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「見よ。わたしはすぐに来る」-「マラナ・タ」

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16. 「見よ。わたしはすぐに来る」-「マラナ・タ」

不安定な緊張感をもって、主の再臨を待ち望む

ベレーシート

  • 「終末の教え」の第16回目、シリーズとしては最終回です。キリストにある者に与えられている希望は祝福に満ちたものです。前回も、その前々回も「新しい天と新しい地」-「聖なる都」「新しいエルサレム」について学びました。それは、神と人とが永遠に住まうところの至聖所です。そこへ向かっていく最後のステージのメイン・ポイントは「キリストの再臨」です。そして、それは主を信じる者にとっての祝福された望みなのです。
  • 「キリストの再臨」はキリスト教信仰においてきわめて重要です。それゆえ、サタンは必死になってこの教えを混乱させ、また、脱線させようとしてきました。再臨信仰は救いの完成の信仰です。もしこの信仰が崩されれば、創造の信仰も、十字架と復活の信仰もすべてが宙に浮いてしまいます。したがって、キリストの再臨に対する正しい理解は是非とも必要です。
  • 内村鑑三はこう述べています。「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なしに十字架は意味をなさない。したがって、我々クリスチャンは再臨の信仰の立場に立って聖書を通観する必要がある」と。
  • 初代教会は、そうした意味ではまさに再臨の希望(=携挙待望)に満ち溢れる教会でした。彼らが世に勝ったのは、目に見えるものに心を奪われることなく、目に見えないものにこそ目を留めたからです。キリストの再臨によってもたらされるこの世の終わり、救いの究極的完成の時を最も確かな出来事として信じながら、困難な時代を生き抜いたのです。このことは現代に生きる私たちにとっても真理なのです。
  • 「終末の教え」の最終回は、ヨハネの黙示録にある「わたしはすぐに来る」とイェシュアの再臨の約束のフレーズを取り上げながら、緊張感を持って、主の再臨を待ち望むことの大切さに心に留めたいと願っています。

1. 「わたしは、すぐに来る」という再臨の約束のフレーズ

  • ヨハネの黙示録には、「わたしは、すぐに来る」という表現が4回あります。

    (1)「わたしは、すぐに来る。」(黙示録3:11)  
    (2)「見よ。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:7, 12)
    (3) 「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

  • 「わたしはすぐに来る」という表現はヨハネの黙示録にしかありません。これと似た表現として、黙示録1章3節に「時が近づいている」という表現があります。使徒パウロはピリピに宛てた手紙の中で「主は近いのです」(4:5)という表現で主の再臨を示しています。「すぐに」「近づいている」「近い」、これらはみな時間的なニュアンスとして使われています。
  • 上記の箇所では表現が微妙に異なっていますが、いずれも共通しているのは、「わたしは、すぐに来る」(途中に句読点のない「わたしはすぐに来る」も原文は同じ)という部分です。「すぐに」とは、本来、予め定められた時に、遅れることなく来るという意味です。しかしながら、私たちはその定められた時を知らされておりません。したがって、常に備えて待っていなければなりません。主にあっては、千年は一日のようでもあるわけですから、二千年の歳月も「すぐに」と呼ぶことがあってもおかしくありません。しかし、人間にとって「千年」が一日という感覚はありませんが、私たちが実際に永遠の御国に住むことになれば、そうした感覚が与えられるはずです。
  • 重要なことは「わたしが来る」という事実です。つまり、キリストが再び来られるという確かな事実です。前にも、キリストの再臨は二度あるということを学びました。そのひとつは「キリストの空中再臨」、そしてもうひとつは「キリストの地上再臨」です。私たちクリスチャンにとってきわめて重要なのは、前者の「空中再臨」です。後者の「地上再臨」の時期は、反キリストがエルサレムの神殿(おそらく第三神殿)において、自ら神宣言をしてから三年半後です。「反キリストが自ら神宣言」をしたときから、神が天と地を創造された時以来、いまだかつてなかったような苦難(大患難)が襲うことが預言されています。もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、だれひとりとして救われる者はいないと言われるような大患難です。それは3年半の間及びます。
  • 大患難の目的は、反キリストをメシアと信じるユダヤ人に対して注がれる神の怒りであり、同時に、神の民イスラエルを再び神の民として再生するための試練の時です。そのような時に、神に選ばれた14万4千人のイスラエルの民はその額に神のしるしをつけられることによって守られます(黙示録7章)。その大患難の終わり頃に、「恵みと哀願の霊」が注がれて、イスラエルは民族的に悔い改め、イェシュアをメシアと信じ、「来てください」と「主の御名を呼び求める」ようになります。そこでキリストが地上再臨されるのです。そのときキリストがすでに携挙されて天でハネムーンを過ごした花嫁と共に地上に来て、結婚披露宴がなされると同時に、世界中からイスラエルの民がエルサレムに集められて、イェシュアをメシアとする地上の王国、すなわち「千年王国」が実現します。

