イェシュアの爆弾発言と新しい契約
3. 午後7時~午後8時 イェシュアの爆弾発言(裏切り)と新しい契約
【聖書箇所】
マタイの福音書26章21〜25節、マルコの福音書14章18~21節
ルカの福音書22章21~23節、ヨハネの福音書13章21~31節
ベレーシート
●こうした瞑想での恵みは、今まで気づかなかったことに気づかせていただけることです。その感動や驚き、そして喜びがないと瞑想を続けていくことはできません。今回のイェシュアを裏切ったイスカリオテのユダのことについて、これまでにも「イエスの最後の一週間」、「最後の晩餐での『キリストの教え』」の瞑想で扱いました。今回はそこで扱わなかった面を取り上げてみたいと思います。
1. イェシュアの爆弾発言
●共観福音書がこぞって記していることは、「人の子を裏切るような人間はわざわいです」という発言です。マタイとマルコはこの発言に続いて、「そういう人は生まれて来なければよかったのです。」と、追い打ちをかけるようなイェシュアの爆弾発言を記しています。もし現代であれば、この発言でイェシュアは多くの人からひどく非難されるに違いありません。しかしこの発言は、ユダのことを最もよく知っていたイェシュアであるからこそ、言うことのできたことばなのです。
●神のご計画によれば、人の子(イェシュア)は神の定められたとおりに(預言されていたように)、受難のしもべとして人々の罪を背負い、身代わりとして死ぬことが定まっています。一見、イスカリオテのユダはその神のご計画のひとつの駒として用いられたように見えます。ユダは貧乏くじを引いて、その役割を担わされただけだとする見解もあるかもしれません。しかしイェシュアの見解は異なります。「人の子を裏切るような人間はわざわいです」と語り、ユダが自分の意志で、自分の責任で行動したことが問題とされているのです。
(1) ユダの霊性
●ヨハネの福音書13章2節によれば、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」とあります。「売ろうとする」という動詞は「パラディドーミ」(παραδιδωμι)で、「引き渡す」「裏切る」とも訳されます。一見、強い裏切り表現のように私たちには思えますが、ユダの感覚としては、やがて近い将来、損得勘定から自分はイェシュアとその弟子の仲間から離れることになるかもしれない程度の思い(予感)を抱いていたのではないかと推測できます。また、そうした思い(予感)はイェシュアとその弟子たちと寝食を共にするうちに、日増しに強くなっていったのではないかと思います。
●イスカリオテのユダ、正確には「イスカリオテ・シモンの子ユダ」です。彼はイェシュアとその弟子たちの小さな群れの財布を預かっていた弟子でした。彼の会計の事務的能力が他の弟子たちよりも長けていたのだと言えます。信頼されていたにもかかわらず、ユダはその預かった財布から盗みをしていたようです。ユダは12人の弟子の一人として主に選ばれましたが、どちらかというと、聖なる事柄にはそれほど強い関心を持っていなかった人物と思われます。むしろ、金銭的な事柄への関心(現実的関心)の方が強かったと言えます。そういう人にとっては、イェシュアに従っていく現実的な見返りは何もないように見えたのではないかと思います。会計の働きをしたとしても、それで何らかの報酬が得られるわけでもありませんでした。金銭的報酬も何も得られないままでやがてイェシュアと離れる時が来たなら、今まで得たものとは何だっただろうかと考えるような人だったのではないでしょうか。このあたりのユダの損得勘定が、高価な香油がイェシュアの足に塗られた出来事(ヨハネ12:3~6)の場面で、つい言葉となって口から出てしまいました。人がいつも思っていることは、いつか必ず言葉となって口から出てしまうものです。それが以下のユダの言葉です。
【新改訳2017】ヨハネの福音書12章3~6節
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
●ユダはこの先もイェシュアにずっと着いて行きたいとは考えていなかったのではと思われます。イェシュアとはいつかは終わってしまう緩い関係としてしか考えていなかったとすれば、そうなる前に何か得になることはないかと考えたときに、ユダはイェシュアの情報を祭司長たちに渡すことを思いついたのではないかと思います。それが「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」という意味だと考えられます。そしてその交渉はすんなりと運び、祭司長たちは金銭を早々とユダに渡してしまったのです。ユダはそれをいつ実行に移すか、その機会をねらっていたのです。しかしその段階では、まだユダの中にサタンが入ったわけではありませんでした。
(2) サタンがユダに入った瞬間
●イェシュアはその鋭い予知能力によって、ユダの思いをすでに見透していました。しかしイェシュアはそのことを直言することなく、ユダが自ら悔い改めるようにと、何度も警告されたのです。にもかかわらず、ユダはその警告を無視し続け、主に立ち返ることなく、白々しくも、「先生。まさか私のことではないでしょう。」(マタイ26:25)と言った時に、サタンがユダに入ったように聖書は記しています。それでイェシュアは「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われたのです(ヨハネ13:27)。
