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「学ぶ」

詩119篇(1)「学ぶ」 לָמַד ラーマド               

(カテゴリー: 信頼)

7節「あなたの義を学ぶとき。私は直ぐな心であなたに感謝します。」
71節「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びましたלָמַד(lamad)。」(新改訳)
71節「私がいやしめられのは、良いことだった、あなたの定めを学ぶためには。」(バルバロ訳)

Keyword; 「学ぶ」 learn, 119:7, 71, 73

  • 「学びました」と訳される動詞ラーマドלָמַד(lamad)は、本来、「教える、鍛える、しつける、養成する、teach, train」という意味です。それが詩119篇では「学びます」となっています(119:7, 71, 73のみ)。「学ぶ」とは、頭で理解すること、気づかされること、身に着くこと、learnを意味します。つまり、ラーマドלָמַד(lamad)は「教える」ことと「学ぶ」ことが、ワンセットになっている動詞だと言えます。ただ、ラーマドלָמַד(lamad)は詩篇の中では27回使われていますが、「学ぶ」と訳されているのは詩119篇のみです。
  • 作者は、①いつ、②何を、③だれから、④どのようにして学んだのか、⑤その結果はなんであったのか、興味を引くところですが、65~72節の箇所では①と②と⑤について記しています。①では「苦しみにあったこと」「卑しめられたこと」が「学ぶ」契機となりました。「苦しみに会う前には、あやまちを犯した」(67節)者が、苦しみを経験することで何かを学んだのです。②その何かとは、主が自分にとって良い方であるということです。
  • このブロックでは、6つのトーヴ(טוֹב)がいろいろな表現で使われています。「良くしてくださった」「良い(分別)「いつくしみ深い」「いつくしみを施される」「しあわせでした」「(金銀にも)まさる」・・です。God is good. 神は良い方である、神は良いことしかなさらないーこのことに気づかされた「気づき」こそが、この作者にとって「学んだ」ことの内容でした。さらに、⑤の学びの結果は、まさに「しあわせ」(טוֹב)と「喜び」(שָׁעַע)でした。(※שָׁעַע (sha`a)は詩篇94:19, 119:16, 47, 70にしか使われていない動詞です.)
  • 苦しみの効用は実に大きなものがあるようです。御子イエスも多くの苦しみを通して従順を学んだとあります(ヘブル人への手紙5章8節)。とするなら、私たちが経験する多くの苦しみ、ストレスと感じる事柄、疲れや重荷があります。しかし、その背後におられる御父の愛の深い配慮を知って、「私にとって良いことでした」と気づく者はさいわいです。
  • へブル人への手紙12章には御父の子に対する訓練の意図がはっきりと記されています。
  • 「あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」

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