「捕囚の民に書き送ったエレミヤの手紙」
1. 捕囚の民に書き送ったエレミヤの手紙
【聖書箇所】エレミヤ書29章1, 4~7, 10~14節
ベレーシート
●エレミヤ書29~33章はエレミヤ書の心臓部です。その箇所から1章ずつ、計五回にわたって、バビロンの捕囚となった者たちに対する神のご計画と、そこにある神の思いの深さをつぶさに知りたいと思います。つまり、エレミヤ書29~33章を通して、エレミヤ書全体の主要なメッセージ、および聖書全体にある神のご計画と、神のみこころにふれることができることを期待したいと思います。
●今回は29章の「捕囚の民に書き送ったエレミヤの手紙」を取り上げます。
【新改訳2017】エレミヤ書29章1、4~7, 10~14節
1 預言者エレミヤは、ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、すなわち、長老で生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、および民全体に、エルサレムから次のような手紙を送った。
4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』
10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。
14 わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める─主のことば─。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる。』
1. 預言者エレミヤ
●29章1節に「預言者エレミヤ」(「イルメヤー」יִרְמְיָה)の名前が出てきます。今回は、29章を通してエレミヤ書全体にもふれたいと考えています。ですから、捕囚の民に手紙を送ったエレミヤについて知ることは重要です。
【新改訳2017】エレミヤ書1章1~5節
1 ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子エレミヤのことば。
2 このエレミヤに主のことばがあった。ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことである。
3 それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの時代にもあり、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月、エルサレムの民の捕囚まで続いた。
4 次のような主のことばが私にあった。
5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」
●イスラエルには「北イスラエル」(失われた10部族)と「南ユダ」(ユダ族とベニヤミン族とレビ族)がありましたが、エレミヤは「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人」とあります。彼の出生地はエルサレムから北東約5キロの距離にある「アナトテ」(「アナートート」עֲנָתוֹת)という寒村です。「寒村」と言っても寒い村という意味ではなく、「貧しく寂しい村」という意味です。イェシュアの出生地ベツレヘムも「ユダの氏族の中で、あまりにも小さい」(ミカ5:2)とあり、そこから「イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」とあるように、エレミヤの場合も、「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」とあります。「定まっている、定めていた」と訳された動詞は「ヤーツァル」(יָצַר)で、「神があらかじめ定めていた事柄であった」という意味です。このことは、神が歴史のシナリオライターでなければあり得ないことです。まさに、歴史は神の作業場と言えます。
●「このエレミヤに主のことばがあった」(1:2)とあります。一見何気ないように思えるフレーズですが、ここにある「ことば」と訳された名詞「ダーヴァール」(דָּבָר)は、エレミヤ書においてきわめて特徴的な語彙なのです。旧約聖書では1454回ですが、頻度数としてはエレミヤ書が207回と最も多いのです。次は列王記第一の128回、列王記第二の108回、申命記の95回、エズラ記の82回・・・です。名詞の「ダーヴァール」(דָּבָר)は、動詞の「ダーヴァル」(דָּבַר)から派生したものですが、その根本的な意味は「行為を伴ったことば」であり、それが不可抗力的に上から「臨む」という意味で「あった」のです。それゆえに、「ことばがあった」は「必ず起こる出来事」という意味があります。「ことば」が「行為」となって現われ、それが「出来事」となるという意味です。したがって「主のダーヴァール」は神ご自身の最高の顕示表現と言えるのです。それゆえ、神の民はその「ダーヴァール」に耳を傾けなければならないのです。