●「サタンがユダに入った」とは、「サタンがユダの人格を完全に支配した」という意味です。サタンが強制的にそうしたのではありません。あくまでもユダの同意に基づいて、いわば合法的に、ユダの心を支配したのです。「思い」から「同意」へ。これがサタンの手法です。この段階に至ってはもはやだれも止めることはできないのです。ユダが金銭を受け取り、イェシュアを実際に売り渡そうとしたとき、彼は自分のしたことがイェシュアを十字架の刑死に至らせることになるとは、微塵も考えていなかったようです。その証拠に、イェシュアが逮捕され、暴行を受け、十字架の刑死が最高議会で決定された後に、ユダは自分のしたことに愕然とし、後悔し、受け取った金銭を返そうとまでしたのです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非情な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:10)とパウロは愛弟子のテモテに手紙を書きましたが、ユダはその悪い模範となってしまったのです。
(3) ユダはイェシュアを一度も「主」と呼んだことがなかった
●このことは注目すべきことです。他の弟子たちはみなイェシュアを「主」と呼んでいます。ところが、ユダだけはイェシュアのことを「先生」(=ラビ、教師)と呼んでいたのです。とりわけヨハネの福音書では、以下の弟子たちがイェシュアを「主」と呼んでいました。① ペテロ(13:6, 9, 36, 37) ② ヨハネ(13:25) ③ トマス(14:5) ④ ピリポ(14:8) ⑤イスカリオテでないユダ(14:22)
●イェシュアのことを「主」と呼ばずに、「先生」と呼ぶことが良いのか悪いのかということではありません。12人の弟子たちの中で、イスカリオテのユダだけがイェシュアのことを「先生」と呼び、「主」と呼ぶことはなかったという事実です。イェシュア自身も、「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。」(ヨハネと13:13)と述べています。ちなみに、イェシュア自身も自分のことを「主」と言ったり、「先生」と言ったりしています。それを裏付ける例は、イェシュアがろばの子に乗ってエルサレムに入場する前にろばの子を連れて来るようにと二人の弟子を遣わす場面です。「もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」と命じています(マタイ21:3、マルコ11:3、ルカ19:31)。もうひとつの例は、最後の食事のために、やはり二人の弟子を遣わして家の主人に「先生が、『わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう』と言っておられる」と言うように指示した場面です。イスカリオテのユダがイェシュアのことを「先生」と呼んでいたのは無意識的であったのか、あるいは意識的であったのか、それについては定かではありません。しかし、気になるところです。
2. イェシュアの「新しい契約」
●イェシュアの受難の記事の中で、時系列を定める上で最も難しい時間帯は「最後の晩餐」の場面です。それはおそらく当時のユダヤの「過越の食事」の慣習を知らないからだと思います。特に、イスカリオテのユダがイェシュアを引き渡すためにその場所から出て行きますが、その時が「新しい契約」についてイェシュアが語った時の前なのか、後なのかがはっきりしません。マタイとマルコの場合は前のように見えますが、ルカの場合は後のように見えます。ヨハネは何とも言えません。私としては、イスカリオテのユダが食卓の席を立ったのは、「新しい契約」について語られる前であったと考えています。
(1) 「新しい契約」の「新しさ」とは何か
●ところで、私たちが使っている聖書は旧約と新約に分かれています。それはイェシュアが語った「新しい契約」のゆえです。しかしこの「新しい契約」ということばは、共観福音書の中ではルカだけが使っている表現です。「新しい契約」ということばは、初代教会においては聖礼典として位置づけられます。旧約における神へのささげものの規定が、イェシュアのからだと血によって完全に一新されることになったからです。イェシュアのからだはパンとして、血はぶどうで作ったもの(あるいは、杯)として象徴されます。聖礼典の目的は、パンとぶとう酒(液)という象徴を通して、イェシュアによって与えられた「新しい契約」を記念として覚えること。そしてさらには、やがて「新しい契約」によってもたらされる「御国の福音」が、完全な形で成就される時が来ることを確信することです。
(2)「新しい契約」の完全な成就
●「新しい契約」はイェシュアをキリスト(メシア)と信じる教会時代において適用されますが、それが神の民であるユダとイスラエルにおいても適用されるのは、イェシュアの再臨によって実現するメシア王国の時です。つまり、これからのことなのです。その時には、エレミヤが語った「新しい契約」(31:31~34)の以下の内容が完全な形で実現するのです。
【新改訳2017】エレミヤ書31章31~34節
31 見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
●神のご計画(マスタープラン)における神のヴィジョンとは、キリストの花嫁としての教会に属する者、そして神の民として選ばれたイスラエルが共にこの「新しい契約」にあずかることです。また神のヴィジョンは、キリストにあって、天と地にあるすべてのものが一つにされることなのです。イスラエルの民に与えられた神の約束のすべてを、キリスト教会が代わって受け継いでいるという置換神学の教えは、誤った教えなのです。
2015.3.13
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