****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

すべてを相働かせる神のトーヴ

9. 第八瞑想 すべてを相働かせる神のトーヴ

【聖書箇所】 ローマ人への手紙 8章28節

はじめに

  • 「神のトーヴな世界へようこそ」のシリーズ第八回目です。このシリーズ最後の瞑想です。「神のトーヴ」とは、神が良い方であり、良いことしかなさらないということです。「トーヴ」という言葉はヘブル語ですが、それが新約では「アガソス」というギリシア語になります。「トーヴ」が「アガソス」αγασοςという言葉に置き換えられたとしても神の本質は変わりません。神はどこまでも良い方であり、良いことを私たちに施してくださる方なのです。このことをしっかり私たちの心に刻み込むとき、主にある私たちのアイデンティは骨太となると信じます。主要聖句は有名なローマ人の手紙8章28節です。まずその聖句を見てみましょう。

1. ローマ書8章28節のさまざまな翻訳

【新改訳改訂3】
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
【口語訳】
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
【新共同訳】
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
【フランシスコ会訳】
聖霊は、神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人とともに働き、すべてが益となるように計らわれることをわたしたちは知っています。
【柳生訳】
神を愛する者、神のご計画に従って召し出された者のために、神は人生のあらゆる出来事から幸福な結果を生み出して下さる、ということをわたしたち知っている。

  • 原文では、最初に来ることばは「私たちは知っている」です(日本語では最後に来ることばになっていますが)。なにを知っているのでしょうか。その前に「私たち」とは、28節の言葉で言うならば、「神を愛する人々」であり、「神のご計画に従って召された人々」のことです。パラレリズムです。ユダヤ的表現法です。
  • 昔の歌で「星はなんでも知っている」という歌がありましたが、ここでは、「星」ではなく「私たち」です。「私たちは知っている」です。何を知っているというのでしょうか。それは「なんでも」知ることではありません。その必要もありません。私たちが知る必要があるのは、私たちのために「すべてのことが益となる」ということです。「すべてのこと」の内容についてはここでは特に記されてはおりません。おそらく、私たちの目には良いように見えることも、悪いように見えることもすべて、あるいは、意識されることもされないことも含めて、人生の中で経験するありとあらゆる事柄、出来事が、私の「益となる(幸いな結果をもたらす)」という事実です。その事実を知っているとパウロは述べているのです。
画像の説明
  • ただこの聖句において問題なのは、「ともに働く」と訳された「スネルゲオー」συνεργεωという言葉が、共に働く実体、つまり何と何が共に働くのか、その点がいろいろな聖書の訳によって解釈が微妙に異なっているのです。「ともに働く」という動詞の人称は3人称単数ですが、その主語がギリシア語のテキストでは実は曖昧なのです。新改訳、口語訳では「神」、新共同訳では「万事」、フランシスコ会訳では「聖霊」と訳しています。「万事」を主語とする新共同訳では、「万事が共に働く」ことで、益がもたらされると解釈します。
  • 「神」を主語とする新改訳と口語訳では、「ともに働く」相手に二つの解釈があります。口語訳では「神」がともに働くのは「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たち」です。この場合、「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たち」の主体性が強調されています。しかし新改訳の場合、「神」がともに働くのは「万事」です。この場合、神と「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たち」との共働という面は強調されていません。さて、もうひとつのフランシスコ会訳の場合はどうでしょう。これは口語訳の解釈と同じですが、異なっている点は、主語が「神」ではなく、「聖霊」となっていることです。
  • 私は、図に見るように、これらの解釈をすべて合わせたものが正しいのではないかと考えます。つまり、霊感された聖書はどちらの解釈でも受け取れるという含みをもたせているということです。文法的に曖昧にすることによって、ひとつの訳では表しきれない意味合いがあるという含みをもたせているのです。
  • しかし、フランシスコ会訳が主語を「聖霊」としていることに私はハッとさせられました。その理由は、今日(5/27)がぺンテコステ記念礼拝だからということでこじつけようとしているからではありません。むしろ、8:28が置かれているコンテキストの流れとして、主語が「聖霊」とすることはきわめて自然だと思えるからです。

