****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「ハヌカの祭り」の今日的意義

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6. 「ハヌカの祭り」の今日的意義

【聖書箇所】

ベレーシート

  • 「ハヌカの祭り」は別名「光の祭典」とも呼ばれますが、この祭りの由来には、「光」とは何の関係もありません。この祭りの歴史的背景を記した「マカバイ記」(上下)の中には、「光」についての言及はひとつもありません。むしろこの祭りは、ギリシアの王アンティオコス4世エピファネスによって汚された神殿をきよめて、神に再奉献した出来事であることが分かります。ですから、「光の祭典」とあるのは伝説の域を出ないことが分かります。
  • しかし瞑想を続ける中で、「ハヌカの祭り」が示唆していることは、むしろ「光」と大いに関係があるのだと考えるようになりました。つまりこの祭りが真に示唆していることは、神のヴィジョンである神の家(神殿)についての理解を深めるためには、上からの光をより多く必要としているということです。
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  • 神殿には金で出来た七つの枝を持った燭台「メノーラー」(מְנוֹרָה)が置かれていますが、「ハヌカの祭り」で用いられる燭台は九つの枝で出来た「ハヌキヤー」と呼ばれる燭台で、ハヌカの祭りにしか使われない、いわば期間限定使用の燭台なのです。9本ある蝋燭のうち、8本は正規の蝋燭ですが、あとの1本は火種としての蝋燭です。八日間にわたる祭りにおいて第一日目は1本、第二日目は2本・・と、日を追うごとに蝋燭に灯される蝋燭の火の数で明るさは増し、祭りの最終日にはすべての蝋燭が灯されることになります。このことを別の視点から見るならば、「ハヌキヤー」は、奥義としての神のご計画の悟りが、終わりの日が近づくにつれて、時の経過と共に光の量が増し加えられて開示され、やがて八日目には、神のご計画の全体が完成するという預言的なしるしとしての燭台とも言えます。そのようにこの祭りを理解するならば、この時期に静まって瞑想することはきわめて意義のあることだと考えます。
  • 「ハヌカの祭り」の八日間の瞑想を試みたその結論として、「ハヌカにおける三つの瞑想テーマ」を、瞑想の指針として提起したいと思います。以下に掲げる瞑想テーマを毎年継続することで、キリストの花嫁である教会が整えられていくと信じます。

1. ヘレニズムとヘブライズムの相克
2. 家庭教育における信仰の継承という大事業
3. 聖書的献身の再吟味


1. ヘレニズムとヘブライズムの相克

  • ギリシアの支配下に置かれたユダヤ人たちは、バビロン捕囚時代やメディア・ペルシア時代とは異なる危機にさらされることになります。その危機とはヘレニズム文化が強要されたことです。それはユダヤ人の存在のアイデンティティを根底から否定されるという危機でした。つまり、反ユダヤ主義の台頭です。

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  • マカバイ記上1章10節に「そしてついには彼らの中から悪の元凶、アンティオコス・エピファネスが現れた。」とあります。「彼らの中から」とは、ペルシア帝国を打ち倒して世界を征服したマケドニア(つまりギリシア、聖書では「ヤワン」と称されます)のアレキサンダー大王とその武将たちとその子孫からという意味です。その中から「悪の元凶、アンティオコス・エピファネス」が現れたのです。「エピファネス」とは「現人神、あるいは、現神王」という意味ですが、アンティオコス4世は自分を呼ぶ呼称として「エピファネス」と呼ばせていたようです。しかしユダヤ人は「エピマネス」(気違い)と陰口をたたいていたと言われます。
  • 「悪の元凶」は新共同訳の訳語ですが、フランシスコ会訳は「一本の罪深い芽」、バルバロ訳は「悪の根」と訳しています。それは彼がユダヤ人たちやエルサレムを武力でヘレニズム化させようとしたことを意味しています。しかも、それに従わないものを死刑にしたのです。そのために、「こうして彼らは異邦人の流儀に従ってエルサレムに錬成場(=体育館、競技場)を建て、割礼の跡を消し、聖なる契約を離れ、異邦人と軛を共にし、悪に身を引き渡した。」(1:14~15)とあります。エルサレムがヘレニズム化された都となるためには、錬成場(=体育館、競技場)を築くことは必要条件であったようです。当時の競技は裸でなされたために、すでに割礼を受けていた者は特別な手術で無割礼の状態に戻したようです。また、割礼を受けないことはユダヤ教の放棄を明らかにすることでした。アンティオコス4世エピファネスは、すべての人々が一つの民族となるために、おのおの自分の慣習を捨てるように、勅令を発しました。彼がしたことをまとめてみると、以下のようになります。

