「喜ぶ」
詩篇119篇の22の瞑想の目次
詩119篇(7)「喜ぶ」 שָׁעַע シャーアー
(カテゴリー: 感謝)
70節「・・しかし、私はあなたのみおしえを喜んでいます(שָׁעַע)。」
Keyword; 「喜びます、楽しみます」 delight, sport, take delight in, 94:19/119:16, 47, 70
- 「喜んでいます」と訳されたシャーアーשָׁעַע(sha`a)は、旧約聖書で6回しか使われていない動詞です。しかもそれはすべて詩篇にあり、詩119篇に5回、94篇に1回です。
- シャーアーשָׁעַע(sha
a)の名詞シャアシュイームשַׁעֲשׁוּעִים(sha
ashu`im)は、すべて「私の喜び」(新改訳)、「わたしの楽しみ」(新共同訳)と訳されており、この名詞も詩篇の中では119篇にのみ使われています(24, 77, 92, 143, 174節)。とすれば、この動詞はバビロン捕囚時に生まれた言葉と言えます。
- ところで、喜びを表わす一般的な動詞としてサーマハשָׂמַח(samach)があります(詩119篇では74節にあります)。英語ではrejoiceと訳されます。一方のシャーアーשָׁעַע(sha`a)はdelight、もしくはsportと訳されます。rejoiceとdelightの違いは何なのでしょうか。
- 前者のrejoiceはある特別なこととしての喜びを表わすのに対し、後者のdelightは日常的な楽しみ、気晴らし、遊びの感覚、趣味に興じるといった意味合いをもったことばであるように思います。
- 人は楽しいことをしているときには、時間を忘れ、疲れを感じません。むしろより創造的な文化を生み出していきます。日本の江戸時代には多くの文化的な面で花を咲かせました。その文化を担った人々は隠居して(自分の生活のために働くことから離れて)、自分のやりたいことを興じた人々によって生み出されたと言われています。したがって、江戸時代においては、隠居は自己実現する手段でした。
- バビロン捕囚を経験した神の民たちは、外面的状況としては異教の民からの屈辱を受けていましたが、その中で彼らは神の律法を楽しむ文化を築きあげていたのかもしれません。詩119篇にのみ見られる「あなたのみおしえは私の喜びーmy delight―です」という表現は、まさに律法による自己実現の喜びを表している言葉かもしれません。
- 多くの人々は、試練や困難に遭遇すると無益と思うばかりか、人生における損であるととらえてしまいがちです。しかし捕囚の民が得たものは全く逆のものでした。捕囚経験は彼らを神にあって再教育するのに大いに役立ち、忍耐や信仰、不屈の精神、謙遜な態度など、有益な特質を伸ばす契機となったと言えます。人々の経験する全ての事柄、特に忍耐をもって耐えなければならないときに効果は大きく現れてきます。