****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

「目を覚ましていなさい」(十人の娘のたとえ)


106.「目を覚ましていなさい」(十人の娘のたとえ)(オリーブ山の説教④)

【聖書箇所】マタイの福音書25章1~13節

ベレーシート

●前回、「一人は取られ、一人は残される」という携挙について学びました。「取られる」とは携挙を意味します。同じ主を信じている者であっても、「残される」者がいることを教えています。ここで重要な点は、「取られる」のはクリスチャンで、「残される」のはノンクリスチャンだということではないということです。クリスチャンでありながら、「一人は取られ、一人は残される」のだということです。「残された者」はより厳しい状況(大患難)の中を通らなければならなくなります。それは救いの問題ではなく、褒賞の問題です。つまり、「目を覚ましている賢い娘」であるかどうか、主に褒められる「忠実なしもべ」となるかどうかの問題です。

●前回でも学んだように、「携挙」されるのは教会だけではありません。ヨハネの黙示録にはいろいろな携挙があることを見ました。「二人の証人」(11:12)、「神の印を押された十四万四千人(ユダヤ人)」(7:4~8, 14:1~5)、「大勢の群衆(異邦人)」(7:9~17)、「女が産んだ男の子」(12:5)、「獣と・・その名を示す数字に打ち勝った人々」(15:2)が天に引き上げられて、御座の前に立っているのをヨハネは見ているのです。彼らがいつ天に引き上げられ、天にある御座の前に立つのかは記されていませんが、彼らも携挙されています。ですから、「目を覚ましていなさい」とイェシュアは警告しています。このことを、再度、語っているのが、マタイ25章1~13節の「十人の娘のたとえ」です。なぜそのことが分かるのかと言えば、24章42節と25章13節が全く同じではありませんが、以下のように似ているからです。

【新改訳2017】マタイの福音書 24章42節
ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから
【新改訳2017】マタイの福音書 25章13節
ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから

●今回のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書25章1~13節
1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意が
できていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。

画像の説明

1. 十人の娘とは誰なのか

●「十人の娘」の「娘」は「パルセノス」(παρθένος)で、他に「乙女、処女」という訳もあります。つまり、結婚していない未婚の娘です。これがだれを意味するのかということについて、以下のように四つの解釈があります。その前に、なぜ花嫁と言わずに「娘」としているのでしょうか。これについては二つの解釈があります。その一つの解釈は「教会とは異なる存在であって、花嫁の友人である」とするものです。もう一つの解釈は「花嫁とは集合名詞、娘は個別の名詞であって教会を意味する」というものです。

(1) 教会だとする解釈

●25章の娘はイスラエルではなく、教会だとする解釈です。つまり、24章の「一人は取られ、一人は残される」とは携挙のときに生きている者のことで、25章の十人の娘とは、携挙のときにすでに死んでいた者たちがよみがえることだと解釈しています。そのことで、Ⅰテサロニケ4章17節のみことばが成就することが説明できるとしています。

【新改訳2017】Ⅰテサロニケ人への手紙4章16~17節
16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

●マタイ25章で「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった」とあることから、これを(病気などで)死んでしまった信者だと解釈します。なぜなら、聖書で「眠る」とは「死ぬ」ことと同義だからです(使9:37, Ⅰコリ11:30, Ⅰテサ4:13~16, ヨハネ11:11~13)。つまり、彼女たちはみな花婿が来る前に死んでしまったクリスチャンたちを意味しているという解釈です。この場合、24章の「一人は取られ、一人は残される」という人たちの方は地上で生きている人たちという解釈をします。しかも、「賢い娘と愚かな娘」はいずれも信者であるという立場で、24章の「残される者」も25章の「婚礼の祝宴」に入れなかった娘も救われる可能性があると考えています。説得力のある解釈ですが、この解釈のただ一つの難点は、「十人の娘」の「賢い娘たち」が「婚礼(結婚式)」そのものではなく、「婚礼の祝宴」に入っているということです。

(2) イスラエルだとする解釈

●次の解釈は、十人の娘とは教会ではなく、イスラエル(ユダヤ人)だという解釈です。その理由は花嫁である教会は一人だけで、十人の娘とは花嫁の付き添い、あるいは世話役だと考えるからです。しかも、「賢い娘たち」とは十四万四千人の信者で、「愚かな娘たち」は不信者だという見方です。この解釈の難点は、「賢い娘たちと愚かな娘たち」がいずれも「ともしび」を持っているという点です。「ともしび」は神のことばの象徴です(詩篇18:28, 119:105)。不信者は「ともしび」を持っていないはずです。

(3) キリストの地上再臨前の患難期における異邦人のこと

●この解釈では、賢い娘たちは大勢の異邦人の信者のことで、愚かな娘たちは異邦人の不信者としています。
上記と同様の理由で、不信者は「ともしび」を持つはずがありません。