(1) 安息日を汚したこと。
(2) 主の例祭と聖なる日を汚したこと。
(3) ギリシアの偶像(ゼウス)を祭壇に置いて拝ませたこと。
(4) 祭壇には豚の血をささげたこと。
(5) 聖書で禁じている不浄な食べ物を食べさせたこと。
(6) 割礼を禁じたこと。
(7) トーラーの学びを禁じた。

  • 上記の内容に違反した者はすべて死刑に処しました。このようにして神を拝むユダヤ人を徹底的に迫害したのです。またユダヤ人の中にはギリシアと手を結ぶ者たちがいたことも事実です。ヘレニズム化が推し進められたことで、ユダヤ人が二分されたのです。これはバビロン時代にも、メディア・ペルシア時代にも見られないことでした。このような迫害を私たちはどのように思うでしょうか。キリスト教の歴史において、このアンティオコス4世・エピファネスと同様なことをしてきた者たちがいます。それはローマ・キリスト教会です。ユダヤ人を排斥し、彼らの社会的地位を剥奪し、彼らの伝統とそのルーツを断ち切り、世界に離散させた反ユダヤ主義です。これが置換神学(脚注)を生みました。
  • ヘレニズムは今や全世界に浸透している人間中心の文化です。このヘレニズムと対抗するのが神中心のヘブライズムです。思惟概念の相克です。使徒パウロは前者を「この世の知恵」と呼び、後者を「神の知恵」と呼んでいます。この両者には何のつながりも、まじわりも、調和も、かかわりも、一致もないことを強調し、「つり合わぬくびきをいっしょにつけてはならない」と述べています (Ⅱコリント6:14~18)。これはやみと光との衝突であり、御国が完全に到来する日まで続くのです。マカバイ記はこのテーマを扱っている書だと言えます。その視点から「ハヌカの祭り」を考えるなら、単なるユダヤの祭りの域を超えた、神の民としての今日的課題を持った祭りとなり得ると信じます。
  • ヘレニズムとヘブライズムとの相克(衝突)は、古くて新しい問題です。今日の教会においても、従来の置換神学からヘブル的視点による聖書解釈に目が開かれてきている現象は、ヘブライズムの台頭と言えます。
  • マカバイによる勝利は、パレスティナ全域にヘブル語が主要言語となる契機となりました。以下は、「イエスはヘブライ語を話したか」(ダヴィッド・ビヴィン/ロイ・ブリザード/河合一充訳)の47頁からの引用です。

紀元前167年、エルサレム神殿はシリヤのセレウコス朝のアンティオコス四世エピファネスによって汚された。この直後に、ユダ・マカバイに率いられて、ユダヤ人はアンティオコスの圧政と暴虐な政策に対して反乱を起こした。この反乱はついに、紀元前164年の12月(キスレヴの月)に神殿を回復し清めることに成功したが、明らかにこのことからユダヤ人の間に宗教的な復興が鼓舞された。マカバイによる勝利は、パレスティナ全域に父祖の言語であるヘブライ語が再び主要言語となっていくきっかけとなったのである。同様に、近代において、父祖の地に帰ってきたユダヤ人のためにどの言語を正式な国語とするかの戦いの中で勝利を得たのが、ヘブライ語であった。


2. 家庭教育における信仰の継承という大事業

  • 信仰の継承を目的としてスタートした「ヒナヤーヴ・ミニストリー」は、継続中ですが、これは今日の教会において、難事業であると同時に、優先度の高い大事業です。教会教育の前に家庭教育ありきなのですが、その部分が今や崩壊寸前の危機的状況なのです。
  • マカバイ記を読む中で、アンティオコス4世エピファネスによるヘレニズム化への強要に対して強硬に対決したのは、マタティアという父とその5人の息子たちです。ヘレニズム化に傾くユダヤ人が多く起こって来る中で、マタティアと5人の息子たちはそれに同調しなかった者たちを代表する一家でした。彼らはこの戦いのために最後は全員殉教しますが、彼らの戦いはまさにヘブライズムを継承する戦いであったと言えます。
  • 父マタティアの死期が近づいた時、彼が息子たちに語った訣別説教が光を放っています。「今は高慢とさげすみのはびこる、破滅と憤りの世だ。お前たちは律法に情熱を傾け、彼らの先祖の契約にいのちをかけよ。我らの先祖がそれぞれの時代になした業を思い起こせ。そうすればお前たちは、大いなる栄光と永遠の名を受け継ぐことになる」と言って、アブラハム、ヨセフ、ピネハス、ヨシュア、カレブ、ダビデ、エリヤ、「ハナンヤ、アザルヤ、ミヒャエル」(おそらく、シャデラク、メシャク、アベデネゴのこと)、ダニエルといった信仰の勇者たちの名を挙げながら、マタティアは息子たちに言います。

