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イェシュアと弟子たちとの問答と訣別説教

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4. 午後8時~午後9時 イェシュアと弟子たちとの問答と訣別説教

【聖書箇所】
ヨハネの福音書13章31節~16章、ヨハネの福音書15章4節、9節


ベレーシート

  • この時間帯(午後8時~午後9時)はまだ食事の席におり、イェシュアの語る話に対して弟子たちが突っ込みをかけるという問答がなされます。この記事はヨハネの福音書のみが記しています。聖書箇所は13章31節~14章31節です。この問答が終わって、この食事の席を立ち、オリーブ山へと赴きます。その途上において、今度は問答ではなくイェシュアの一方的な説教、これだけは言っておかなければという重要な訣別説教が語られます。その箇所が15~16章です。そして17章では御父に対する大祭司イェシュアの祈りが記されています。おそらくこれらの内容は1時間の枠では収まらない内容です。次の時間帯とかぶって来ます。
  • 今回は、食卓でのイェシュアと弟子たちとの突っ込み問答とその意義、そして食卓の席から離れてゲッセマネに向かう途上で語られた訣別説教の中から、一つのフレーズを取り上げたいと思います。そのフレーズとは、15章4節にある「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」というイェシュアのことばです。その意味について、ヘブル的視点から瞑想したいと思います。

1. 食卓でのイェシュアと弟子たちとの突っ込み問答とその意義

  • 最後の晩餐の席でイェシュアが語ることに対して、幾人かの弟子たちがそれに対して突っ込みを入れ、質問をしています。イェシュアがその質問に対して答えることで、その語られた内容がさらに深まって行くという運びになります。
  • 実際にユダヤ人たちの家庭でなされる過越の祭りでは、いつもとは異なる食事の内容であるために、子どもたちがなぜこのような食事をするのかと質問することで、その家の父親がかつてなされたエジプトでの過越の出来事を語って聞かせるという慣習があるそうです。祭りに限らず、ユダヤ人たちは毎週の安息日には、その日に定められたトーラーの箇所を読み、その箇所を子どもから大人まで家族で突っ込み問答をしたり、議論したりしながら神のことばを学ぶのだそうです。ユダヤ人の家庭では毎週の安息日はそのようにして過ごすのです。
  • 最後の晩餐の席でも、先生であるイェシュアと弟子たちが同じような問答をしているのがわかります。ヘブル語で弟子のことを「タルミード」(תַּלְמִיד)と言いますが、これは「学ぶ・教える」という意味の動詞「ラーマド」(לָמַד)の名詞形です。「タルミード」という⾔葉は⼝伝律法を意味する「タルムード」(תַּלְמוּד)と同じ語根です。ユダヤ人たちにとっては「学ぶことは教えること。教えることは学ぶこと。」なのです。弟⼦とは、常に、教えられる者、学びの訓練を受ける者のことです。訓練を受けない弟⼦などいないように、学びの訓練こそ、学ぶ者、やがて教える者を造り上げていくのです。訓練を怠る者は決して弟⼦とはなれません。その訓練の方法が問答なのです。
  • 聖書の瞑想を深めていく上で、この方法はきわめて有効です。小さなグループで神のみことばを突っ込みながらその意味するところを議論したりすることが有効な学びの方法なのです。また、自分が自分に対して問いかけることも、瞑想を深めていく方法です。もし神のみことばを教える者がそうした方法を用いないならば、語る内容はとても貧弱なものとなってしまうはずです。
  • ところで、この問いかけや突っ込みができるのは、一つの賜物なのではないかとも思います。だれもができることではありません。イェシュアの弟子たちの中で実際にイェシュアの語ることに突っ込みをかけ、質問しているのは、12人の弟子(ルカでは使徒)の中では半分にも満たない5名(シモン・ペテロ、ヨハネ、トマス、ピリポ、イスカリオテではないユダ)だけでした。ペテロの兄弟アンデレもその一人として加えられるかもしれませんが(ヨハネ6:8~9)、あとの弟子たちがイェシュアに対して質問や突っ込みをしている箇所は見当たりません。

2. 「とどまる」ということばの真意―イェシュアの訣別説教の中からー

  • さて、イェシュアの訣別説教では多くのことが語られています。その中から、15章4節にある「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」というフレーズを取り上げて、それをヘフル的視点から瞑想してみたいと思います。

ギリシア語原文

画像の説明

  • とどまりなさい」と訳されたギリシア語は「メノー」の命令形アオリストです。新約聖書でアオリストと言えば単なる過去形を表わしますが、命令形のアオリストというのは実は珍しいのです。有名な箇所としては使徒の働き16章31節にあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」の「信じなさい」が命令形のアオリストです。つまり、この様態は「明確な一回的な決心をもって信じること」を意味します。ヨハネの福音書では15章4節と9節の「とどまりなさい」がアオリストの命令形なのです。ギリシア語の優れた点は、時制とか、様態がとてもきめが細かい点です。その点、ヘブル語は完了形と未完了形がありますが、時制としては厳格とは言えず、前後関係の中で状況判断されることも少なくありません。
  • さて、このフレーズをヘブル語に戻してみるとどういうことになるでしょうか。イェシュアはユダヤ人であり、ギリシア語ではなく、ヘブル語で語ったわけですから、そのヘブル語にするとどんな語彙が使われるのかということです。