(4) キリストの地上再臨前の患難期におけるイスラエル、および異邦人の信者のこと 

●油を十分に用意していた賢い娘たちは「婚礼の祝宴」に入ることができたという話です。油を用意していなかった愚かな娘たちはそこへ入ることができなかったのです。しかし、「賢い娘たちも愚かな娘たち」も信者であるという解釈です。キリストの地上再臨前の患難期において、「賢い娘たち」は携挙されたイスラエル人と異邦人からなり、「愚かな娘たち」は携挙されずに地上に残されたイスラエル人と異邦人で、厳しいけれども救われる可能性があるとする解釈です。これが私の解釈です。

●教会が携挙された後の患難時代でも、携挙されるイスラエル(十四万四千人)や多くの異邦人たちがいることは前回のメッセージで学びました。彼らこそ「賢い娘たち」なのです。そのことを決定づけるのは、たとえ話の中にある「婚礼の祝宴」ということばです。

●「婚礼の祝宴」の原語は「ガモス」の複数形「ガモイ」(γάμοί)です。単数の「ガモス」(γάμος)は「婚礼、婚姻、結婚式」を意味しますが、複数形で用いられると「婚礼の祝宴」と訳されるのです。ヨハネの黙示録19章7節に、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから」とあります。ここでの「婚礼」とは「ガモス」(γάμος)です。花婿が空中まで迎えに来て、花嫁である教会が携挙されるその時、結婚式が行われます。この時がいつかはだれも知らされていません。そのとき、生きている者は変えられ、すでに死んでいた者はよみがえります(Ⅰテサ4:16~17, Ⅰコリント15:52)。これは奥義です。この婚礼の後に「婚宴・祝宴」があるのですが、このときがいつかもだれにも分からないのです。

●黙示録19章9節には「御使いは私に、『子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい』と言い、また『これらは神の真実なことばである』と言った」とあります。ここの「婚宴」には「ト・デイプノン・トゥー・ガムー」(τὸ δεῖπνον τοῦ γάμου)となっています。「テイプノン」(δεῖπνον)の意味は「祝宴・宴会」です。それは「ガモス」の複数形「ガモイ」(γάμοί)と同義です。このときの「婚宴」に招かれている者たちとは、教会が携挙された後に、つまり、七年間の患難時代に救われる144,000人のイスラエル人たちであり、数多くの異邦人たちであると考えられます。その彼らを「娘・乙女・処女」と訳される「パルセノス」(παρθένος)で表しています。彼らも携挙されますが、花嫁の友人という立場なのです。携挙は教会の専売特許ではなく、教会が携挙された後、大患難時代(最後の三年半)の中でも携挙される(携え上げられる)者たちがいるのです。

●さて、婚礼と婚宴(=婚礼の祝宴)は異なるものです。婚宴は婚礼の後に行われるものです。花婿と花嫁たちの婚礼は空中で行われますが、婚宴がどこで行われるのかは記されていません。しかし、この婚宴に招かれる者たちが、マタイ25章にある「十人の娘」の中の「賢い五人の娘たち」だとすれば、それは携挙されて天において行われると考えられます。その話が今回のたとえで語られていますが、そのことがこのたとえの中心なのではありません。たとえの中心は、あくまでも「目を覚ましていなさい」ということなのです。

2. 「目を覚ましている」ことは、「聖霊に満たされる」こと

●前回は、この「目を覚ましていなさい」の真意を理解するために、預言者エレミヤが何を見ていたかを取り上げました。「目を覚ます」というヘブル語の「シャーカド」(שָׁקַד)から、主と同じところに目を向けているという共観、主と思いが一つになっているという共感の意味が導かれることを学びました。しかし、今回のマタイ25章では、「目を覚ます」ということが、「聖霊に満たされる」ことだとしています。「賢い娘」たちが自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れていたことがそのことを示しています。

●逆に、「愚かな娘」たちは、「油を用意していなかった者たち」です。彼らが不信者だと断定できるのかと言えば、何とも言えません。花婿が迎えに来た時に「ともしびを持っていた」ことは確かですが、聖霊がなかったのです。これは以下のことと似ています。

【新改訳2017】マタイの福音書7章21~23節
21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

●22節の「その日」とは、神による最終的な審判の日を意味しています。そして、「主よ、主よ。」(「キュリエ、キュリエ」Κύριε κύριε)と言っていますが、マタイ25章11節の「愚かな娘たち」が言う「ご主人様、ご主人様、開けてください」の「ご主人様、ご主人様」が、同じく「キュリエ、キュリエ」(Κύριε κύριε)なのです。そして同様に、「主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』」(マタイ25:12)と。単に、名を呼ぶだけでは意味がないのです。ここでも「五人は取られ、五人は残される」という原則は変わりません。しかし、これは決定的な最終のさばきではなく、このようなことにならないように、悔い改めを迫るイェシュアの配慮のことばなのです。

