****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

2章7節「神である【主】は、その大地のちりで人を形作り」


創世記2章7節

【新改訳2017】
神である【主】は、その大地のちりで人を形作り、
その鼻にいのちの意を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

【聖書協会共同訳】
神である主は、土の塵で人を形づくり、
その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。

ז וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת־הָאָדָם עָפָר מִן־הָאֲדָמָה
וַיִּפַּח בְּאַפָּיו נִשְׁמַת חַיִּים וַיְהִי הָאָדָם לְנֶפֶשׁ חַיָּה׃

べレーシート

●人(「アーダーム」אָדָם)の創造についての記述は、2章7節と1章27節とでは異なっています。まず、1章では人が最後に造られているのに対し、2章では最初に造られています。また1章では「創造した」(「バーラー」בָּרָא)であるのに対し、2章は「造られた」(「アーサー」עָשָׂה)となっています。それは「ちり」という材料で造られているからです。そして、1章の人は「神のかたちとして創造された」のに対し、2章では「土の塵で人を形づくり、いのちの息が鼻に吹き込まれて、生きるものとなった」という点です。「土の塵で人を形づくり」とは、人の「からだ」を指しています。「いのちの息が鼻に吹き込まれた」とは、人の「霊」が神から与えられた事実を指しています。そして「生きるもの」(原文=「生けるたましい」ネフェシュ・ハッヤー)となったとは、人が「たましい」(知情意)を持ったことを指しています。

●「いのちの息」()が「土の塵で形づくられた」(からだ)に吹き込まれたときに、人は「生きるもの」、すなわち「自分自身の意識を持つ者」(たましい)となったということです。このようにして、人は三つの部分(霊・たましい・からだ)を持つ者となったのです(Ⅰテサロニケ5:22)。

1. 大地のちりで形作られた人間(ハーアーダーム)

(1) 「その大地」

●神は人を、冠詞付きの「その大地」(「ハーアーダーム」הָאֲדָמָה)の「ちり」(「アーファール」עָפָר)で「形造り」(「ヤーツァル」יָצַר)とあります。冠詞付きの「その大地」は、原文では「その大地から」(「ミン・ハーアーダーマー」מִן־הָאֲדָמָה)となっています。その大地がどこの大地なのかは具体的には示されていませんが、これから展開していく「人」(冠詞付きの「ハーアーダーム」הָאָדָם)が、「イスラエルの民」を示唆しているとすれば、「その大地」とは「ミツライム」(=エジプト)、ないしは「荒野」とも解釈することができます。

(2) 「ちり」

●土の「ちり」(「アーファール」עָפָר)とは、乾いて風に巻き上げられれば土埃に、水分を含めば粘土になる粒子の細かい土のことです。空しい無価値なものの比喩に用いられることもあれば(詩篇103:14、ヨブ22:24)、陶器師が選び出した最高の粘土をも意味します。ヨブ記10章9節でこう語っています。

【新改訳2017】ヨブ記 10章9節
思い出してください。あなたは私を粘土(「ホーメル」חֹמֶר)のようにして造られました。
私を土のちり(「アーファール」עָפָר)に戻そうとなさるのですか。

●この箇所は同義的パラレリズムです。つまり「粘土」と「ちり」は同義だということです。聖書は神と人(イスラエル)との関係を例える表現として、陶器師と粘土という類比を用いました(エレミヤ18:2~11)。脚注

●陶器師は選び出した粘土を何度も揉んで形にしたあと、それを火で焼くことで陶器となります。これはとても大切なプロセスです。火で焼くとは試練を意味します。尊い「ちり」(=特別に選ばれた粘土)を目に見える形にした後に、火という試練(苦しみ)を通して神の作品とするのです。それはイスラエルの民も、また教会も同様です。とりわけ、イスラエルを形造った(ヤーツァルした)方が、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と言っています(イザヤ43:4)。

●このように、「ちり」は「イスラエルの民」のたとえとも考えられます。エジプトの大地からイスラエルの民を連れ出し、神ご自身の手でそれを「形作って」、「いのちの息」を吹きかけて生きたものとするという偉大なストーリーが隠されているとも考えられます。これこそ「神である主」という名が意味するころです。

●同じ「ちり」と訳されていても、詩篇90篇3節にある「あなたは人をちりに帰らせます」の「ちり」とは語彙が異なります。詩篇90篇の「ちり」は「ダッカー」(דַּכָּא)で、「人を神に立ち返らせるために、神の前に砕かれる」という積極的・恩寵的な意味合いがあります。同じ「ちり」でも原語を見ると異なっています。人間は土の「ちり」(עָפָר)で造られましたが、罪を犯して「いのちの息」(「ニシュマット ハッイーム」נִשְׁמַת חַיִּים)を失ったために、人は死ぬと「土のちりに帰る」ことが定められてしまいました(創世記3:19)。しかし、ちりに帰った人を再創造されるのも【主】なのです。これはやがてイスラエルの歴史において現実化する神のマスタープランと言えます。