●ところが神の民は、神の語られる「ダーヴァール」を軽く考えていました。エレミヤが神の「ダーヴァール」を語った時代は、ヨシヤ王の治世の13年目(B.C.627年)から、ゼデキヤの治世の11年目(B.C.587年)のエルサレム陥落とバビロン捕囚の数年後までの約40年余りにわたっています。この時、北イスラエルはアッシリアによってすでに滅んでいました。エレミヤは、イスラエルの歴史において最も悲惨な期間を生き抜いた預言者でした。
●エレミヤの時代は強大なアッシリアの勢力が衰微し、バビロンの勢力が台頭してくる動乱の時代でした。そうした時代背景の中で神の民は何が真実なのか、何が真実でないのか、それを見分ける必要がありました。しかし人々は偽預言者の言葉を信じて「大きな門」から入り、「大きな道」を通って滅びへと向かって行きました。「いのちに至る門」「いのちに至る道」はいつも彼らの傍にあったにもかかわらず、大勢の人々はそれを見出すことが出来ませんでした。預言者エレミヤはイェシュアの「型」であったのです。
●ユダ王国がバビロン捕囚という破局に向かって進んでいた時代に、エレミヤは神のことばを語る預言者として召されたため、「涙の預言者」と言われるほどに悲しみを経験した「証人」であるばかりでなく、捕囚の出来事に隠された秘密についての「解説者」ともなったのです。特に、エレミヤ書29~33章をじっくりと学ぶことによって、神のご計画の中に隠された神の深いみこころについて知ることができるのです。
●前置きが長くなりましたが、エレミヤ書29章には、預言者エレミヤの「手紙」(「ハッセーフェル」הַסֵּפֶר)が記されています。その手紙には、神のことば(=「ダーヴァール」דָּבָר)が書き記されていました。その手紙の宛先は、「バビロンに引いて行かれた者」、すなわち「捕らえ移された民」=「捕囚の民全員」(「コル・ハーアーム・アシェル・ヘグラー」כָּל־הָעָם אֲשֶׁר הֶגְלָה)に対するものです。動詞「ヘグラー」(הֶגְלָה)の名詞「捕囚の民」が「ゴーラー」(גּוֹלָה)です。「ゴーラー」(גּוֹלָה)は、後の「イスラエルの残りの者」である「シェエーリート」(שְׁאֵרִית)と同様に女性名詞です。「イスラエルの残りの者」」はいまだ歴史上には存在していませんが、やがて現れる非常に重要な存在となります。
2.イスラエルの神、「万軍の主」
●29章で語っているイスラエルの神の名は、「万軍の主」「アドナイ・ツェヴァーオート」(יהוה צְבָאוֹת)です。この名はⅠサムエル記から登場します。それは、イスラエルがその周辺諸国とかかわりを持つことになって来る時代となるからです。それまではカナンにいる諸民族との戦いでしたが、カナン以外の強大な諸国とのかかわりの中に置かれるようになってきます。そのため、イスラエルの民は目に見える王を擁立することが不可欠であると思うようになり、それを求めるようになります。そうして擁立されたのが最初の王サウルでした。そして次の王となったダビデがイスラエルの全部族を一つにまとめ、エルサレムをその拠点としました。その息子ソロモンは領土を最大限に拡張させましたが、多くの国の王妃を妻としたことから偶像の神を招き入れてしまい、その結果、国が二つに分裂する事態を招きました。強大な諸国(エジプト、アッシリア、バビロン)が存在する中で、イスラエルを守るために、それら強国を自らのご計画の実現のために用いることのできる方として、神自らが名乗った名前が「万軍の主」なのです。人が名づけたのではありません。
3.「バビロン」
●「バビロン」(「バ―ヴェル」בָּבֶל)は実際に多くの諸国を支配した強国でした。しかし同時に、それはイスラエルの神に反逆する勢力の象徴でもあります。その勢力はこの世の終わりまで続きます。「終わりの日」には、「獣」と呼ばれる反キリストによって、宗教・政治・経済を統一する「大バビロン」「大淫婦」と呼ばれる勢力が現れます。しかしその初めの「型」は、創世記10章に登場する二ムロデです。「二ムロデ」の語源「マーラド」(מָרַד)は、「神に背く、神に反逆する」という意味です。
※私たちクリスチャンも、いわばバビロンという神に逆らう「世」(コスモス=サタンの支配する地)に置かれ、ないしは、遣わされています。
●神の民はバビロンの捕囚となりました。エレミヤ書29章1節では「ネブカドネツァルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民」となっていますが、4, 5節では「わたしが引いて行かせたすべての捕囚の民」となっています。表面的には「ネブカドネツァル」がしたことに見えますが、その背後では「イスラエルの神、万軍の主」が支配しておられ、彼(ネブカドネツァル)は神のご計画のために用いられているに過ぎないのです。
