「ヤーハ」(יָהּ)という文字がそこに存在するようになります。「ヤーハ」(יָהּ)とは神聖四文字であるיהוהを略した形で、「主」という神の固有名詞です。
火.JPG
  • しかしその「ヤーハ」(יָהּ)が抜け落ちると、そこには「エーシュ」(אֵשׁ)しか残りません。「エーシュ」(אֵשׁ)は「火」を意味することばです。ということは、「ヤーハ」である主が「男」と「女」との間に存在しなければ、その関係はお互いを焼き尽くす火ともなり、二人の関係は大変なことになることを物語っています。「火」は聖書においては神のさばきと関連しています。その意味では、夫婦という二つの糸ともうひとつの糸である主によって撚られる「三つ撚りの糸は簡単には切れない(切れにくい)」のです。
  • 以上が、ヘブル語の「男」と「女」の霊的関係の意味です。自分にはないけれども、お互いに相手にあるものを大切に受け入れるとき、そこに主がおられ、主の祝福を受けた三位一体的関係にある結婚の幸いを与えられるということです。
  • 今日の傾向として、結婚する者たちが減少してきています。いろいろな要因があると思いますが、結婚をして子どもを養育し、家庭を築くことは、神の永遠のご計画と深くかかわっていることを知る必要があります。単なる時代的な流れに流されることなく、結婚における労苦は主の報いがあることを心に留めたいと思います。
  • 付記として、結婚におけるその麗しさは「雅歌」の中に、また家庭における子どもの教育の重要性は「箴言」の中に記され、そして家庭を建て上げるすべての労苦には報いがあってむなしくないということが「伝道者の書」の中に記されていると言えます。

2016.3.1


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