2. 陶器師としての主

(1) 「形造る」と訳された「ヤーツァル」(יָצַר)

●「ヤーツァル」(יָצַר)という動詞は、陶器師が粘土で形造って作品とすることをイメージさせます。この動詞は63回使われていますが、せひとも研究すべき語彙の一つです。それは、陶器師としての神である【主】の、イスラエルに対する扱いを知るうえできわめて重要なのです。

●パウロは、キリスト者とは「宝を入れた土の器」であると述べています(Ⅱコリント4:7)。ここでいう「宝」とは、贖われた私たちのうちに住んでおられる「イェシュアのいのち」、すなわち、「復活されたキリストのいのち」です。その原型こそがまさに創世記2章7節にある「その人」(「ハーアーダーム」הָאָדָם)なのです。

(2) 「いのちの息」(「ニシュマット ハッイーム」נִשְׁמַת חַיִּים)

●神は、1章では人を「ご自身のかたち」として創造し、男(「ザーハール」זָכָר)と女(「ネケーヴァー」נְקֵבָה)に創造したのに対し、2章では「大地のちりで形作った」だけでなく、人の鼻に「いのちの息(「ニシュマット ハッイーム」)を吹き込むこと」で「生きるもの」(「ネフェシュ ハッヤー」נֶפֶשׁ חַיָּה、直訳は「生ける魂」)となりました。「ネフェシュ ハッヤー」(נֶפֶשׁ חַיָּה)は人間の他に、いのちあるすべての生きものに使われますが、「ニシュマット ハッイーム」(נִשְׁמַת חַיִּים)を吹き込まれたのは人間のみです。他の被造物と比べて、人間がいかに尊い存在であるかという理由がここにあります。

●「いのちの息」(「ニシュマット ハッイーム」נִשְׁמַת חַיִּים)というフレーズは、ここにしか出てこない語彙です。「息」のことを「ネシャーマー」(נְשָׁמָה)と言い、その連語形が「ニシュマット」(נִשְׁמַת)となります。「ニシュマット」が単数形であるのに対し、「いのち」が複数形となっているのは、「エローヒーム」(אֱלֹהִים)と同様、畏敬を表わす用法と言えます。ヘブル語訳の新約聖書では、「いのち」はすべてこの「ハッイーム」(חַיִּים)が使用されています。

●ヘブル語で神の「息」のことを一般的に「ルーアッハ」(רוּחַ)と言いますが、以下の箇所を見るなら、「ネシャ―マー」(נְשָׁמָה)と「ルーアッハ」(רוּחַ)は同義だと理解できます。ちなみにそれぞれの使用頻度は「ルーアッハ」が389回であるのに対し、「ネシャーマー」はわずか24回です。

【新改訳2017】創世記7章22節
いのちの息(נִשְׁמַת־רוּחַ חַיִּים)を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んだ。

ヨブ記4章9 節
「彼らは神の息吹(נְשַׁמָה)によって滅び、御怒りの息(רוּחַ)によって消え失せる。」
同 27章3 節
「私の息(נְשַׁמָה)が私のうちにあり、神の霊(רוּחַ)が私の鼻にあるかぎり、・・」
同 32章8節
「確かに、人の中には霊(רוּחַ)があり、全能者の息(נְשַׁמָה)が人に悟りを与える。」

イザヤ書 42章5節
天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息(נְשַׁמָה)を与え、そこを歩む者たちに霊(רוּחַ)を授けた神なる【主】はこう言われる。

●および、ヨブ記33章4節、34章14節。イザヤ書57章16節を参照のこと。これらの例から、「ネシャーマー」と「ルーアッハ」は同義であることが分かります。いずれにしても、神の「いのちの息」は、神と人をつないでいる一種の「レシーバ」(受信装置)の役割を有していると考えられます。これを、聖書は「人の霊」「私たちの霊」、「あなたがたの霊」と言い、パウロはローマ人への手紙8章16節で「御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」と述べています。

●この「私たちの霊」、つまり「人の霊」は、ラジオのダイヤルを合わせて聞くように、私たちには神と交わりができるための装置、あるいは器官が与えられているということです。ですから、イェシュアも私たちに「耳のある者は聞きなさい」と言っているのです。これは、神の声を(神のことばを)聞くために、神の声に「私たちの霊」のダイヤルを合わせることを意味しています。

●箴言20章27節にある 「ネシャーマー」についての解釈

【新改訳2017】 
人間の息は【主】のともしび。腹の底まで探り出す。
【新共同訳】   
主の灯は人間の吸い込む息。腹の隅々まで探る。
【ヘブル語原文】

נֵר יְהוָה נִשְׁמַת אָדָם חֹפֵשׂ כָּל־חַדְרֵי־בָטֶן׃

 腹の  隅々を すべての  探る  人の   息は    主の  ともしび

●箴言では、人間の息(=霊)を「主のともしび」としています。このことは、創世記2章7節の神の「いのちの息」は「人の霊」となり、人を照らす光となったことを意味しています。人の息(=霊)は、人の内側を照らす神の灯(燭台)でもあるのです。