2. すべてのことを益とする聖霊の働き

  • そもそも8章28節という聖句のあるローマ人への手紙8章は、聖書の中でも最も高い、最高峰の神の恵みが記されている箇所です。この8章は神の恵みに対する喜びで満ち溢れています。その前の7章では使徒パウロが「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と自己破産宣言をしています。そのパウロが8章では次のような宣言ではじまっているのです。

(1)「御霊の原理の原理」(1~13節)

  • 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。」(8:1)ここには、「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と自己破産宣言をしたパウロが、御霊によって「圧倒的な勝利」がもたらされたことを宣言しているのです。それは「いのちの御霊の原理」に基づく勝利です。つまり、神の賜物として与えられる「聖霊」による勝利なのです。
  • 原理とは法則です。ものが下に落ちるのは引力の法則が働いています。私たちの力を働かせて、努力してその法則に逆らうことができますが、やがては疲れてしまいます。法則の方が勝ってしまい、逆らっていた私たちの頑張りや最善の努力は結局、失敗におわるのです。自分には善をしたいという意志や思いがあるのになぜできないのかというと、それはそうさせない法則、罪の法則が常に働いているからなのです。パウロは最初そのことに気づきませんでした。ですから、一生懸命頑張って神のみこころをしようとしたのです。最初のうちはできているかのように思いましたが、時間が経つにつれて、その頑張りは辛くなり、重くなり、結局は、彼の力を消耗させ、無力にしました。引力の法則と同様です。引力は私たちの意志とは関係なく常に働き続けています。それが法則というものです。パウロはこの法則(原理)に勝てないことを悟った人だったのです。ところが、そのパウロがもうひとつのことを神から示されたのです。罪と死の原理(法則)から解放されるためには、それに打ち勝つ原理が必要なのです。パウロは言っています。「いのちの御霊の原理(法則)」があることを知ったのです。原理は、私たちの力とか頑張りには関係なく働いている力です。「罪と死の原理(法則)」から私たちを解放するもうひとつの原理(法則)とは、「いのちの御霊」によるものです。つまり、それは神の霊とも、イエスの御霊とも言い、「聖霊」とも言われる方が私たちに与える力なのです。より高い法則が低い法則を征服できます。法則ですから、私たちの努力や頑張りにかかわらず常に働いているのです。ですから、もし私たちが聖霊の法則があることを知り、それに身をゆだねるなら、聖霊の法則が私たちのうちに働くのです。
  • 暖められた空気は黙っていても上に上がっていきます。そこには浮力の法則が働いています。そこに風船の紐を私たちの手から離すとどうなるでしょう。自然と上がっていきます。なんの努力も要りません。浮かせる努力はいりません。ただ握っていた風船の紐を手から離せば良いのです。私たちの頑張りが働かなくなるところに、はじめて御霊の法則が現されます。ときには、竜巻のように、強力な力が働いて自然の法則に逆らって車や家や樹木のような重いものまでも持ち上げてしまうことがありますが、そうした働きはいつもあるわけではありません。稀に起こりますが、あることはあるのです。聖霊も時には竜巻のような超自然的な力を表わすことができますが、それは稀で、そのような現れでなくても、常に神を愛する者たち、イエスを信じる者たち、神の御計画にしたがって召された人々のうちに常に働いてくださるのです。

(2) 神の御霊によって導かれる歩み(14~17節)

  • ローマ8章14節には「神の聖霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」とあります。「御霊に導かれる」という意味は、神の子どもとされた者は、キリストにある苦難をも通らなければならないことが想定されているからです。御霊の初穂をいただいて神の子どもとされている私たちは、やがてキリストにあるすべてのものを相続することができますが、この世にあってはキリストとともに歩む苦難をも経験するのです。その苦難はキリストにある恵みがどのようなものかがあかしされるためのものです。しかしその苦難をも乗り越えさせる力を与えてくれるのも御霊なのです。

(3) 将来への希望をもたらす御霊のとりなし(18~27節)

