「イスラエルとユダの回復の預言」
2. イスラエルとユダの回復の預言
【聖書箇所】エレミヤ書30章1~14節
ベレーシート
●エレミヤ書29~33章はエレミヤ書の心臓部です。今回はそのシリーズの第二弾です。30章の「イスラエルとユダの回復の預言」を取り上げます。ここでの「イスラエル」は、強国アッシリアによって滅ぼされた北イスラエル王国の十部族のことであり、別名「エフライム」、あるいは「ヨセフの家」とも言われます。他方、「ユダ」は、強国バビロンによって滅び、捕囚とされた南ユダ王国の二部族のことです。聖書で「ヤコブ」という場合、「ユダ王国」を指す場合と、「イスラエルとユダ」、つまり「全イスラエル」を指す場合があり、文脈で理解する必要があります。
●ソロモン王の死後、神の民イスラエル(全イスラエル)は分裂して、北イスラエル王国の十部族と、南ユダ王国の二部族になります。この両部族はそれぞれ捕囚と亡国とを経験しますが、南ユダ王国はバビロン捕囚とそこから帰還したことでその足取りを聖書によって確かめることができます。ところが北イスラエル王国の足取りは極めて不明瞭です。北イスラエル王国の十部族は、B.C.721年に首都サマリアが陥落した後、少なくとも以下の三つの方向に離散しています。
(1) アッシリアの捕囚となった人々(主に貴族層の人々)。
(2) 残留して、アッシリア人の雑婚政策によってサマリア人の祖先となった人々。新約聖書の時代までユダ(ユダヤ人)からは外国人に近い扱いをされて、ユダの民とは犬猿の仲となっていました。しかしイェシュアは「良きサマリア人」のたとえ話をされ、また実際にサマリアの女と出会い、彼女の渇きをいやされました。また、初代教会においては、エルサレムでの大迫害によってピリポがサマリアの町を訪れ、そこでイェシュアの福音を語り、多くの人々がイェシュアをキリストとして信じました(使徒8:5)。
(3) 南ユダ王国に亡命して、南ユダ王国と運命をともにした人々。つまり、ユダヤ人の一部となってしまった人々です(歴代誌ではレビ人のほかに、エフライム、およびマナセ族がバビロン捕囚から帰還していることが記されています)。その人々がA.D.70年にローマによって再び世界離散させられることになります。1948年、イスラエル共和国が建国され、世界各地から(ユダヤ人として)帰還しています。
●ここで問題なのは(1)の人々です。(1)に関する消息は旧約聖書から分かるのはごくわずかですが、「イスラエルの回復」の預言は聖書に数多くあります。(1) の人々が今どこにいるのか、その後の消息はまったく分かりません。まるで神隠しにあっているようです。しかし人が忘れることがあっても、神は忘れるような方ではありません。「その日」(=終わりの日)には、全イスラエルが回復するのです。つまり、それは神によって集められるのです。回復は十部族だけでなく、ユダ族も同時に回復されるのですが、いまだ完全には起こっていない出来事です。しかし、全イスラエルの回復は必ず実現されるのです。「全イスラエルの回復」という話は、歴史を学ぶ者ならば、全く不可能な話に思えますが、神には可能なのです(ルカ1:37)。
1. なぜ「イスラエル」と「ユダ」とに分かれたのか
●なぜ「イスラエル」(北王国)と「ユダ」(南王国)に分かれているのでしょうか。今回はまずここから話をしたいと思います。時はB.C.1000年。ダビデが30歳の時、生死を共にして来たユダ族が彼を王として迎えます(Ⅱサムエル2:4)。その七年後に全イスラエルもダビデを王として迎えます(同5:3)。このことによってそれまで混乱していた神の民イスラエルは、ダビデの治世において初めて「国家」として整えられたのです。ダビデ王は、国家の中心である都を「エルサレム」に置き、神の臨在の象徴である「契約の箱」をそこに安置します(同6:17)。これが「ダビデの幕屋(=ダビデの仮庵)」と言われるものです。この後に、ダビデは神殿建設の構想を立てますが、それはダビデの子ソロモンにゆだねられます。神は預言者ナタンを通して、ダビデが「わたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」ということを約束されたのです(同7:13、ただし、いまだこの約束は実現していません)。ですから、全イスラエルの回復の預言には必ずこの「ダビデ契約」がセットとなっているのです。
●ダビデの息子ソロモンが王となって神殿を建立した時(Ⅰ列王7:51)、彼は神に忠実な「ダビデの道」に歩むかに見えました。ところが、近隣の諸国と平和を保つ国際性を帯びた政策に、イスラエルの人々は戸惑う日々を送ることとなります。預言者サムエルが「王を持つとこういう事が起こる」と警告したことが、次々と起こり始めたのです(Ⅰサムエル8:11~18)。つまり、王室に諸国の王妃たちがそれぞれの偶像を持ち込むことによって、ソロモン自身がその偶像に汚されただけでなく、その贅沢な王室、ならびに多くの土木工事のために、その資金が膨大に膨らみ、それをまかなうために、増税と強制労働によって民を苦しめることとなっていきました。そうした経済状況の中で、ソロモン王の息子レハブアムがさらにイスラエルの民を苦しめる政策を継続したことで、神の手は、エフライム族のヤロブアムに伸ばされたのです。神は預言者アヒヤを彼のもとに遣わし、「見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える」と言ったのです(Ⅰ列王11:31)。ヤロブアムはエジプトに逃れ、そこに潜伏しながら、十部族の独立の構想を練ったのです。そして、時が来て、ヤロブアムはその構想を具現化し「北イスラエル王国」を建設したのです。
【新改訳2017】Ⅰ列王記11章31節
「十切れを取りなさい。イスラエルの神、【主】はこう言われる。『見よ』。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。・・・
●その十部族とは、南ユダ王国の二部族(ユダ族、ベニヤミン族)を除いた残りの部族です。
2.「イスラエル」と「ユダ」の回復の預言
