「新しい契約」
5. 「新しい契約」
【聖書箇所】エレミヤ書31章27~40節
ベレーシート
●今回は、エレミヤ書の31章31節にある「見よ、その時代が来る ―主のことば―。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」を味わいます。「新しい契約」を約めて言えば、「新約」となります。それが「新約聖書」の名称となり、それ以前を旧約聖書と言うようになり、旧新約両方で「聖書」(The Bible)と呼ばれています。これは、旧が劣ったもので新は優れたものという意味ではありません。旧約にある神の教え(トーラー)は聖なるものです。それは神が先行的な恩寵として与えたものです。しかしそれを正しく知り、それに従って生きるためには、キリストという天から来られた「第二の人」(最後のアダム)という鍵が不可欠です。イェシュアが語られた「後の者が先になり、先の者が後になります」(マタイ20:16) ということばが、ここでも当てはまります。旧新約の「二つで一つ」の聖書なのです。
1. 全イスラエルからメシアを信じる民が起こされる
27「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。」
●「見よ、その時代が来る」は、「見よ、その日が来る」とともに終末預言のフレーズ(単数か複数の違い)です。そのとき、「わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く」とあります。「イスラエルの家とユダの家」は「全イスラエル」を意味していますが、「人の種と家畜の種を蒔く」とはどういうことでしょうか。人も家畜も単に増えるという意味でしょうか。「種」(「ゼラ」זֶרַע)は「子孫」を意味し、「蒔く」(「ザーラ」זָרַע)は「実を結ぶ、生み出す」という意味ですが、ここは預言のことばです。「人の種」(זֶרַע אָדָם)は1/563、「家畜の種」(זֶרַע בְּהֵמָה)も1/190で、いずれもここだけです。この二つが組み合わさっていることにも注目すべきです。「人」はイスラエルの民を意味しますが、「家畜」(「ベヘーマー」בְּהֵמָה)はイスラエルにとってきわめて重要な生き物です。なぜなら、それらは人が神に近づくためになくてはならない神へのささげ物であり、キリストを啓示するものであったからです。しかも「種」(「ゼラ」זֶרַע)の男性単数形が、「女の子孫」(創3:15)とあるようにメシアの象徴だと考えることができるなら、「そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く」とは、「終わりの時代に、神は自ら、メシアを信じる民を全イスラエルから起こす」という預言のことばであると解釈します。そのことが29~30節にも引き続き語られているからです。
28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る ──主のことば──。
●神はエレミヤを通して、これまでユダの民に向かって、審判である「わざわい」―つまり「引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし」について語ってきました。しかし神は「今度は、彼らを建て直し(בָּנָה)、また植える(נָטַע)ために見張る(שָׁקַד)」と語っています(「今度は」は原文にはありません)。エレミヤが召し出されたときに「何を見ているのか」という主の問いかけに、エレミヤは「アーモンドの枝を見ています」と答えています。「アーモンドの枝」を「目覚めの枝」、ないしは「見張りの枝」とも訳せます。なぜなら「アーモンド」は「シャーケード」(שָׁקֵד)、「見張る」は「シャーカド」(שָׁקַד)で、へブル語の語根が同じだからです。主は「アーモンドの枝」を見ていたエレミヤに対して「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」とエレミヤを賞賛しています。以前の訳は「よく見たものだ」と訳していましたが、主と同じところに目を向けているという共感の意味で「よくぞ見たものだ」と言っているのです。つまりエレミヤと主の思いが一つになっていることを、主は喜んでいるのです。
●アーモンドは1~2月頃に他の木に先立って冬の眠りから醒めて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ「目覚めの木」とも呼ばれるのですが、これはまさに「よみがえりのいのちの初穂」を象徴しています。重要なことは、エレミヤも、主も、神の民の回復(よみがえり)のために、注意を払い、関心を持ち、目を覚まして見張っているのです。神の関心は民を滅ぼすことではなく、あくまでも回復させることにあるのです。それが「彼らを建て直し、また植えるために見張る」という主のことばに表されています。二つのことば、「建て直すため」と「植えるため」は重要です。
「建て直す」(「バーナー」בָּנָה)の初出箇所は創世記2章22節で、「神である【主】は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ」の「造り上げ」がそうです。「女」が「人から取ったあばら骨」で造られており、この「あばら骨」が「霊」を意味します。ここではその説明を省きますが、この「女」は生物学的な「女」ではなく、神の「妻であるイスラエル」、花婿キリストの「花嫁であるエックレーシア」を預言的に啓示しています。それらが人の霊で「造り上げられた」ように、その回復の実現に関心が向けられているのです。
●「植える」(「ナータ」נָטַע)の初出箇所は創世記2章8節で、「神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。」にある「設け」と訳されたのがそうです。つまり、人を置くために「エデンの園を設けた」ように、神はエルサレムにご自身の民を「植える」ことを計画しているということです。