●歴史において「神に背き、神に反逆する」勢力は、すべて神のご計画を実現させる道具に過ぎません。これが神の知恵なのです。パウロはこう述べています。
【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙2章7~8節
7 私たちは、奥義のうちにある、隠された神の知恵を語るのであって、その知恵は、神が私たちの栄光のために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
4.捕囚の民に対する神のご計画
●神の「計画」のことを「マハシャーヴァー」(מַחֲשָׁבָה)と言います。「神のご計画」は「マハシェヴォト・エローヒーム」(מַחְשְׁבוֹת אֱלֹהִים)です。その語源「ハーシャヴ」(חָשַׁב)は「神が思う、神が計画する」という意味です。その計画には、以下に見られるように多くのことが含まれています。
(1) 捕囚期間は三世代に及ぶこと
5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。
6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。●バビロン捕囚の期間がなぜ三世代なのかといえば、ここにそのことが記されているからです。次世代育成プロジェクトもこうしたところに由来するものでなければなりません。三世代となるためには、結婚して子を与えられる必要があります。主のご計画は「妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない」です。神の民が増えることは神のみこころなのです。メシア王国では「イスラエルの残りの者」がこのことを実現・成就することになります。この原則は、エックレーシアにおいても適用される必要があると信じます。
(2) バビロンに七十年が満ちるころ、エルサレムに帰らせること
10 まことに、【主】はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。
●「七十年」という期間は、いつからいつまでの期間を指しているのでしょうか。それには二つの解釈があります。第一の解釈は、ヨシヤ王の不慮の死(B.C.609)から、ペルシアの王キュロスによってバビロンが陥落し、捕囚となっていた者たちが解放された時(B.C.539)までです。バビロン捕囚はヨシヤの死とともに始まったと考えられているからです。つまりその背景として、サムエルによってイスラエルの王制の理念が終焉したからです。最終的に、エルサレムは第二次捕囚のB.C.586年に神殿が崩壊し、ユダの地は完全に荒れ廃れます。第二の解釈は、エルサレムの神殿がバビロンによって崩壊した時(B.C.586)から、捕囚から帰還した者たちによって再建された時(B.C.516)までです。いずれも、期間は「七十年」です。
●「七十」という数は七の倍数です。預言者ダニエルもこの「七十年」の終わりが近いことを知り、悔い改めの祈りをしている時、御使いのガブリエルがダニエルに神からの「一つのみことば」を伝えるために、すばやく飛んで来て、「あなたの民とあなたの聖なる都について、七十週が定められている。・・・知れ。悟れ。」と伝えます。「あなたの民とあなたの聖なる都」とは「神の民イスラエルと神殿」のことです。「七十週」は厳密には「七十週年」のことで、このことを「悟ること」が求められました(ダニエル9章)。この「七十週」については改めて学ぶ機会を設けたいと思います。「七年」も含めて、これはイスラエルに対する「主の燃える怒り」と関連があります。
(3) 平安を得るために、その町の平安を求め、その町のために主に祈ること
7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。
その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』●神は神の民にトーラーライフを三世代にわたって築かせるために、また彼らが「神の計画を成就させるために」、バビロンでの平和のために祈ることを指示されました。このことは神の計画において重要なことでした、それが重要であることを知るためには、エレミヤのことばに従ってバビロンの捕囚とならずに、エジプトをはじめ、近隣諸国に逃れた者たちに対する預言を見ると明らかです。
【新改訳2017】エレミヤ書29章16~19節
16 まことに、【主】はこう言われる。・・捕囚としてあなたがたとともに出て行かなかったあなたがたの同胞について、