61 それゆえ代々にわたって次のことを心に留めよ。神に希望をおく者は決して力を失うことはないと。
62 罪人の言葉を恐れてはならない。彼の栄光など塵あくたや蛆虫に変わってしまうだろう。
63 彼は、今日は有頂天になっているが、明日には影すら見えなくなる。元の塵に返り、そのはかりごとは消えうせる。
64 お前たちは、律法をよりどころとして雄々しく強くあれ。律法によってこそお前たちは栄誉を受けるのだ。
65 見よ、お前たちの兄弟シモンは知略にたけた男だ。いつも彼の言うことを聞け。シモンはお前たちの父となるであろう。
66 ユダ・マカバイは若年のころから剛の者である。彼を軍の指揮者として仰げ。彼は諸国民との戦いを戦い抜くであろう。
67 お前たちは、律法を実践する者全員を集め、民のために徹底的に復讐することを忘れるな。
68 異邦人たちには徹底的に仕返しし、律法の定めを固く守れ。」

  • マタティアの訣別説教(遺言)で教えられることが三つあります。
    第一は、拠り所がこわされたなら、何もできないということを確信していたことです。それゆえ息子たちに「律法をよりどころとして雄々しく強くあれ」と命じました。そして、神に希望をおくものは決して力を失うことはないと力強い励ましを与えました。
  • 第二は、人間の栄光とはかりごとは消え失せるということです。それゆえ、「罪人のことばを恐れてはならない」と命じました。事実、アンティオコス4世エピファネスの栄光とそのはかりごとは消え失せました。
  • 第三は、息子たちの賜物(リーダーとしての資質)を見抜いていたことです。シモンは戦いの策士として、またユダは統率者としての資質を見抜いて、他の者はその二人に聞き従うように命じたのです。
  • このような訣別説教を語ることのできる父親はすばらしいです。まさに箴言における「父」の姿を彷彿とさせます。このような主にある家庭教育が建て上げられていく必要があります。これは日本のキリスト教会における緊急の今日的課題ではないかと思います。

3. 聖書的献身の再吟味

  • マタティアが死んだ(おそらく病に倒れた)後、5人の息子たちの中の三男のユダが父の後を継ぎます。彼は意志強固で勇気のある有能な指導者であったことが、マカバイ記上3~4章を読むと分かります。4章38~59節には、汚されたエルサレム(シオン)の神殿と祭壇をきよめて、再奉献したことが記されています。この「再奉献」こそ、「ハヌカの祭り」の由来となった出来事です。時は西暦B.C.164年(バビロニア式セレウコス暦、すなわち、マカバイ記に記されている暦では第148年)です。
  • ちなみに、「ハヌカ」の祭りは、旧約聖書に記されている「主の例祭」には含まれていません。なぜなら、この祭りは旧約聖書がまとめられた後に起った、マラキからイェシュアまでの「中間時代」と呼ばれる時期に実際に起った歴史的出来事に由来するものだからです。「ハヌカの祭り」とイェシュアとの関係については、ヨハネの福音書10章22~23節に、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。」とあります。イェシュアの行動にはすべて御国に関する何かが隠されていると考えるのは自然です。
  • 新改訳は「ハヌカの祭り」のことを「宮きよめの祭り」と訳していますが、新共同訳は「神殿奉献記念祭」と訳しています。こちらの訳の方がこの祭りの内容をよく表わしていますが、正確を期すならば、「神殿再奉献記念」とすべきです。「再」という文字が「宮きよめ」とつながるからです。ギリシア語原文では「エグカイニア」(ἐγκαίνια)となっており、それは「宮きよめ、再奉献」という意味です。冬の時期のこの祭りのために、イェシュアがエルサレムに行かれたことで、この祭りがイェシュアにとって重要な祭りであったことをうかがわせます。ここではイェシュアが神のヴィジョンである神の家(神殿)を建て上げるための使命を、再確認する時としてエルサレムに行かれたのではないかと推察します。
  • 「ハヌカ」の原語情報について。「ハヌカ―」(「ハヌッカー」חֲנֻכָּה)は「ハーナフ」(חָנַךְ)の名詞で、旧約では「奉献」という意味で12回使われています。動詞の「ハーナフ」(חָנַךְ)は神殿のみならず、祭壇、新しい家、そして自分の子を主にささげることを意味します(申命記20:5/Ⅰ列王記8:63/Ⅱ歴代誌7:5/箴言22:6)。ちなみに、新しい家とあるのは新しい主にある家庭を主にささげることの意味であり、子を主にささげるということは子を主の道を歩むべくふさわしく教育(訓練)することを意味します。まさに「ハヌカ」の奉献の儀は、神の主権的支配に対する献身の表明と言えます。
  • 「ハヌカの祭り」にはこうした信仰的献身の表明が含まれているにもかかわらず、イェシュアがこの世に来られた時代の神殿は、祭司長を初めとする指導者たちが神のトーラーの道から外れて、人間の教え(解釈)と制度化した宗教の中で安逸をむさぼっていた現実があります。それゆえ、「ハヌカ」の献身的精神はイェシュアの時代のみならず、いつの時代にも必要とされるものなのです。この献身的精神が発動される背景には、必ずと言ってよいほど指導者たちの霊的堕落があるのです。その意味において、この神殿再奉献の出来事の今日的意義として、最後に、ローマ人への手紙12章1~2節にある使徒パウロのことばと関連させて考えてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】ローマ書12章1~2節
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

