「(~に)向ける」
詩篇119篇の22の瞑想の目次
詩119篇(6)「(~に)向ける」 שׁוּב シューヴ
(カテゴリー: 信頼) [#qee4856c]
59節「私は自分の道を顧みてחָשַׁב、あなたのさとしのほうへ私の足を向けましたשׁוּב。」(新改訳)
「わたしは、あなたの道を思うחָשַׁבとき、足をかえしてשׁוּב、あなたのあかしに向かいます。」(口語訳)
Keyword; 「向ける、向きを変える」turn, return, bring buck, turn back
※神が人に「向きを変える」とき、「償いをする」(reward)、「生き返らせる」(revive, restore)、「(喜びを)返す」という意味になります。人が神に「向きを変える」ことは悔い改めを意味します。
- 「(足を)向ける」と訳されたシューヴשׁוּב(shuv)は、本来、「帰る」という動詞です。どこから、どこへ向きを変えて帰るのか、その方向性が含まれています。59節の場合では、「自分の道」から「あなたのあかしの方へ」帰ると告白しています。その方向転換する場合に「自分の道を顧みる」ことをしているのです。「顧みる」חָשַׁב(ハーシャヴ、chashav)とは自分点検することです。なぜなら57節で「私は、あなたのことばを守ると申しました。」と言ったとはいえ、その軌道からズレているかもしれないからです。
- 私は、冬の樹林内をスノーシューで散策していて「輪形彷徨」なるものを経験したことがあります。「輪形彷徨」とは目隠しされた状態で歩くと、まっすぐに進めず、右か左にそれていき、自分ではまっすぐに歩いているつもりでも、知らぬ間に、同じ場所に戻って来てしまうという現象です。それゆえ、「輪形彷徨」は山の遭難の要因の一つとされています。詩篇の作者が言うように「自分の道を顧み」て、急いで、ためらわずに「あなたの方へ足を向ける」という修正をすることは重要です。これを聖書では「悔い改め」と言います。ふと我に返り、父の家に帰った放蕩息子は思わぬ祝福を得たように (ルカ15章)。
- イエスの弟子であるペテロもイスカリオテのユダも同じく主を裏切りました。しかし、前者はやがてイエスの一番弟子となりましたが、後者は自責のゆえに自害しました。どちらも自分のした過ちを悔いましたが、ペテロの場合はあわてて、あわれみ深い主のもとに引き返して神の愛の懐に駆け込みました。これが悔い改めです。ユダは悔いましたが、主のもとに帰ることをしませんでした。そこが大きな違いです。
- ルツ記 第1章には、なんと12回のשׁוּבがあります。飢饉のためにモアブにやってきた一家はそこで夫と二人の息子を亡くしました。残されたのは妻のナオミと二人の息子たちの嫁(オルパとルツ)でした。不条理な試練の中にもナオミの信仰は嫁たちに大きな感化を与えました。やがてナオミが故郷のベツレヘムに帰ろうとしたとき、二人の嫁に再婚のチャンスを与えるために実家に帰るように勧めました。押し問答の末、オルパは実家に帰り、ルツはナオミと共に故郷に帰りました。人生の岐路に立たされたとき、否応なしに、選択を迫られました。そして、はからずも異邦人ルツからやがてダビデが生まれたのです。