29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。
30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。
●29~30節のことばが意味することは何でしょうか。このことばは、エゼキエル書18章にも記されています。「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」ということわざが、これからは語られなくなると主が誓って言われました(18:2~3)。十戒の中に、「わたしを憎む者には(「憎む」とは神を第一に「愛さないこと」を意味します)父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」とあるように、罪を犯した報いは四世代にまで及ぶということが記されています。ところが、エゼキエル(エレミヤ)の時代においては、父の咎に対する報いがその子孫に引き継がれることなく、あくまでも各自が自分の犯した罪の報いを負うことになると語られています。つまり、自分の父の咎のために死ぬようなことはないということです。その目的の主眼とするところは、主にある者たちの一人ひとりが悔い改めて(主に立ち返って)生きることにあります。このことばを、後の使徒パウロが解釈しています。つまり、生まれながらのイスラエル(ユダヤ人)と、イェシュアをメシアと信じる霊的なイスラエル(ユダヤ人)の区別がなされるようになるということを強調しているのです。以下の箇所がそうです。
①【新改訳2017】ローマ人への手紙2章28~29節
28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。②【新改訳2017】ローマ人への手紙9章6,8節
6・・ イスラエルから出た者がみな、イスラエルではないからです。
8 ・・肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。③【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙3章7節
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
●旧約において契約と約束が与えられているのはユダヤ人です。これまでもユダヤ人に対する嵐のような迫害が起こってきたことを私たちは知っています。サタンの化身である独裁者たちが、ユダヤ人たちを絶滅させようとし、歴史から消し去ろうと企ててきました。しかし、これまでユダヤ人に敵対した者のすべての企みは失敗に終わっています。なぜなら、神の御手による超自然的なわざが現されて救われているからです。これからもイスラエルに対する神の愛の奥義は、より明らかになるはずです。「彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です」(ローマ11:28)。それゆえ、神はご自分の民を退けられることは決してありません。ですから、今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいるとパウロは言っています(ローマ11:5、原文は単数)。その「残された者」(שְׁאֵרִית)のことを「イスラエルの残りの者」(集合名詞)と言うのです。それは「その日」に起こされてきます。これが、「『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない」ということわざが意味することなのです。その「イスラエルの残りの者」と結ぶ契約が「新しい契約」です。エックレーシアはすでにこの契約に与っていますが、それは、やがて「イスラエルの残りの者」に実現する「型」なのです。「イスラエル」はそれまで「子を産まない女」(イザヤ54:1)でしたが、獣と呼ばれる反キリストがもたらす未曾有の苦難の中で目が開かれて「イスラエルの残りの者」となり、イェシュアの伝えた「御国の福音」を宣べ伝えて、大勢の異邦人(「ゴーイム」גּוֹיִם)を産む「女」となるのです。
【新改訳2017】イザヤ書54章1節
「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女(神への不信のイスラエル)の子どもは、夫のある女(それ以前のイスラエル)の子どもよりも多いからだ。──主は言われる──
●「その日」には、イスラエルを覆っていたベールが取り除かれ、イェシュアこそ自分たちを救うメシアであったことを悟るようになる時が来るのです。ちなみに、「イスラエルの残りの者」は神によって「鷲の翼が二つ」与えられ、三年半の間、神によって備えられた荒野(=ボツラ)に隠され、そこで養われます(黙示12:6,14)。
2.「新しい契約」(「ベリート・ハダーシャー」בְּרִית הֲדָשָׁה)
31 見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
●「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない」とあります。その「エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約」とは何でしょうか。それは「シナイ契約」です。あるいは「モーセ契約」とも言います。神はそれを与えたあとで、「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と言われました (出19:5~6) 。また、神の命令は、「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。」(エレミヤ7:23)でした。
