****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

「人称なき存在」の内なる声

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4. 「人称なき存在」の内なる声

【聖書箇所】 3章1節~39節

ベレーシート

  • 哀歌の3章は哀歌の中でも最も励まされる箇所です。なぜ、励まされるのでしょうか。それはそこに「人称なき存在」の慰めの声があるからです。この「人称なき存在」の声は、知恵文学において最も重要なものです。詩篇においてもこの「人称なき存在」の声があります。神と人との健全なかかわりを建て上げるための声です。新約的にいうならば、それは「聖霊の内なる声」と言うことができます。
  • 哀歌3章の構造を「人称」という視点からまとめてみると、以下のようになります。

画像の説明

  • 今回は、3章の1節から39節までを取り上げてみたいと思います。

1. 人称なき存在の声

  • 今回の瞑想で発見したことがあります。これまで何度も読んでいながらも気づかなかったのです。それは哀歌3章の中に「人称なき存在の声」があるということです。詩篇の瞑想でそのことを発見し、その声こそ、神と私たちのかかわりを健全に建て上げてくれる励ましの声だと知っていましたが、哀歌の中の最高峰の部分にそれが記されていました。その箇所は25節から39節です。

【新改訳改訂第3版】 哀歌3章25節~39節

25 【主】はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
26 【主】の救いを黙って待つのは良い。
27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
30 自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
31 主は、いつまでも見放してはおられない。
32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
33 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
34 地上のすべての捕らわれ人を足の下に踏みにじり、
35 人の権利を、いと高き方の前で曲げ、
36 人がそのさばきをゆがめることを、主は見ておられないだろうか。
37 主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。
38 わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。
39 生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。

  • 特に、ここは私が大学時代に信仰をもって間もない頃に、大失恋を経験したとき、ある信仰の友から紹介されて読んだ箇所です。ですから、私にとってはとても思い出深い箇所です。不思議と私はここのみことばで心が癒されました。
  • 1~24節までの部分は「私」という人称が強調されていますが、ここ25~39節では「私」という人称は一切なく、「神」と「人」を示す言葉しかありません。しかも「神」を表わす語彙は二つで、「主」と訳される「アドナイ」(ヤーウェ、יהוה)と「いと高き方」(至高者)と訳される「エルヨーン」(עֶלְיוֹן)です。「人」を表わす語彙としては三つ使われています。一つ目は36、39節の「アーダーム」(אָדָם)、二つ目は33節の「イーシュ」(אִישׁ)、そして三つ目は27、35、39節の「ゲヴェル」(גֶבֶר)です。ここで重要なことは、「人称なき存在」は直接的に「あなた」という表現では語っていないことです。きわめて客観的に、しかも寄り添うようにして、「神」と「人」とのかかわりを建て上げようとしているということです。

2. 人称なき存在の声によって気づきを与えられた「私」

  • ここでの「私」は、エルサレムを表わす集合人格としての「私」ですが、この「私」が主から受けた望みが消え失せようとしていたまさにそのとき、「人称なき存在」の内なる声を聞いて、主に対する「待ち望み」を持つようになるのです。「それゆえ、私は主を待ち望む」というフレーズが21節と24節に二回使われています。大きな信仰的飛躍の経験です。ここに使われている「待ち望む」という動詞は「ヤーハル」(יָחַל)という言葉で、その意味するところは、将来の神の善(「トーヴ」טוֹב)を信じて、今を生き抜かせるところの待ち望みです。ただ我慢して耐えている待ち望みの姿勢ではありません。希望をもった待ち望みなのです。その姿勢を「私」に与えた存在こそ「人称なき存在」の声でした。

3. 「人称なき存在」のメッセージ

  • 「人称なき存在」のメッセージは、「主はいつくしみ深い」(3:25)という一語に尽きます。ヘブル語では「トーヴ・アドナイ」(טוֹב יהוה)。英語ではThe LORD is good.
    画像の説明
  • 主のトーヴを信じる者は、将来、必ず幸い(トーヴ)を得ることができることを「人称なき存在」は強調しています。そのための条件は三つあります。それは、「待ち望むこと」「尋ね求めること」「静まること(沈黙)」の三つです。

(1)「待ち望む」

  • 哀歌では「待ち望む」という動詞が二つ使われています。一つは先に挙げた「ヤーハル」(יָחַל)、そしてもう一つは「カーヴァー」(קָוָה)です。前者は2章21, 24, 26節の3回、 後者は2章16節, 3章25節に2回使われています。特に、「ヤーハル」は詩篇119篇の特愛用語です。詩篇119篇はバビロンの捕囚の中で、神の民が神をなによりも愛する者となり、神の教えであるトーラーを自ら、主体的に学び、それを宝としてトーラー・ライフを築いたあかしの詩篇です。そこに「待ち望む」という「ヤーハル」が6回使われているのです(119:43, 49, 74, 81, 114, 147)。

(2)「尋ね求める」

  • 「尋ね求める」と訳された「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)は、哀歌では3章25節の1回しか使われていませんが、詩篇119篇では特愛用語として5回も使われています(119:2, 10, 45, 94, 155)。

(3)「静まる」(沈黙する、黙る)

  • 静まって、独りになることを意味する「ダーマム」(דָּמַם)は、哀歌では3回(2:10, 18/3:28)使われています。神と人とがしっかりとした良いかかわりを築くためには、「独りになること」を恐れないことが重要です。


最後に

  • 「主はまことにいつくしみ深い」方であることは、詩篇においても重要な告白の一つです。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」というフレーズは定型句として使われています(詩篇106:1, 107:1など)。預言者エレミヤも「バビロン捕囚」は災いではなく、平安を与える計画であり、希望と将来を与えるものであることを語っています(29:11)。
  • 最後に、哀歌3章の33節のみことばをいろいろな訳で見てみます。

【新改訳改訂第3版】
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
【新共同訳】
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない。
【関根訳】
心から人の子らを苦しめ、打ちたもうのではないのだ。
【岩波訳】
まことに、彼は人の子らを心の底から辱め、苦しめはしない。
【バルバロ訳】
主は、人の子を苦しめても、すすんで押しひしがれるのではない。

  • 神が良いお方であり、良いことしかなさらない方である」というのは永遠の真理であり、命題です。この真理を見失うとき、私たちは混沌としたやみの中をさまようことになります。「苦難」には必ず意味があります。しかしその意味することはすぐには掴むことができないかもしれませんが、必ず意味があることを聖書によって知ることができます。意味を見出し得なければ、その苦しみから学ぶことや大きな飛躍をすることはできません。苦しみを経験した人がその意味を見出した時、喜びが湧き上がり、生きる力さえもあふれてくるのです。

2012.12.21


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