●エレミヤ書29章では、バビロンの捕囚となったユダに対する将来と希望についての神の計画について語られていました。それは捕囚の民が神を見出し、神が民によって見出されるということが実現されたそのときに、再びユダの民を元の所に帰すという計画が語られていました。ところが30章では、ユダのみならず、北イスラエルも元どおりに回復されるという途方もない神のご計画が語られています。次章の31章でも「全イスラエル」に対して語られていますが、「イスラエル」が「エフライム」と言い換えられ、しかも神の心情が色濃く記されています。
●まず、今回のテキストであるエレミヤ書30章のテキストを見てみましょう。
【新改訳2017】エレミヤ書30章1~11節
1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。
2 イスラエルの神、主はこう言われる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ。
3 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる─主は言われる─。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
4 主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。
5 まことに主はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。
6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。
7 わざわいだ(「ホーイ」הוֹי)。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時(עֵת־צָרָה)。だが、彼はそこから救われる。
8 その日になると──万軍の主のことば──わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。
9 彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。(ホセア3:5)
10 わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──主のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。
11 わたしがあなたとともにいて、──主のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。」
●全体を概観すると、まず30章1~2節では神が語られる内容を「書き記す」ことを命じています。重要なことが語られるからです。いわば序文的な位置付けです。3節は「イスラエルとユダを回復させる」という神のご計画の中心的メッセージが語られています。そして4~7節は、1~11節の中で最も重要な部分です。なぜなら、分断されているイスラエルとユダが回復するために不可欠な、未曾有の苦難が語られているからです。ここではもはや「イスラエルとユダ」ではなく、「ヤコブの苦難」として語られています。そして8~11節までは、苦難の時を潜り抜けたヤコブの祝福が語られているのです。
●まず全体として目につくのは、「わたしは、わたしが」ということばです。つまり回復のわざは徹頭徹尾、神の主権によってなされることが強調されています。さらに重要なことは、「わたしの民イスラエルとユダ」が回復されることで、「わたしのしもべヤコブ=(神の)イスラエル」へと変わっていることです。このことが何を意味するのか、そのことが、今回のメッセージの主要点です。
3. 「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書き記せ」
①【新改訳2017】出エジプト記 34章27節
主はモーセに言われた。「これらのことばを書き記せ(=原文「あなたのために書き記せ」「ケターヴ・レハー」כְּתָב־לְךָ)わたしは、これらのことばによって、あなたと、そしてイスラエルと契約を結んだからである。」②【新改訳2017】エゼキエル書37章16~22節
16「人の子よ。あなたは一本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエルの人々のために』と書き記せ。もう一本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書き記せ。
17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中で一つとなるようにせよ。
18 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これがあなたにとって何を意味するのか、私たちに説明してくれませんか』と言うとき、
19 彼らに告げよ。『神である主はこう言われる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族を取り、それらをユダの杖に合わせて一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。』
20 あなたが書き記した杖を、彼らの見ている前で手に取り、
21 彼らに告げよ。『神である主はこう言われる。見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。③【新改訳2017】ヨハネの黙示録 1章19節
それゆえ、あなたが見たこと、今あること、この後起ころうとしていることを書き記せ。
●このように、神が語られたことばを、主にある私たちは、霊を活用して「心の板に書き記す」必要があります。神の語られることばは「預言」です。「預言」とは、「キリストによってなされる出来事をあらかじめ語った歴史」と言えます。やがて歴史は目に見える出来事として現されます。預言者たちがそれを書物に書き記すのは、彼ら自身のためだけでなく、それを聞く者たちにとっても重要な事柄だからです。イスラエルには二つのタイプの預言者がいます。第一のタイプは、エリヤとその後継者エリシャのような「行動預言者」です。彼らは神への信仰が希薄となっている北イスラエルにおいて、「主は生きておられる」ことを奇蹟によって示した預言者です。そして彼らが語ったメッセージは書物としてまとまったものは残されていません。第二のタイプは、奇蹟を行わず、ただ神から託された神のことばを告げ知らせた「記述預言者」です。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの他に、ホセア、ヨエル、アモスといった預言者たちがいます。彼らは、神がなされるご計画を語っただけでなく、書物として「書き記す」(「カータヴ」כָּתַב)ことをしたのです。もしこれらの書物が書き記されることがなかったとしたら、私たちは神のご計画をあらかじめ知ることはできません。また、神の証しを聖書によって立証することもできません。