  • 8章26節ではそうした苦難の中で、どのように祈ったらよいかわからないとあります。しかしそんな弱い私たちを助けて下さいます。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。御霊は神のみこころにしたがって、聖徒のためにとりなしをしてくださるのです。それゆえに、私たちの呻きとしか言えない祈りさえも神に聞かれ、苦難を乗り越えさせ、その中に神のみこころが実現していくのです。この御霊の助けがなければ、私たちは神の子どもとして生きることはできないのです。
  • そこで、8章28節のみことばが来ます。これまで聖霊(御霊)についてなんども語られてきました。フランシスコ会訳は、神を「聖霊」として訳しています。コンテキストでは、聖霊が私たちに代って言いがたきうめきをもってとりなしてくださる方であり、聖霊は聖徒のために、神に従ってとりなすことのできる方なのです。それゆえに、フランシスコ会訳のように、「聖霊は、聖徒たち(神を愛する者たち)のために、すべてのことが益(アガソス)となるように(ここでの「益」は神の恩寵の総称としてのユダヤ的表現である「トーヴ」です)計らわれる」と理解しても、一向にかまわないと思うのです。主語を「聖霊」として訳したとしても、そこには聖霊をお遣わしになられた主イエスが共におられ、またそこに御父も共におられるからです。
  • 聖霊は神の賜物です。イエスは御父がご自分の子どもたちに良いものを下さると言われましたが、その「良いもの」とは「聖霊」という方、聖霊という賜物を意味したのです(ルカ11:13)。その聖霊という良い方が私たちの内におられて、私たちの人生を良いものとして下さるというのは、至極、当然のことではないでしょうか。

3. すべてのことを聖霊のコーディネイトによって益とされた使徒パウロ

  • 8:28で使徒パウロは「私たちは知っています」と記しています。現在完了形で書かれています。英語の場合の現在完了形はあることがすでに完了してしまったことを現しますが、ギリシア語の現在完了形という時制は、現在のことを強調するために使われる表現です。ですから、どの訳であっても「知っています」と訳されています。ここには迷いがありません。あるときからそのことを知って、今も変わりませんという意味合いの「知っている」というニュアンスです。神のトーヴに対する揺るぎない確信の表明です。
  • パウロは、A.D.67年、ローマでネロ皇帝のときに殉教します。今朝の主要聖句8章28節が記されたのは、彼が死ぬ前の10年程前の第三次伝道旅行で、やがて自分はローマに行くことを予感してローマにある教会に手紙を出したのです。それまでの彼の体験の中で、聖霊はすべてのことを相働かせて益として下さることを確信していたのです。それはローマ人への手紙が書かれた後も、変わることなく、聖霊は(あるいは神は)、すべてのことを相働かせて、つまり、万事をコーディネイトして益をもたらす方であることを告白したことばだと言えます。
  • こうした確信があるのとないのとでは生き方が全く変わってきます。つまり、この確信があれば、どんな苦しみにあったとしても、そこに意味があることを確信することができ、希望を持つことができます。逆に、意味があることが確信できなければ、苦難に耐えることは難しいのです。「すべてのことを相働かせて、コーディネイトしてくださる方がおられることーこの確信は自分がなすべきことをしていく上で歩みがブレなくなります。それゆえ、御霊の導きにゆだねながら今なすべきこと、今与えられている責任に対して渾身の力を注ぐことができるのです。それがキリストにある者の生き方であることを確信して、パウロはここで「私たちは知っています」と言っているのです。
  • ここで第三次伝道旅行までのパウロの軌跡をたどってみましょう。

(1) 出生

  • 彼はベニヤミン族の出身です。ユダヤ人の多くが離散を余儀なくされますが、彼はアジアのキリキヤ地方にあるタルソという町(というよりも都市)で生まれています。タルソは当時、アンテオケ、エジプトのアレキサンドリヤと並ぶ学問都市でした。ですから、彼は伝統的にユダヤの律法を学ぶと同時に、当時のギリシャ・ヘレニズムの文化にも触れていたのです。また彼は、生まれながらにしてローマ市民権をもっていたのです。いずれも、やがてパウロがローマ支配の国で伝道活動するときにものを言うようになるのです。すでに彼がキリストを知る前から、異邦人伝道のための道備えがなされていたのです。しかしそのことに気づくのはもっと多くの時間が必要でした。