●ここのたとえで最も重要なことは、「目を覚ましている」ということが、「聖霊に満たされている」ということです。これはどのように考えるべきでしょうか。「聖霊に満たされた人」が使徒の働きの中に登場しています。初代教会の最初の殉教者となったステパノがそうでした。彼は使徒ではありませんでしたが、知恵と聖霊に満たされていました。しかし今回は、ここではステパノではなく、長い間、「イスラエルが慰められることを待ち望んでいた人・老シメオン」を取り上げます。

3. 聖霊に満たされた人、老シメオン

●老シメオンは預言者であり、彼は幼子イェシュアに初めて出会ったときに、「ヌンク・ディミティス」という賛美をしています。

【新改訳2017】ルカの福音書2章21~35節
21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
23 それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
24 また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

●29~32節が賛美であり、34~35節が預言です。きよめの期間が満ちて、エルサレムの神殿に幼子を献げに来たイェシュアの両親と、聖霊に導かれて宮に入った老シメオンとが出会ったことが記されています。イェシュアの両親からしてみれば、律法の規定に従ってエルサレムへ来たわけですが、その時がいつかわからずにじっと待たされていた一人の人物がいたのです。それが老シメオンでした。

●老シメオンは祭司でもなく、律法学者でもありませんでしたが、長い間、「イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた」人でした。「聖霊が彼の上におられた」とあり、彼は「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられて」いました。そして、彼が「御霊に導かれて」宮に入った時、幼子イェシュアを抱いた両親と出会ったのです。この出会いがまさに聖霊による不思議な神のご計画であったことは、シメオンが聖霊によって神を賛美した歌(ヌンク・ディミティス)の中に現わされています。聖霊がこのシメオンにしっかりと寄り添っておられたことに注目したいと思います。

(1) 「聖霊が彼の上におられた」

●シメオンの「上に」と訳されていますが、「エピ」(έπί)という前置詞は、接近的な位置を表わすことばでもあるので、「傍らに」とも訳すことができます。新共同訳では「聖霊が彼にとどまっていた」と訳し、現代訳は「聖霊に満たされていた」と訳しています。

(2) 「聖霊によって告げられていた」

●「告げられていた」は「クレーマティゾー」(χρηματίζω)の分詞、現在完了受動態です。「クレーマティゾー」は、元来、「商取引をする」という意味です。そこから「陳情に対して応答する」という意味が派生します。つまり、ここではシメオンが神に対してイスラエルの慰めを待ち望みながら、神のみこころとみむねを求めて、神と「ある種の個人的な取引をしていた」ことを連想させます。その取引の中で、神はシメオンに応えて、「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と告げていたということです。そのことをルカはシメオンが「聖霊によって告げられていた」と記しています。神とシメオンとのかかわりの中に、自分の生涯の目的や生きる意味を真剣に神に問いかけて生きてきたシメオンの姿を見ることができるように思います。神はそうしたシメオンに対して聖霊を通して応えてくださったのです。「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない」と。これは、神のご計画の全貌を知るまでは決して死なないというお告げとも言えます。

(3)「御霊に導かれて宮に入る」

●「御霊に導かれて」と訳された「エン・トゥー・プニューマティ」(ἐν τῷ πνεύματι)は、新改訳改訂第三版では「御霊に感じて」、新共同訳では「霊に導かれて」、エマオ訳では「御霊に捕えられて」、岩波訳では「霊に駆られて」、柳生訳「御霊に導かれるままに」、回復訳「霊にあって」などと訳されています。ギリシア語の前置詞の「エン」(ἐν)がいかに豊かな意味合いを持っているかに驚かされます。

(4)「私の目があなたの御救いを見た」

●聖霊がシメオンの上におられ、聖霊に満たされていたシメオンが幼子イエスを腕に抱き、聖霊に導かれて神を賛美したその賛歌は、両親を「驚かす」ものがありました(2:33)。

29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。
31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

●この賛歌はそれを聞いたユダヤ人にとっては想定外であったはずです。なぜなら、「あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を」と賛美したからです。驚くべきことに。シメオンは幼子イェシュアのうちに神の救いの全貌を見たのです。もちろん肉眼ではなく、霊によって見たのです。またその全貌を一瞬にして悟ったのです。驚くべきことは、シメオンは自分の目で神の救いの全貌を見ることができたので、安心して、死ぬことができると語っていることです。ここに聖霊によって満たされるすごさがあります。シメオンが味わった最高度の幸いを、私たちも経験できると信じます。これぞ「目を覚ましている」ことの力なのです。同じ聖霊が私たちの中にもおられます。

●シメオンの賛歌は私たちに壮大な神の救いの計画の枠組みを提供しています。神の御救いの計画を知ることは、私たちを確かな安らかな生涯へと導くことでしょう。それゆえに、老シメオンのように聖霊によって、神の御救いの全貌を垣間見させていただきたいと思います。最後に、共に、パウロの祈りを用いて祈りたいと思います。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17節
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、
神を知るための知恵と啓示の御霊を、
あなたがたに与えてくださいますように。


2021.6.20
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