4. 「終わりの時」に実現される預言
3 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──主は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
●エレミヤ書30章3節の「見よ、その時代が来る。」(第三版では「見よ。その日が来る。」)というフレーズと、「わたしの民イスラエルとユダを回復させる」というフレーズが出てくる預言は、「終わりの日」の預言と考えなければなりません。つまりそれは、キリストの再臨によって実現する預言なのです。旧約の預言者たちは、彼らが活躍した時代に神がなさろうとすることを伝えたと同時に、「終わりの日」に神がなされることを重層的に語っています。特にその内容は、「わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる」と記されていることです。その「回復する」とは、「分断されてしまったものを再び一つにすること」です。そのことで、「彼ら(=回復されたイスラエルとユダ)を、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」こととなることが記されています。父祖に与えた地とは、エルサレムを中心とする「乳と蜜の流れる地」です。このことはエゼキエル書37章21節にも同じことが記されていました。エゼキエル書37章は「全イスラエルの回復の預言」が記されている重要な箇所です。ですから、分断され、失われたものを見出して、それを結び合わせて一つにすることが記されています。
【新改訳2017】エゼキエル書37章15~22節
15 次のような主のことばが私にあった。
16 「人の子よ。あなたは一本の杖を取り、その上に『ユダと、それにつくイスラエルの人々のために』と書き記せ。もう一本の杖を取り、その上に『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために』と書き記せ。
17 その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中で一つとなるようにせよ。
18 あなたの民の者たちがあなたに向かって、『これがあなたにとって何を意味するのか、私たちに説明してくれませんか』と言うとき、
19 彼らに告げよ。『神である主はこう言われる。見よ。わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族を取り、それらをユダの杖に合わせて一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする。』
20 あなたが書き記した杖を、彼らの見ている前で手に取り、
21 彼らに告げよ。『神である主はこう言われる。見よ。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く。
22 わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で一つの国とするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らは再び二つの国となることはなく、決して再び二つの王国に分かれることはない。
●神がエゼキエルに対し、「エフライムの杖」「ユダの杖」と書き記した二本の杖をつないで、一本の杖とし、あなたの手の中で一つとせよ。そして、その意味を尋ね求める者には告げるようにと命じています。その意味は、「全イスラエルを主の手の中で一つにして、国々の間から取り、四方から集めて彼らの地に導いて行く」ことなのです。このことは、エレミヤ書の30章3節と結び合います。その神のご計画を書き記すということは、そのことを私たちが忘れることなく心に留め置くということです。
5.「そのとき」は「ヤコブの苦難」を伴う
●エレミヤ書30章7節には、「大いなる日、比べようもない日。それはヤコブ(=全イスラエル)には苦難の時(עֵת־צָרָה)」があるとあります。未曾有の苦難は「イスラエルとユダを回復させる」ために、不可欠な産みの苦しみなのです。それによって「イスラエルの残りの者」が起こされるのです。この「イスラエルの残りの者」とは「14万4千人からなる全イスラエル」(黙示録7章)です。未曾有の苦難は聖書の多くの箇所で書き記されていますが、イスラエルの残りの者は、「そこ(=苦難)から救われる」のです(エレミヤ30:7)。
①【新改訳2017】ダニエル書 12章1節
その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。②【新改訳2017】ヨエル書2章1~2節
1 「シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。」地に住むすべての者は、恐れおののけ。【主】の日が来るからだ。その日は近い。
2 それは闇と暗闇の日。雲と暗黒の日。数が多く、力の強い民が、暁とともに山々の上に進んで来る。このようなことは、昔から起こったことがなく、これから後、代々の時代までも再び起こることはない。③【新改訳2017】マタイの福音書24章21節
そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。④【新改訳2017】ヨハネの黙示録12章1~2節