画像の説明

  • キリストの地上再臨の時期は、キリストの空中再臨から、およそいつのことかおのずと分かりますが、「空中再臨」の場合には、それがいつであるのかはだれも分からず、しかも、知らされてはいないのです。ここに不安定な緊張感があります。必ず、来ることが約束されてはいても、その時がいつなのかわかりません。ですから、「目を覚ましている」必要があるのです。キリストの花嫁はこの不安定な緊張感に耐えなければなりません。しばしば、この不安定な緊張関係に耐えることができずに、いついつの時、何年何月頃にキリストが再臨するという預言をする者が現われたりします。しかし、再臨の時を確定するような預言は決して本当ではありません。それは偽りの預言です。なぜなら、イェシュアはそのときはだれも知らないと語っているからです。イェシュア自身も知らされていないのです。これを定めているのは御父のみです。今は、花嫁を迎えるための住まいを花婿は整えていますが、花嫁を迎えるためのゴー・サインを出すのは御父なのです。ですから、御父にしかその時は分かりません。したがって、花嫁である私たちは花婿なるキリストが再び迎えに来られるのを、目を覚ましてじっと待っていなければならないのです。当然のことながら、そこには不安定な緊張があり、ある種の忍耐が求められます。そのような緊張と忍耐をもって主の来臨を待ち望んでいた人々は意外と少ないことに気づかされます。聖書におけるそのような模範的な人物、また、模範的な教会を紹介したいと思います。

2. 不安定な緊張をもって、主の来臨を待ち望む信仰

(1) 老シメオンと老アンナ

  • キリストの初臨のときにも、「イスラエルが慰められる時」を信じて、ひたすらメシアの到来を待ち望んでいた者として、ルカは「老シメオン」と「老女預言者アンナ」の二人を紹介しています。彼らは神の約束をひたすら信じて、いわば忍耐と緊張をもって人生を生き抜いて来た者でした。二人とも老人であったところに、真の信仰を見せられます。なんと「アンナ」は84歳であったことが記述されています。信仰を持つとは、漠然としたことではなく、主の来臨を信じながら、忍耐をもって生き続けることと言えます。その意味では、シメオンもアンナもすばらしい信仰の模範者だったと言えます。
  • シメオンは幼子イェシュアを腕に抱いたとき、神をほめたたえながら、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの救いを見たからです。」と言っています。シメオンの生涯がいかなるものであったかをきわめて簡潔に記している表現です。「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて」として、アンナのことも紹介されています。

(2) フィラデルフィアの教会

  • 黙示録2~3章に記されているアジアの七つの教会の中で、フィラデルフィア教会はスミルナの教会と並んで、主から非難されていない教会です。そのフィラデルフィア教会に対して、主は次のように書き送っています。

    【新改訳改訂第3版】黙示録3章10~12節
    10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
    11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
    12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