17 万軍の【主】はこう言われる。『見よ。わたしは彼らの中に剣と飢饉と疫病を送り、彼らを悪くて食べられない腐ったいちじくのようにする。
18 わたしは剣と飢饉と疫病で彼らを追い、彼らを地のすべての王国にとっておののきのもととし、わたしが彼らを追い散らした先のすべての国々で、のろいと恐怖のもと、嘲りとそしりの的とする。
19 彼らがわたしのことばを聞かなかったからだ──【主】のことば──。わたしは彼らに、わたしのしもべである預言者たちを早くからたびたび遣わしたのに、あなたがたは聞かなかったのだ──【主】のことば。』
(4) 神の計画の目的は、「わざわいではなく平安を与えるものであり、将来と希望を与える」こと
11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──【主】のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
※「計画をよく知っている」を、岩波訳は「諸々の計画を、知悉しているからだ」と訳しています。「知悉(ちしつ)している」とは「精通していること、細かい点まで知っていること」を意味します。とするなら、神の視点からすべてを理解しなければなりません。●バビロンの捕囚となることは、わざわいではなく平安を与える神の計画であり、将来と希望を与えるためのものだという「慰めのメッセージ」が記されています。「将来」は「アハリート」(אַחֲרִית)、「希望」は「ティクヴァー」(תִּקְוָה)です。これが見えなければ、生きる力は湧いてきません。
(5) 捕囚の究極的目的は「神を見つける」こと
12 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。
13 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける(「マーツァー」מָצָא)。
14 わたしはあなたがたに見出される─主のことば─。わたしは、あなたがたを元どおりにする。・・・●ここにはバビロン捕囚させた神の究極的な目的が記されています。その目的とは、まず前提として悔い改め(「シューヴ」שׁוּב)があり、神に呼びかけ(「カーラー」קָרָא)、神に祈り(「パーラル」פָּלַל)、神を捜し求め(「バーカシュ」בָּקַשׁ)、心を尽くして神を求める(「ダーラシュ」דָּרַשׁ)ことによって、神を見つける(מָצָא)ことなのです。神は「見出される」ことを何よりも喜びとされる方です。「呼びかける」と訳された「カーラー」(קָרָא)一語でも、「神に出会う」という意味を含んでいます。にもかかわらず、多くの語彙があるのは、神との生きたかかわりを多元的に表すものだからです。「神を見つける」こと、それが神の捕囚の目的であり、「将来と希望を与える」ことだったのです。このことは、終わりの日に獣と呼ばれる反キリストによる「未曾有の苦難」(神の怒り)の目的でもあるのです。詩篇119篇は、その神の目的が果たされたことの生きた証しの産物です。
(6) 捕囚は、神のご計画の最終の「型」となること
14 ・・わたしは、あなたがたを元どおりにする。あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、あなたがたを集める(「カーヴァツ」קָבַץ)─主のことば─。わたしはあなたがたを、引いて行った先から元の場所へ帰らせる(「シューヴ」שׁוּב)。』
●この預言は、キュロスの命令によるバビロンからエルサレムへの帰還を越えている内容です。「集める」「帰らせる」は同じですが、「あなたがたを追い散らした先のあらゆる国々とあらゆる場所から、集める。帰らせる」ことが記されているからです。この預言が実現するのは、メシアの再臨直前で、そのときは全イスラエルに対して、全世界のあらゆる場所から「イスラエルの残りの者」を「集め、帰らせる」のです。その意味では、バビロンからの帰還がその「型」となっていると言えます。まさに、預言は実現される歴史なのです。
5. 神のご計画(思い)にある神の「トーヴ」(טוֹב)
(1) バビロン捕囚に至った真の原因
①「いのちの水の泉である神を捨てたこと」
②「水を溜めることのできない多くの水溜めを自分たちのために掘ったこと」
【新改訳2017】エレミヤ書2章13節
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉(「メコール・マイム・ハッイーム」מְקוֹר מַיִם חַיִּים)であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。【新改訳2017】エレミヤ書17章13節