1 また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。2 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。●この「一人の女」の正体は「イスラエルの残りの者」(「シェエーリート・イスラーエール」שְׁאֵרִית יִשְׂרָאֵל)で、女性名詞です。これまでヤコブ(神のイスラエル)は「子を産まない不妊の女」(イザヤ54:1)とたとえられました。しかし「その日」(=終わりの日)の未曾有の苦難の時に何と多くの子を産むのです。そのことが、エレミヤ書30章5~6節に記されています。少々、難解ですが・・・
5 まことに【主】はこう言われる。「恐れてわななく声を、われわれは聞いた。『恐怖だ。平安がない』と。
6 さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。
7 わざわいだ(「ホーイ」הוֹי)。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時(עֵת־צָרָה)。だが、彼はそこから救われる。
●このことばは、ユダヤ人に語られたのではなく、ヤコブ、すなわち「イスラエルとユダ」に、全イスラエルに語っているのです。苦難の時に、すでに「イスラエルの残りの者」となる者が集められていることになります。ゼカリヤ書12章10節に「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く」とあるので、あたかもこの恵みに与るのはユダの人々だけと思い込んでしまいますが、ゼカリヤ書は「ダビデの家とエルサレムの住民」に向けて語られているので、誤解しやすいため、注意が要ります。「イスラエルの残りの者」には「全イスラエル」がいるのです。いつの時点で「失われた十部族」が入るのか分からないのですが、神が集められるのです。この「イスラエルの残りの者」は黙示録12章では「一人の女」なのです。この女がイェシュアの伝えた「御国の福音」を伝えることによって、初めて「男の子」(大勢の異邦人「ゴーイム」גּוֹיִם)を産むのです。そのことが「女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた」(黙12:2)と預言されているのです。このことはまだ起こっていない出来事ですが、あたかもすでに起こったかのように記されています。
6.「その日になると」
【新改訳2017】エレミヤ書30章8~9節
8 その日になると──万軍の主のことば──
わたしはあなたの首のくびきを砕き、あなたのかせを解く。他国人が再び彼を奴隷にすることはない。
9 彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕える。
●「その日になると」の「その日」とは、「千年王国が実現されると」という意味です。そこに入ることができた「イスラエルの残りの者」は、二度と侵略されることも、奴隷にされることもありません。メシア・イェシュアが王国の王座に着かれて全地を支配されると同時に、かつてイスラエルを統治したダビデもよみがえらされて「君主」(「ナースィー」נָשִׂיא)の地位に着きます。「立てる」と訳された「クーム」(קוּם)は復活用語です。このことは、エゼキエルも預言しています。
【新改訳2017】エゼキエル書37章25節
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与え、あなたがたの先祖が住んだ地に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちが、とこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
●メシア王国では、ダビデは「イスラエルの残りの者」の牧者となり、彼らを養う「君主」となって実際的に彼らを治めることを意味します。イェシュアは王なる神ですから、イェシュアとダビデの関係は、おそらくエジプトのファラオとヨセフの関係にたとえることができるのではないかと思います。
べアハリート
●ユダヤ人がイェシュアをメシアと信じて救われるということも大切です。しかしそれ以上に重要なことは、メシア・イェシュアが再臨される前に、全イスラエルが回復するということなのです。とすれば、そのことがエックレーシアとどのような関係になるかということです。結論を言うなら、「エックレーシア」は「イスラエルの回復のヴィジョン」の中に括られるということです。
①【新改訳2017】ルカの福音書15章24節
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
●ルカ15章には「二人の息子を持つ父のたとえ話」があります。弟である息子は、父のもとから離れて、遠い国に旅立ちました。この弟息子とは、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」とあることから、消滅した、あるいは異邦人化されたイスラエルのある部族のことと解釈できます。神の回復のみわざとは、死んでいた者を生き返らせ、いなくなっていた者を見つけ出すことだからです。
②【新改訳2017】ルカの福音書19章9~10節
9 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
●ここにある「今日」は、todayではなく、へブル語の「ハッヨーム」(הַיוֹם)で、「神のご計画を啓示する特別な時」を意味しています。つまり、人の子が再臨される時に(その直前に)「失われたイスラエルの部族」は捜され、見出されて集められることを啓示するたとえともなっているのです。ザアカイは「失われたイスラエルの部族」の型とも言えるのです。神のご計画は、以下に要約されています。
【新改訳2017】エペソ人への手紙1章10節
時が満ちて計画が実行に移され、
天にあるものも地にあるものも、一切のものが、
キリストにあって、一つに集められることです。
三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。
2023.10.29
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