  • 「わたしの忍耐について言ったことばを守った」とはどういう意味でしょうか。この手紙が書かれたのは、キリストが復活・昇天してから少なくとも60年から70年が経過しています。ここで「わたしの忍耐について語ったことば」とは、キリストが再び来られるという再臨の教えを守ったことを意味しています。フィラデルフィアの教会は、主の再臨を信じて、緊張感を持って待ち望んでいた模範的な教会だからです。
  • 「わたしは、すぐに来る」、原文は「エルコマイ タクー」、「エルコマイ」(ἔρχομαι)は「わたしは来る」、「タキュス」(ταχύς)は「すぐに、速やかに」という意味。しかしここでの「すぐに」ということばは、私たちが考える「早急に」という意味ではなく、むしろ、「突然に」「予期しない時に」「思いがけない時に」という意味に理解する必要があります。というのは、イェシュア自身がその教えの中で、しばしば、予告なしに突然、主人が帰ってくる話をされているからです。
  • たとえば、ルカの12章35~40節の箇所がそうです。その箇所を読んでみましょう。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書12章35~40節
35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。
36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。
37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。
39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

  • マタイの福音書24章にも同じような話があります。ポイントはルカと同じで、「人の子は、思いがけない時に来る」ということです。それゆえ、「目を覚まして」「用心して」いることが教えられています。つまり、緊張感をもって待っていることを意味しているのです。これはとても不安定な緊張感を強いられる待ち方です。
  • 不安定な緊張とは、キリストが再び来られるが、それがいつであるか分からないという緊張です。気持ちを張りつめているためには忍耐がいります。この緊張感に耐えられずに、キリストはあと何年、何月何日に来られると予告すれば、人は関心を持って耳を傾けてくれます。面白く感じる人も多くいて、大いに盛り上がります。しかしこれは主が教えた正しい待ち方ではありません。本当の待ち方は、主人がいつ帰って来るか分からないところにあります。聖書では、「真夜中」「夜明け頃」と相場は決まっているのですが、常識的には、一番、目を覚ましていられない時間帯です。
  • ひとたび、キリストが空中再臨されたならば、あとは一気に事が運んでいきます。だれも動き出した神のタイムスケジュールを止めることはできません。反キリストが登場し、七年間の患難時代を通過して、その患難が頂点に達した頃に、イスラエルの民が悔い改め、その後でキリストが地上再臨します。そして千年王国が実現します。その千年が過ぎると、今度は、新しい天と新しい地が造られ、聖なる都、新しいエルサレムが天から降りて来て、そこに私たちは永遠に住むことになります。キリストの空中再臨がいつかは分からないのですが、その時がひとたび訪れたならば、目を覚ましている必要もなく、事は明確な神のタイムスケジュールの中でどんどん進んでいくのです。
  • 最も不安定、かつ最も緊張感を強いられるのは、キリストの空中再臨までのことです。キリストは再びいつ来てもおかしくありません。

3. 目を覚まして待っていることへの報い

  • もう一度、黙示録3章のフィラデルフィアの教会に目を向けましょう。

    3:10 「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

  • ここには、主の再臨の教え(それは緊張と忍耐をもたらします)を守ったことによる主の約束があります。それは、「地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守る」ということです。「全世界に来ようとしている試練の時」とは、反キリストによる患難時代のことを意味します。それは全世界におよぶことになる未曾有の苦難です。その「試練の時には、あなたを守る」という約束です。
  • ちなみに、キリストの空中再臨による携挙については、今日、三つの立場(見解)があります。どの立場でも「携挙」それ自体は認めているのですが、その時期についての見解が分かれているのです。

    (1) 前患難説・・患難期がはじまる直前に携挙が起こる。
    (2) 中患難説・・患難期の中間(後半の大患難時代の前)で携挙が起こる。
    (3) 後患難説・・携挙と再臨が大患難期の後にほとんど同時に起こる。

