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「私は主を愛する」

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  • 詩116篇1節の「私は主を愛する」という表現、原文には「主」ということばはなく、「私は愛する」(アハヴティאָהַבְתִּי)となっています。そのあとに、なぜなら主は私の声を聞いてくださるとあるので、愛する対象が「主」であることは明確です。
  • 「愛する」と訳されたアーハヴは、おもに神が私たちを愛をもって選ばれたことに使われます。バビロン捕囚の経験を通して、イスラエルの民はそれまでないがしろにしてきたトーラー(神の律法)に目覚め、昼も夜もその教えを喜びとして、思いを巡らすというトーラーライフスタイルを確立します。詩119篇では、しばしば、主の仰せ、さとし、さだめ、みおしえを「愛します」(12回)と告白されています。ところが、今回の詩篇のように、直接的に、「私は(主を)愛します」という表現はきわめて少ないのです。
  • 使徒ペテロは復活されたイエスと出会ったとき、イエスから「あなたはわたしを愛するか」と問いかけられます。イエスを裏切る前のペテロであれば、即座に、「愛します」というところでしょう。しかし失敗の後では、赦されたとしても、歯切れの悪い答え方をしています。イエスの意味する「愛」はアガペーです。しかしペテロは同レベルで愛するとは言えずに、フィレオーという友情の愛のレベルで応答します。それが真実なのではないかと思います。
  • 「主を愛する」(I love the Lord)とはどういうことなのでしょうか。この詩116篇では、四つの面からその意味を指示しています。これによって、自分が主を愛しているかどうかをチェックすることができます。脚注
    (1) 主を「呼び求める」こと(2, 4, 13, 17節) I will call upon Him
    ―「生ける限り」「死の綱、よみの恐怖、苦しみと悲しみのなかで」「救いの杯をかかげて」「感謝のいけにえをささげて」―
    (2) 主の御前を「歩き進む」こと(9節) I will walk before the Lord
    ―「生ける者の地で」
    (3) 自分の誓いを主に果たすこと(14, 18節) I will pay my vows
    ー「御民すべているところで、主の大庭、エルサレムで」ー
    (4) どんなときにも神を「信じた」こと(10節) I believe
    ー「ひどく苦しめられ、惨めに思っても、低くされても、あるいは、人を信じることができないときでも」
  • 神を愛するその究極は神のために殉教することです。それは信頼のあかしであり、主イエスをはじめとして、初代教会のステパノ、そして使徒のヤコブ、ペテロ、パウロ、らも殉教しました。詩116篇15節に「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」と記されているように、彼らは死んでも多くの影響を与えています。
  • エジプト・ハレル詩篇(113~118篇)は、イエスの時代にも、過越祭で歌われ、特にイエスと弟子たちと「過越の食事」のときにも歌われていたでしょうし、また、そこを出てゲッセマネに行く途中にもうたわれていたかもしれません。そうだとすれば、イエスはこの詩116篇から大きな励ましを受けていたに違いありません。当てにならない弟子たちの中で、いわば孤立無援の状態で御父を信頼して歩むイエスの姿を垣間見ます。

脚注

①1節の「私は愛した」の「愛した」は、1人称単数完了形パウル態。
②2, 4, 13, 17節の「呼び求める」は、1人称単数未完了形パウル態。
③9節の「歩き進む」は、1人称単数未完了形ヒットパエル態。
④14, 18節の「(誓いを)果たす」は、1人称単数未完了形ピエル態。
⑤10節の「信じる」は、1人称単数完了形ヒフィール態。

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