  • 1節の主動詞は、「勧めます」と訳された「パラカレオー」(παρακαλέω)です。ここでパウロは何を勧めているのかと言えば、「あなたがたのからだをささげること」です。あとはそのことを説明する修飾的なことばが付随しています。つまり、献身の勧めです。このことと「礼拝」とは同義です。献身なき礼拝はあり得ないという事になります。したがって、私たちはもう一度、自分のからだを神にささげるとはどういうことかを知らなければなりません。そのことを述べているのが2節です。
  • 「ささげなさい」という動詞「パリステーミ」(παρίστημι)は、「そばに」という意味の前置詞「パラ」(παρα)と「立つ」を意味する「イステーミ」(ίστημι)の合成語です。「ささげること」は、霊的な(=「理になかった、あまりに当然な」の意)礼拝とイコールです。あなたがたのからだを、「聖い、生きた供え物として」とは、神に喜ばれるなだめの供え物、すなわち、自発的な供え物として自らをして神の前に立たせるということです。これこそが、まことの献身であり、霊的な礼拝なのだと使徒パウロは私たちに語っています。
  • 「ささげる」ということについて挙げておきたいもう一つの箇所は、パロウが愛弟子テモテに宛てた手紙の中にあります。

【新改訳改訂第3版】Ⅱテモテ 2章15 節
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

  • ここにもローマ書12章1節と同様に、「パリステーミ」(παρίστημι)という動詞の不定詞が使われています。不定詞とは動詞を名詞化したものです。ここでの主動詞は「努め励みなさい」(「熱心に努めなさい」)というアオリストの命令形です。アオリストの命令形は、ヘブル語の強意形のヒットパエル態に相当します。つまり、主体的に、自覚的に、自発的に~をせよという意味になります。
  • ローマ書12章2節には二つの命令形があります。ひとつは「調子を合わせるな」という現在形の命令、もうひとつは「(心の一新によって自分を)変えなさい。」という現在形の命令です。現在形の命令とは、常に・・し続けなさい」という意味です。新改訳は「心の一新によって自分を」とありますが、ここでの「心」とは、心情や感情のことではありません。ギリシア語の「ヌース」(νοῦς)も、ヘブル語訳の「レーヴ」(לֵב)も、知性や考え、思考を意味します。つまり、「思考を一新する」とは思考の座標軸を神中心に移すことを意味します。みことばを時代精神によって解釈せず、本来の神の概念をもってみことばを解釈することを自分に課すことです。
  • 聖書をヘブル的視点から説き明かすことは、そう簡単なことではありません。地道な学びの積み上げが求められます。気合や一念発起の頑張りではできないことです。継続的な積み上げをしながら、毎年、ハヌカの時期に(一年の終わりに)、自らを吟味して神に再献身する機会とするならば、「ハヌカの祭り」は大きな意義を持ってくると信じます。

脚注)
●「置換神学」は具体的にどのような解釈をするのかと言えば、一つの例として、イザヤ書60章1~3節を挙げましょう。

【新改訳2017】イザヤ書60章1~3節
1 「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。【主】の栄光があなたの上に輝く。
2 見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には【主】が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。


●ここには「あなたの」という言葉が6回出てきます。置換神学では、この「あなた」を自分の事だと解釈してしまうのです。しかしここでの「あなた」とは「エルサレム」(「シオン」)のことを意味しています。神のご計画の「終わりの日」のメシア王国においては、シオン(エルサレムの雅名)に対する神のご計画(約束)が実現することを「あなたの光が来る」、「主の栄光があなたの上に輝く」、諸国の民は「あなたの光のうちを歩み」、諸国の王たちは「あなたの輝きに照らされて歩む」ようになるのです。置換神学によって「あなた」を「自分」に置き換えることによって、神がしようとするご計画が全く無視されてしまうのです。これが反ユダヤ主義にもつながるのです。

●ちなみに、1, 2,3節の「輝く、照らされる」と訳された語彙は「太陽が昇る」という意味の「ザーラハ」(זָרַח)です。その名詞の「ミズラーハ」(מִזְרָח)は「日の出る所、東」を意味します。これを「日の出る国」、つまり「日本」のことだと理解してしまうのが「置換神学」です。聖書のいう「東」とは常にエルサレム(神殿)の東です。そしてシオンの東(オリーブ山)にメシアが来られるのです。


2015.12.14


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