「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます(「ボーシュ」בּוֹשׁ)。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」
●2章13節には神の民イスラエルの犯した二つの罪が語られています。一つの罪は、いのちの水の源泉である主を捨てたことです。そのことは第二の罪と必然的につながります。つまり、いのちの水の源泉である主を捨てることは、自分たちのために水溜めを掘ることになります。その水溜めは水を溜めることができないにもかかわらず、そうしてしまうのです。この罪は神に信頼せず、自分自身のために事を行う罪です。この二つの罪が、エレミヤ書全体を支配しています。そして「神を捨てる者は、みな恥を見る」のです。
●詩篇の中に「恥を見ないようにしてください」というフレーズが多く見られます(詩25:2,20/31:1,17など34回、エレミヤ書は35回)。そこには必ず「信頼します、拠り頼みます」ということばが付随しています。主を信頼するならば、決して「恥を見る」ことはないのです。「いのちの水の源泉を持つ」ということは、永遠におけるすべてを持っているのです。それゆえ、「恥を見ることがない」のです。神はこのことを見出させるために、神の民に捕囚という憂き目を通らせたのです。「捕囚となる、捕囚に連れて行かれる」の「ガーラー」(גָּלָה)だけでも、以下の意味を含んでいます。
①「耳が開かれる、目が開かれる、秘密が示される、覆いを取る、動かす、移す、捕囚に行く」
②「脱ぐ、現わす、啓示する、脱がされる、裸になる、露わにされる、明かされる」
③「捕囚に連れて行かれる、捕虜として捕らえ移される」
●さらに「ガーラー」(גָּלָה)の関連語を調べていくと、神による神の民育成プログラムが見えてきます。
①「ガーアル」(גָּאַל)は、神の贖い(=救い)を示す語彙です。
②「ガーラル」(גָּלַל) は、「転がす」「神にゆだねる」を示す語彙です。
③「ギール」(גִּיל)は、神に贖われた喜びを表す語彙です。
●「わざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」という「捕囚経験」が、神の民の霊の目と耳を開かせて神の奥義を悟らせるだけでなく、神の贖いの全貌を知る者となって爆発的な喜びにあずからせ、神へのゆるぎない信頼をもって生きしめることだと分かります。
(2) 哀歌における「トーヴ」
●エルサレムが崩壊したことを綴った歌に「哀歌」があります。「エレミヤ哀歌」とも言われます。「ああ」「悲しいことに」と訳される「エーハー」(אֵיכָה)で始まりますが、その歌の中に神の「トーヴ」(טוֹב)がたたみかけてられている箇所があります。最後に、琴線に触れる語彙とともにその箇所を味わって終わりたいと思います。
【新改訳2017】哀歌3章22~33, 39節
22 ・・・実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみ(「ヘセド」חֶֶסֶד)が尽きないからだ。
23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実(「エムーナー」אֱמוּנָה)は偉大です。
24 主こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
25 主はいつくしみ深い(טוֹב)。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
26 主の救いを静まって待ち望むのは良い(טוֹב)。
27 人が、若いときに、くびきを負うのは良い(טוֹב)。
28 それを負わされたなら、ひとり静まって座っていよ。
29 口を土のちりにつけよ。もしかすると希望(תִּקְוָה)があるかもしれない。
30 自分を打つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
31 主は、いつまでも見放してはおられない。
(原文=まことに私の主は、永遠に捨て置かれることは決してない)
32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵み(「ヘセド」חֶֶסֶד)によって、人をあわれまれる(「ラーハム」רָחַם)。
33 主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。
39 生きている人間は、なぜ不平を言い続けるのか。自分自身の罪のゆえにか。
三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。
2023.10.15
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