●このシナイ契約に神の律法があり、有名な道徳律法である「十戒」があります。それは現在でも律法や倫理規範として適用されるべき聖なるものです。律法は神のご性質やみこころが聖いものであり、純粋かつ正しいものであることを語っています。そして神は、それをことごとく守るようにと命じられました。イスラエルの民は合意のもとで、「私たちは主の言われたことを、すべて行います」と言って契約を結びます。ところが、神の律法、神の戒めの水準はあまりにも高すぎて、誰ひとりとして人間の力ではその水準に達することができないものであったのです。だとしたら、なにゆえに神はそのような契約をイスラエルの民と結ばれたのでしょうか。
●それは、人が自分の力で守ろうとしても、徒労に終わることを気づかせるためでした。自分の力を信じて聖くなろうとしても、それは幻想に終わることを教えるためだったのです。自分の力では罪の力から救われないという事実に真正面から向き合わせることで、イスラエルの人々に「新しい契約」を正しく理解させるためでした。この「新しい契約」を結ぶ仲介者として、神は御子である「イェシュア」(=ご自分の民をその罪から救う)を遣わし、「インマヌエル」(=神が私たちとともにおられる)を実現しようとされたのです。この二つの名は、神の民が「新しい契約」を結ぶための神の手立てと、その契約の目的を見事に表しています。
●ところが、ユダヤ教の指導者たちはこのイェシュアを受け入れず、十字架にかけて殺してしまいます。それも神にとっては想定内のことでした。そのことを通して、イェシュアは人としての務め、すなわち「最初のアダム」を終わらせるという務めを「完了した」(ヨハネ19:30)からです。そして三日目に死からよみがえり、「いのちを与える霊」となって人の霊を回復し、そこに内住することで、人は主が約束された「新しい契約」に生きるようになったのです。
●イスラエルの後に登場するエックレーシアが「先」にこの恵みを受けています。先にいるイスラエルが「後」にはなっていますが、神の基軸はあくまでもイスラエルです。「これらの日の後に」、「イスラエルの家(=「イスラエルの残りの者」)と結ぶ「新しい契約」によって、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ということが実現するのですが、その内容について目を留めたいと思います。
(1) わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す
33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
●エレミヤが預言した「新しい契約」の「新しさ」とは、契約の内容の新しさではなく、結ばれ方の新しさです。モーセを通して結ばれた「旧い契約」は二枚の石の板に神の律法が書き記されました。つまり、石に書かれた文字を通して結ばれた契約でした。しかしエレミヤが預言した「新しい契約」は石の板ではなく、人の心の中に記される契約です。旧い契約では神の意志が人の心の外に置かれていました。しかし新しい契約では神の意志が人の心の中に書き記されます。神の意志である律法そのものは変わりませんが、律法を人の心の中に書き込むことによって、律法の本来の機能を回復させようというのです。したがって「新しい契約」の「新しさ」とは、旧いものを破棄するのではなく、むしろそれを完成させるものなのです。
●「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中(「ケレヴ」קֶרֶב、「ど真ん中」の意」)に置き(「ナータン」נָתַן、預言的完了形)」ということは重要です。なぜなら、「わたしの律法を彼らのただ中に置き」とは、律法を人の中に、つまり人の最も内にある霊の中に置くことで、それが心に書き記されるからです。「律法を人の霊の中に置く」ことは、全く新しい神のアプローチでした。外からの義務や強制によるものではなく、内からの霊の働き、つまり人の霊の促しによって神の律法(トーラー/みおしえ)を守る力が与えられ、従おうとする力がたましいの意志の部分に働きかけるからです。つまり、霊で聞いたことをたましいに落とし込むことで「腑に落ちる」という経験を意味します。
●さらには、このキリストの福音を正しく理解するための新しい霊(聖霊)が与えられることによって、はじめて神の律法が私たちのうちに書き記され、その結果として、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことが実現します。
(2) すべての者が主を知るようになる
34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。
●同様に、内住する聖霊と人の霊によって、「主を知る」ようになるのです。これは人のたましいの「知性」の部分が、霊によって主ご自身や主のことばを悟るようになるからです。「身分の低い者から高い者まで」とあります。これはメリスモというヘブル的修辞法で、「すべての者」を意味します。その日には、すべての者が例外なく直接的に主を知るようになります。御国には教師も学校もありません。すべてが聖霊によって主を知るようになるからです。「主を知るようになる」のは、聖霊による働きです。イザヤ11章1~2節はメシア預言が記されています。イェシュアは聖霊によって生まれ、その生涯は霊によって歩んでいました。
【新改訳2017】イザヤ書11章1~2節
1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
2 その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。
