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過越の食事の席に着く/ 洗足の行為と教え

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2. 午後6時~午後7時 過越の食事の席に着く/ 洗足の行為と教え

【聖書箇所】
マタイの福音書26章20節、マルコの福音書14章17節
ルカの福音書22章14~16、24~26節、ヨハネの福音書13章1~17節

画像の説明

ベレーシート

マタイの福音書26章20節
さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。

ルカの福音書22章14 節
さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。

晩餐の食卓配置図.JPG
  • 食卓の準備ができ、イェシュアと弟子たちが(ルカは弟子のことを「使徒」としています)それぞれ食卓に着きました。その時刻はおそらく木曜夕方の午後6時頃のことです。場所はエルサレムの「二階の大広間」です(ルカ22:12)。
  • 「食卓に着く」という表現も、現代の私たちの食卓に着くイメージではなく、上記のイラストにもあるように、当時、左わき腹を下にして、右手を自由に使えるようにして、横になって食事をしたようです。これは五千人の給食のときも、四千人の給食のときも同様です。
  • さて、ルカによれば、最初に「食卓に着いた」のはイェシュアであり、その後続いて弟子たちが食卓についています。これはこの食卓の主催(主導権)がイェシュアにあったことを物語っています。つまり、「主の食卓」なのです。しかしその食卓の配置は、上座(上席)にイェシュアが着いていないということです。ヨハネとペテロは食卓の準備係でしたから、その務めが即座にできる位置にいます。そして向き合った所にいます。ヨハネとイェシュアとユダは隣り合わせに着いたのです(ヨハネ13:23~26参照)。
  • マタイもルカも同じく「食卓に着く」と訳していますが、マタイの場合には「アナケイマイ」(ἀνάκειμαι)という語彙が使われ、ルカの場合には、「アナビプトー」(ἀναπίπτω)のアオリストが使われています。微妙に語彙が異なりますが、いずれも「体を横たえて食事の席に着く」ことには変わりません。むしろ重要なことは、「席に着く」と訳されたギリシア語をヘブル語に戻すならば、それが「サーヴァヴ」(סָבַב)という動詞になることです。ヘブル語の「サーヴァヴ」(סָבַב)は「囲む」という意味ですが、ここでは「主の食卓を囲む」という意味で、神と人とのかかわり(交わり)を表すきわめて重要な意味をもっている語彙です。ですから、イェシュアが受難の前に弟子たちと食卓を共にすること、食卓を囲むことは、御国の福音の視点からすれば特別な意味を持っているのです。そのことが以下のルカの福音書22章15節に記されています。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22章15節
イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか


1. イェシュアの切なる望み

  • イェシュアの切なる望みは、同時に、父なる神の願いでもあることを忘れてはなりません。
  • 新改訳・尾山訳は「どんなに望んでいたことか」と訳しています。
    原文では「切望・熱望」を意味する名詞(「エピスミア」ἐπιθυμία)と動詞(「エピスメオー」ἐπιθυμέω)を重ねて置くことで、イェシュアの「切望」ぶりを強調しています。いろいろな聖書の訳を参照しておきましょう。

    「切に望んでいた」(口語訳)、「願いに願っていた」(岩波訳)、「どんなに願ったことだろう」(希和訳)、「せつに望んでいた」(フランシスコ会訳)、「切に願っていた」(新共同訳)、「ぜひとも・・したいと願っていた」(柳生訳)、「望みに望んでいた」(塚本訳)、「~したいと切に望んでいた」(バルバロ訳)、「切に望んでいた」(泉田訳)、「望みに望みたり」(永井訳)・・等。


    「エピスメオー」をヘブル語に戻すと、それは「カーサフ」(כָּסַף)になります。旧約では6回しか使われていませんが、その最初の出典は創世記31章30節で、「父の家がほんとうに恋しくなる」という意味でこの動詞が二度重ねられて使われています。詩篇84篇2節でも「主の大庭(=主の御住まい)を恋い慕う」という神との交わりへの渇望の意味で使われています。いずれにしても、この時、イェシュアがこの時の食事を「どんなに望んでいたことか」と言われたのは、やがて成就するメシア王国における祝福と喜びに、彼の心と思いが完全に支配されていたことを示唆するものです。

  • ここは「食卓」を重視するルカならではの独占的記述です。ルカの福音書では「食事」の場面を数多く記述しています(7:36~50、14:1~14、15:1~2、15:11~32参照)。いずれも、終末的救い、メシア王国における祝福、および永遠の御国における神と人とのかかわりを「食卓を(取り)囲む」ことで表現しているのです。
  • #「私が望むのは、主とともに住むこと・・」という賛美があります。「・・主と共にいて、主の中で憩い、栄光に満ちた食卓を囲む。それだけがいつも願うこと、主のそばで生きて行きたい」という内容ですが、この賛美は「主の食卓」の本質を突いています。

2. 洗足の出来事の背景とその意味

  • イェシュアが切に望んできた最後の晩餐の席で、おそらく座る席をめぐって弟子たちの間で、「だれが偉いのか」という話になりました。食事の席には、上座もあれば、下座もあるわけですから当然です。これは食事の席だけに限ったことではなく、やがて訪れる御国においてもだれが一番偉いのかという話にもつながってきます。そんな話の流れの中で、イェシュアは晩餐(夕食)の早い段階で、やおら「席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ」ました(ヨハネ13:4)。「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」(13:5)のでした。イェシュアが弟子たちの足を洗うというこの洗足の出来事はヨハネの独占記事ですが、その行為の一つひとつにも深い意味が隠されているように思われます(今回はこのことには触れませんが)。
  • 弟子の筆頭であるペテロに対して、イェシュアは「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」(13:7)と言われました。「あとでわかるようになります」とは、後に注がれる知恵と啓示の御霊によって「洗足」が意味することを初めて悟ることができるようになることを示唆しています。それは、この後に語られる「このわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」ということばの真意も含まれていると思います。その真意とは、単に「足を洗い合う」ことを越えた以上の何かです。



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