(2) エルサレムにおけるガマリエルの門下での律法の学び

  • 13歳でユダヤ人は成人式を迎えます。おそらくそれ以降、彼はエルサレムに上り、自分の姉妹の家に滞在しながら、当時の最高のラビと言われたガマリエルのもとで律法を専門的に学びます。それができるということは彼の境遇はかなり裕福であったと考えられます。彼は律法を熱心に学び、それに自分のすべてをかけて生きようとしていたので、新しい新興宗教であったキリストをメシアと信じる者たちの存在は赦すことができませんでした。彼のユダヤ教に対する熱心さは先頭に立ってキリスト者を迫害する者となっていました。彼はいい加減な人ではなく、これだと信じることにはどこまでも熱心になるタイプであったようです。

(3) 回心

  • そんな彼にダマスコ途上でまばゆいほどの天からの光が照らしました。そのために彼は目が見えなくなったのです。三日間、彼は暗やみの中で、飲まず食わずの状態が続きました。そして三日目、アナニヤというイエスの弟子が訪ねて来て、彼のために祈ったとき、聖霊がパウロを満たして霊の目が開かれたのです。聖書は「目からうろこのようなものが落ちた」と表現しています。そしてパウロがこれからなすべきことを示したのです。
  • その三日間は、私たちの知りえないほどのとても密度の濃い期間だったようです。彼は目が開かれてからというもの、すぐに、イエスがキリストであることを聖書に基づいて論証することができたのです。だれも彼にそのことを教えた者がいないのに、です。聖霊が彼に教えたのです。

(4) パウロの異邦人伝道のはじまり

  • パウロが神からの異邦人に福音を伝えることになるのは、その回心から少なくとも約17年後です。それまで彼は同胞のユダヤ人たちにのみ福音を伝えようとしていたのです。しかし第二次伝道旅行の時に、不思議な経験します。そのことが使徒の働き16章に記されています。アンテオケの教会から祝福されて送り出されての第二次伝道旅行です。新しいスタッフである長老のシラスと途中、ルステラでテモテが与えられました。
    パウロはこれからの計画を持っていましたが、それが御霊によって禁じられるという経験をしたのです。その箇所を読んでみます。
  • 「それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。」そして、「ある夜、パウロは幻を見た」のです。そこから異邦人伝道がはじまっていくのです。彼が計画していなかった方向でした。聖霊によって禁じられたのは、彼がこれから行くべきところを聖霊が示そうとしておられたのです。・・そのようにして、彼はヨーロッパに渡っていきます。
  • この出来事はなんどもルカに語っていたのだろうと思います。実は、このところから「神が私たちを招いて」と記されているからです。「私たち」の中に実は使徒の働きを記したルカが加わったことを示しています。と当時に、同じく聖霊の導きの中に、私たちひとりひとりも加わることができることを示唆しているのです。


むすび

  • ローマ8章28節、「聖霊は、神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人とともに働き、すべてが益となるように計らわれることをわたしたちは知っています。」という例証のひとつでしかありません。聖霊のコーディネイトは私たちの理性ではうまく描き切れないほどに、より綿密に仕組まれているのです。しかしそのコーディネイトの目的はあくまでも「私たちの益のため」なのです。
  • まるで、着物の帯の美しい文様のようです。それはその帯の裏を観るなら決して綺麗ではありませんが、表から観ると実に綺麗なのです。そんな人生を、神を愛する者たち、神の御計画に従って召された者たちに、聖霊(神は)は描いてくださるのです。なんとすばらしいことでしょうか。そんな生涯が約束されているのです。それゆえ、私たちに与えられている賜物としての聖霊の導きに感謝して歩みたいと思います。

2012.5.27


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