ヘブル語訳

画像の説明

  • 「とどまる」という動詞は、ギリシア語では「メノー」(μένω)ですが、ヘブル語では「アーマド」(עָמַד)という語彙が使われています。「アーマド」という動詞は、「立つ、堅く立つ、立ち留まる、仕える」という意味を持っています。そして、「わたしに」という部分は、ギリシア語では「エン・エモイ」で、「~のうちに・わたし(に)」となりますが、ヘブル語では、「わたしのうちに、わたしによって、わたしとともに」と訳すことのできる前置詞の「ヴェ」(בְּ)と「わたしの」という1人称の代名詞の語尾がついた形の「ビー」(בִּי)となっています。
  • つまり、ヘブル語訳では「わたしのうちにとどまる」という意味だけでなく、「わたしによって堅く立つ」「わたしとともに堅く立つ」「わたしによって仕える」「わたしとともに仕える」という意味にもなるのです。ギリシア語訳の「わたしに(わたしのうちに)とどまりなさい」というニュアンスを越えた意味となります。
  • ヨハネの福音書15章9節にある「わたしの愛の中にとどまりなさい」というフレーズも、ヘブル語に戻すと、「わたしの愛によって堅く立つ、わたしの愛とともに堅く立つ、わたしの愛とともに仕える」という意味になります。
  • ちなみに、この「愛」と訳されるギリシア語「アガペー」(ἀγάπη)の意味は、しばしば無条件な愛として、あるがままの受容、価値あるものとして愛する神の愛として理解されていますが、ヘブル語の意味する「愛」は、決してそうした「アガペー」が意味するような意味ではありません。ヘブル語で「愛する」という動詞は「アーハヴ」(אָהַב)ですが、その意味するところは、「父と子が同じヴィジョンを見る、あるいは共有していること」を意味します。この「アーハヴ」が旧約聖書で初めて使われている箇所は創世記22章2節です。神がアブラハムに語った内容は、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」というものでした。「あなたの愛しているひとり子」のフレーズにある「愛する」と訳された語彙が「アーハヴ」です。神が命じられたこのことは、父アブラハムと子であるイサクが、神が見ているヴィジョンと同じところに立っているかどうかのテストでした。創世記22章の6節には「ふたりはいっしょに進んで行った」とあり、8節にも「ふたりはいっしょに歩き続けた」とあります。訳は微妙に異なっていますが、原文は全く同じです。アブラハムとイサクに対して課せられた信仰のテストは、「ふたりはいっしょに歩き続ける」ことができるかどうかのテストだったのです。このことはやがて御父と御子がこの地上において「いっしょに歩む」ことを啓示している出来事と言えます。
  • したがって、御父と御子は永遠に愛し合っていますが、それはギリシア語の「アガペー」が意味する「ありのままの存在を受け入れる」というような意味ではありません。むしろ「アーハヴ」の愛は、全く同じ方向を、全く同じヴィジョンを見つつ、たとえそれがどんなに過酷な犠牲を払おうとも、それを実現しようとするかかわりを意味しているのです。したがって、イェシュアの言う「わたしの愛の中にとどまりなさい」というフレーズをヘブル的に理解するならば、「わたしの愛」はここでは御父の愛とイコールですから、「神と同じヴィジョンを見ることにおいてその使命に堅く立つ、堅く仕え合う」という意味に理解できるのです。そのためのアオリストです。主体的な自覚的な決心が求められるのです。すなわち、「わたしの愛の中にとどまりなさい」という命令は、神のヴィジョンを共有し、それを実現に至らせるための使命的要請の命令なのです。
  • また、ヨハネの福音書では「とどまる」ことと、「神の戒めを守る」ことが密接につながっています。「神の戒めを守る(「シャーマル」שָׁמַר)」という意味も、実は、「神のヴィジョンを見張る(「シャーマル」שָׁמַר)」という意味のニュアンスに近いと考えます。ですから、神のご計画の見張り人としての使命的要請の視点からすれば、そのことは当然のこととして納得できるのです。
  • 今回のヨハネの福音書15章4節と9節のみことばは、日本語に訳された語彙のイメージを掘り下げても原語の持つ概念には届かないと同様に、ギリシア語に訳された語彙もギリシア的概念で理解しようとすると内容が異なってしまうという、一つの例です。
  • 「わたしにとどまりなさい」という訳を、ヘブル的に訳すならば、「あなたがたは、わたしとともに、(主体的決心をもって)堅く立ちなさい」と訳すことができると思います。そうすることで、やがて将来において、多くの実を結ぶことができるのだと信じます。



2015.3.14


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