(3) 「吹き込む」(「ナーファハ」נָפַח)

●「息を吹き込まれた」の「吹き込む」と訳された「ナーファハ」(נָפַח)は、炭火を吹き起こして燃え立たせるという意味です。火は息(風)を吹きつけることで勢いよく燃えます。水の中に溺れて仮死状態になっている者に、息を吹き入れて生き返らせることがありますが、人間の場合も、神の「いのちの息」が吹き込まれることで、はじめて他の被造物とは異なる「ネフェシュ・ハッヤー」となったのです。ですから、死とは神の「いのちの息」を喪失したか、あるいは機能不全、あるいは完全に破損したしまったことを意味します。もしこの神の「いのちの息」を喪失したならば、「人は栄華のうちにあっても、悟ることがなければ、滅び失せる(ほふられる)獣に等しい」(詩篇49:20)とあるように、人は他の生き物と何ら変わることのない「ネフェシュ・ハッヤー」となってしまいます。

●死から回復するためには、神の息を再び吹き入れていただくしかありません。そのとき、本来、人間に与えられていた霊(罪によって機能不全に陥っていた人の霊)が生かされる可能性も出てくるのです。可能性というのは、それが神の主権性によるものだからです。罪を犯した人間でも、「いのちの系列」(セツの系列)と「死の系列」(カインの系列)があるように、「いのちの息」はすべての人において完全に破損したものとは言えないことを表しています。不完全ながらも機能している霊を持っている者たちがいるということです。

【新改訳2017】エゼキエル書37章9節
そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『【神】である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」

●神の「いのちの息」が人に吹き込まれたことによって、人は他の被造物とは異なる存在、つまり、神と親しく向き合うかかわりを持つ存在となりました。神の与えてくださる賜物としての「いのちの息」(=主の御霊、聖霊)、そして神のことばこそが、神と人とのかかわりを回復させて、人を本来の「トーヴ・メオード」(טוֹב מְאֹד)な存在として回復させてくださるのです。

●2章における人間の創造の特徴は、神が人の「鼻(複数)にいのちの息を吹き込まれた」ことにあります。そのことが他の被造物との大きな違いです。七十人訳は鼻ではなく「その顔にいのちの息を吹きかけた」と訳しています。鼻であっても顔であっても、いずれにしても神と人が顔を向かい合わせていることには変わりありません。これは2章後半で、人と、それに「向かい合う者としての助け手」(「エーゼル・ケネグドー」עֵזֶר כְּנֶגְדּוֹ))とのかかわりの型となっています。そして、神の究極的な救いは、「神の御顔を仰ぎ見る」(黙示録22:4)にあります。神が「人の鼻にいのちの息を吹き込まれた」ということに、陶器師としての主なる神の深いみこころがあったのです。

3. 「生きるもの」(「ネフェシュ・ハッヤー」נֶפֶשׁ חַיָּה)

●「生きるもの」=「生ける魂」(「ネフェシュ・ハッヤー」נֶפֶשׁ חַיָּה)。この表現は人間だけでなく、創世記1章30節にあるように、生きるいのちのあるすべてのものに対しても使われています。

●「ネフェシュ」は「魂(たましい)」という訳以上に、「願望」「喉」という意味を持っているということが注目点です。なぜなら、そこに「ネフェシュ」本来の意味があるからです。単なる身体的機能としての「喉」を表わすだけでなく、飢え渇く存在、必要の塊、切望、欲望、旺盛な食欲、外から何かを得ることなしには生きられない存在、満たされることを常に求める存在を表わしているように思われるからです。私的には、赤子と同様に、必要の塊(かたまり)的存在、それが「ネフェシュ」の本体だと考えています。

●新約聖書で「いのち」と訳されている語彙は二つあります。一つは、神から与えられる「いのち」、すなわち「復活のいのち」を意味する「いのち」であり、それはすべてヘブル語の「ハッイーム」(חַיִּים)で表わされます。しかし、生まれながらの「私のいのち」の場合は「ナフシー」(נַפְשִׁי)、「自分のいのち」の場合には「ナフショー」(ַנַפְשׁוֹ)が使われます。イザヤ書53章10~12節にはそれぞれの節に「自分のいのち」「自分のたましい」があります。「自分のいのち」にしても、「自分のたましい」にしても、「ナフショー」(ַנַפְשׁוֹ)となっており、本体は「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)です。


脚注

陶器師について、参考となる本が出版されています。
●ネル・ケネディ著「陶器師の手の中で」(菅野卓子・蒲田恵美子共訳、いのちのことば社、1993年)。この本から、「陶器師としての神である主」についてイメージすることができます。


2020.4.14
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