画像の説明
  • この10節にある「試練の時」という部分を、「試練の時から」救い出すという意味に解釈する立場と、「試練の中から」救い出すという意味に解釈する立場に分かれます。前者の解釈では、教会は患難期の前に携挙されることになります。しかし後者の解釈では、教会は患難期の途中、あるいは、患難の終わり頃に携挙されることになります。いくつかの理由から、私は三つの見解の中で、(1) の「前患難説」に立っています。
  • その理由としては、
    (1) 「全世界に来ようとしている苦難」とは「ヤコブの苦難」だからです。

    「ヤコブの苦難」とは神の選びの民であるイスラエルに対する神の怒り(小羊の怒り)です。それは、再び彼らを神のものとするための試練なのです。キリストの花嫁に対する神の怒りはすでに十字架の上にあります。従って、キリストの花嫁に苦しみを与える理由がありません。確かに、主にある者も「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)。しかし、ここで問題となっているのはそのような一般的な患難とは異なり、これまでにない未曾有の神のさばきとしての大患難のことであり、その目的も神の選びの民に対する最後のあわれみの時としての精錬的な試練なのです。そうした精錬的試練に神の子どもたちが遭う必要性はないからです。むしろ、主の携挙があることを信じて、緊迫感を持って、いつも目を覚ましていることが求められているからです。

(2) イェシュアの教えの中に、携挙があることを示唆することばがあるからです。

例:ルカ21:36「あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらのすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

(3) 使徒パウロの教えの中に携挙の教えがあるからです。

例: Ⅰテサロニケ5章2~6節、9節
2主の日(患難の時)が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
3 人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅び(反キリストによる大患難)が彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
4 しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみ(大患難)の中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5 あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
6 ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。・・・
9 神は、私たちが御怒り(大患難の出来事)に会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救い(携挙)を得るようにお定めになったからです。

(4) 携挙はユダヤの婚礼の慣例と合致するからです。

①結婚のための資金は花婿の父親が出すということです。花婿の父親が花婿のために、花嫁の父親にそれ相当の結納金を渡すのです。花嫁の白いウェディング・ドレスの費用は父親の責任です。このように、父親は息子の結婚において、幼い時から許嫁を選ぶだけでなく、やがての結婚に備えて、婚約式の時にその資金を支払うのです。そのあとで、花婿は結婚後の新居の準備を父親の管理の下ですることになります。つまり、父親のOKが出ないうちは、花婿は自分勝手に花嫁を迎えに行くことができないのです。したがって、結婚の日がいつかということは、花婿にも分からないというわけです。

②父親のゴー・サインが出てから花婿は花嫁を迎えに行きます。花嫁もすでにいつ来られても良いように、花嫁はウェディング・ドレスを着ながら待っています。花嫁もその結婚を祝う仲間たちの音を聞くと、素早くベールをまとい、花婿に会うために通りへと案内されます。花婿と花嫁は道路の途中で出会います。そこが結婚式の場です。

③ユダヤでは「フッパー」という、一枚の幕に四つの支柱をつけたものの下で結婚式がなされます。そして、結婚式の後に、二人は、花婿が準備した新居で七日間のハネムーンを過ごします。

④一週間のハネムーンでは、だれひとり彼らのところに出入りすることができないのです。結婚の祝宴は一週間のハネムーンが終わってからということになります。


ベアハリート

  • もう一度、主の約束のことばを聞きましょう。同時に、それに伴う、勧めを心に留めましょう。

    (1) 黙示録3章11~12節
    「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」

    (2) 黙示録22章7節
    「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

    (3) 黙示録22章12節
    「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」

    (4) 黙示録22章20節
    これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」

(花嫁) 「アーメン。主イエスよ。来てください。」=マラナ・タ
楽譜「マラナ・タ」

  • 私たちにとって、キリストの空中再臨に伴う携挙は「祝福された唯一の望み」です。信仰を持つということは、不安定な緊張感をもって、忍耐をもって、主を待ち望むことです。そして、この信仰には大きな報いが伴います。花嫁が花婿を迎えるように、いつ、携挙があってもいいように準備していることが、私たちにとっての重要な課題なのです。

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2014.4.27


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