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「レクチオ・ディヴィナ」の源泉としての詩篇119篇

「レクチオ・ディヴィナ」の源泉としての詩篇119篇


  • 祈りの一つとしての「レクチオ・ディヴィナ」(Lectio Divina)があります。「聖なる読書」とも呼ばれていますが、これは沈黙と静けさの中で、ゆっくりと神のことばを読む、聞く、味わう、ふれる、さわるという祈りです。特に、「ゆっくり」というのは「非常にゆっくり」という意味で、これは決して容易なことではありません。自転車をきわめてゆっくりとしたスピードで乗ることが至難のわざであるのと同じです。「非常にゆっくりと聖書を読む」ことがそのまま祈りとなるような「レクチオ・ディヴィナ」。これは修練が不可欠な祈りと言えます。
  • ベネディクト会をはじめとする修道生活から明確に「聖務日課」として位置づけられ、聖書の読み方、祈り方を教える「レクチオ・ディヴィナ」は、すでに紀元6世紀以降に生まれた神への祈りでした。
  • 詩篇119篇はバビロンに捕囚となったイスラエルの民たちが、自らの存在のアイデンティティの危機を経験しながら、その中で、神から与えられていた神のみおしえ(トーラー)を愛する生活を確立しました。その愛する生活とは、主のみおしえを「昼も夜も口ずさむ」ことでした。詩篇119篇には、捕囚となった神の民がどのように神のトーラーと対峙して、神を自ら尋ね求めて愛するようになったのか、そのヒントが隠されています。例えば、「思う」と訳されたヘブル語の「スィーハー」שִׂיחָהもその手がかりの一つです。
  • 「スィーハー」שִׂיחָהは、動詞「スィーアッハ」שִׂיחַの名詞形です。旧約聖書では3回のみ。詩篇119篇の2回(97節と99節)とヨブ記の15:4の1回です。ヨブ15:4では「祈り」(新改訳)、「祈ること」(口語訳)と訳されています。
  • ヘブル語の「スィーハー」שִׂיחָהは詩篇119篇では2回しか登場しませんが、祈りの系譜において重要なキーワードのように思います。まずは「スィーハー」שִׂיחָהについての新改訳「思い」以外の他の訳を見て(調べて)みることにします。

新共同訳  「心を砕く」
口語訳   「深く思う」
岩波訳   「思い」
関根訳   「思いめぐらす」
フランシスコ会訳「思いめぐらす」「思う」
バルバロ訳 「思いめぐらす」
文語訳   「深く思ふ」
L.B訳   「思いめぐらしている」「思い暮らしている」
その他    meditation, reflection, musing, study・・etc.

  • 以上のように、名詞として訳しているのは新改訳と岩波訳だけで、あとはすべて動詞のように訳しています。いずれにしても、「シーハー」שִׂיחָהは、「祈り、黙想、熟考(自己洞察、自己反省も含む) 、沈思黙考、反芻(思いめぐらし)」と言った意味です。神のみことばをじっくり、ゆっくり、思いめぐらしながら、考え、味わう、時には失敗や挫折の中で内省を含む面も含んだ意味の語彙です。しかし詩篇119篇にはそうした「思い」「スィーハー」שִׂיחָהとともに、同じ段落には、「味わう」という感覚的、体感的な表現も見られます。たとえば、「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも甘いのです。」(103節)とあるように、味わう(なめたり、噛んだり)といった味覚の表現があります。他にも、みことばを聞く(聴覚)、書かれたトーラーを見る(視覚)、みことばに触れる、さわる(触覚)、みことばを嗅ぐ(臭覚)という世界があります。これらの感覚的な表現はみことばの一つひとつを丁寧に取り上げて、持ち上げて、あるいは他のことばと関連づけたりして味わう読み方と言えます。このような読み方によって、神のみことばを自分の体の中に染み込ませていくようにしたと思われます。
  • 詩篇119篇の作者たちの読み方は、その意味で、後のキリスト教の歴史の中で、特に修道院の中で発展した「レクチオ・ディヴィナ」へと繋がっていきます。すでに詩篇の中に、神のみおしえを「レクチオ・ディヴィナ」のように読んでいた者たちがすでにいたということです。
  • 神の教えを一つひとつ大切に「非常にゆっくりと読む」ということはどういうことなのでしょうか。それはこういうことではなかったかと推察します。たとえば、十戒の中の第二戒「あなたがたは偶像を自分のために造ってはならない。それを拝むことも、仕えることもしてはならない。」という教えに対峙したとします。そのところを一気を読んでしまうならば、聖書では「偶像を造って拝んだりしてはいけないのだ」ということになります。しかし、ここで立ち止まって、ゆっくり読むことで、「偶像とは何か」、「なぜ人は偶像を造るのか」、「自分のために造るとはどういうことか」、「偶像を造って拝むとどういう結果をもたらすのか」、「自分たちはどうだったのか」というふうに、自分の今置かれた現実の中で、神のおしえ(トーラー)を再考し、自己内省したのです。神のおしえの中にある意味を掘り出しながら、繰り返し、反芻することを通して、神が与えてくれたおしえの中に存在している神の愛を感じるようになります。神の愛に目が開かれる時、神のおしえは単なる教えや命令ではなくなります。愛に裏付けられた神のおしえに目が開かれるとき、どんな知恵ある者よりもすぐれた悟りと知恵を持つようになっていきます。聖書において「知恵ある者」とは、学者のことではなく、神を尋ね求めて、神を見出した者のことをいうのです。
  • こうした神のことばの読み方(祈り)の積み重ねによって、神の愛に触れ、すりこまれ、人の内側が変えられていくのです。その結果、新しいライフスタイルが形づくられてくるのです。こうした祈りを現代の私たちは取り戻す必要があるのです。
  • 神から与えられたことばが、単なる当為して守るものから自ら尋ね求めるような意欲へと変えられるのです。詩篇119篇はまさに「当為から意欲へ」と変えられた聖書の読み方(祈り方)を証言していると言えます。
  • 御子イエスこそ、地上において、詩篇119篇の生き方を完全に生きた唯一の方と言えます。御父と御父のことばの中に秘められている愛の中に御子はとどまられました。御子はそこから生まれる喜びを、今も、聖霊をとおして私たちに与えようとしておられるのです。


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