●「エッサイの根株」とは、エッサイから出る子孫を意味します。この預言は、エッサイの息子であるダビデのことを指しているのではありません。ここではエッサイから出る子孫を「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)と言い、後の「ナザレ」を意味するようになります。ですから「ナザレ人」とは「ダビデの若枝」のことであり、イェシュア・メシアを啓示しています。「新芽」(「ホーテル」חֹטֶר)も「若枝」(「ネーツェル」נֵצֶר)もいずれも単数名詞であり、同義で、メシアを啓示しています。これらの語彙は、ユダ王国が一旦滅ぼされても根株は残されており、そこからメシアの象徴である「新芽」(ダビデ)、「若枝」(イェシュア)が生え出て来ることを預言しているのです。そしてその後が重要なのですが、メシア・イェシュアの上には「主の霊がとどまる」と預言されています。
●「とどまる」と訳された動詞は「ナーハー」(נָחָה)で、本来は「導く、指導する」という意味です。つまり、主の霊がイェシュアを導かれるということです。事実、イェシュアがバプテスマを受けられた時、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのを、イェシュア自身がご覧になっています。これはイザヤ書11章2節にある預言の成就です。イェシュアは公生涯において御国の福音の宣教を開始される前に、悪魔の試みを受けるために御霊に導かれて荒野に上って行かれました。この御霊の助けにより、イェシュアは神のことばを自由自在に語られたのです。「とどまる」とは、密接なかかわりを意味します。「神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである」(ヨハネ3:34)。イェシュアは単独ではその働きをなし得ないのです。いつも御霊が「ナーハー」しておられたのです。イザヤ11章2節にはメシアを導かれる「七つの霊」が以下のように記述されています。
①「主の霊」・・・主に属する霊であり、メシアの人間性において多岐に働いている。
②「知恵の霊」・・物事の本質と目的を見抜き、神のみこころを達成する正しい方法と決定する能力。
③「悟りの霊」・・さまざまな状況や関係を神の視点から洞察する能力。
④「思慮の霊」・・正しい決定を下す能力。
⑤「力の霊」・・・自分に与えられた使命を恐れることなく実行する能力。
⑥「主を恐れる霊」・・神に対するゆるぎない信頼への資質。
⑦「知識の霊」・・神を愛し、神を喜びとし、神を楽しむことのできる資質。
●イェシュアがそうであったように、主にあるすべての者も「七つの霊」によって導かれるのです。なぜなら、文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格が与えられているからです。
(3) 罪は完全に赦される
34 ・・わたしが彼らの不義(=咎)を赦し、もはや(=二度と)彼らの罪を思い起こさないからだ。
●キリストの福音は律法違反によるのろいという負債を一切免除して、神の方から近づいてくださるという恵みを意味しています。それゆえ私たちはなんら責められることなく、なんら咎められることなく、ありのままに、臆することなく、ためらうことなく、恥じらうことなく、大胆に、神の前に近づくことができるのです。この神の赦しは「もはや(二度と)思い出さない(記憶しない)」という驚くべき恵みです。この事実は、「恐れ」ではなく、神への「畏れ」をもたらすはずです。その畏れは人のたましいに揺るぎない「平安」と「喜び」と「感謝」の思いをもたらし、御霊による新たな創造力を生み出させる原動力となるに違いありません。
(4) 神の約束は不変です
35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。
36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去る(=離れる)ことがあるなら──【主】のことば── イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」
37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」
●35~37節は、神が定めている天体の法則が誰によっても変えられないと同様に、イスラエルに対する神のご計画は誰によっても変えられないことを語っています。
(5) エルサレムは再建される
38 「見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。
39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。
40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」
●エレミヤ書31章の最後の「見よ、その時代が来る」では、反キリストによって破壊されたエルサレムが、主のために建て直されます。特に40節には、北の「ハナンエル(=神のあわれみの意)のやぐら」から始まって、東の馬の門の隅までの畑が「みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない」とあります。エルサレムの都全体が、主の聖なるもの(「コーデシュ・ラドナイ」קֹדֶשׁ לַיהוה)として回復されるのです。神の住まいであるエルサルムも、「イスラエルの残りの者」も「主の聖なるもの」なのです。それは主のために特別に選ばれ、取り分けられ、永遠に区別されたものなのです。
大祭司のターバンの「純金のプレート」に刻まれている文字(קֹדֶשׁ לַיהוה)
三一の神の霊と私たちの霊はともにあります。
2023.11.26
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