****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

アウトプット志向からインプット志向へ

8. アウトプット志向からインプット志向へ

はじめに

  • 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません。」と言われた主のことばの真意を理解することなしに、行き詰った現状を打破することは出来ないように思います。主イエスが「わたしにとどまりなさい。わたしのことばにとどまりなさい。わたしの愛にとどまりなさい。」と招いているのは、御子がいつも御父のうちにとどまっておられたからです。換言するならば、神の恩寵をインプットすることにこだわることです。インプットすることなく、アウトプットし続けるなら、やがて「燃え尽きる」ことは目に見えています。とはいえ、「とどまる」ということがどういうことかを知らずにいることが多いのです。
  • 預言者アモスがイスラエルの滅びの幻を見て「みことばを聞くことの飢饉」が来ることを預言しました。主の恵みの食卓は永遠に、しかも、豊かに備えられているにもかかわらず、その「すばらしさを味わい、これを見つめ」(詩篇34:8)ることができず、今日の教会は「荒野や荒地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった」者たちと同様に、「たましいは飢えと渇きに衰え果て」(詩篇107:4)ています。私たちはこれからどうしたらよいのでしょうか。

1. 自ら、みことばに向き合う

  • これまで多くのキリスト者は、自ら、みことばに向き合うことなく、牧師のメッセージを一方的に聞いて育ってきました。それは、学校の教師の教えることをそのまま聞いて覚えるという勉強にたとえられます。しかしそれでどんなに良い点数を取ったとしても、自ら、問いを持ち、その答えを捜すべく狩猟的スキルを身につけることはできません。そこから創造的なものを生みだす力は培われません。みことばを瞑想するということは、みことばに対峙して、自ら、問いかけ、そこから答えを引き出す力を養う訓練です。その力は、なにかのデボーション冊子を使ってすれば身につくようなものではありません。「神のことばを聞く」ということは決して易しいことではありません。
  • 昔、「押してダメなら引いてみな」という歌の文句がありました。「引く」とは「退く」ことです。イエスも宣教を開始される時にガリラヤに「退かれ」ました。またしばしば「自分ひとりで寂しい所へ行かれました」。ここの「行く」も「退く」も同じことばが使われています。「引く、退く」ことは決して消極的なことではなく、神の御旨にとどまる従順の行為なのです。

2. パフォーマンス指向は行き詰まる

  • 今日の高度刺激社会の中でみことばに向き合うことは退屈極まりないものに見えます。今日の傾向として集会や賛美はより刺激的になって来ています。単に外からの刺激に反応しているだけならば、それは燃えているように見えるだけで、やがて立ち消えていく運命にあります。
  • 「主のための奉仕」には落とし穴があると同様に、パフォーマンス指向も、同様に、落とし穴があります。外から見て一見熱心な姿は人も自分も欺くことができます。パフォーマンス指向の生き方を続けているなら、必ずや心が折れる時が来ます。今も昔も、私たちにより大きな霊的刺激は、地味であり、かつ退屈と思われるような静かな取り組みを通して内側(たましい) からもたらされると信じます。神のことばは昔も今も、すべてのものを新しくしていく神の力です。それは私たちの思いを超えたものへと刷新させます。それゆえ「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(箴言3:5)とあります。
  • 「詩篇の瞑想」はきわめて退屈な取り組みですが、詩篇には「深い淵から」「泥沼から」「苦しみの中から」主を呼び求め、主に問いかけ、自分に問いかけながら、たましいを生き返えらせられた人々のエキサイティングな奇蹟が記されているのです。私たちはそこにもっと鋭い視線を向けていく必要があると信じます。「時間がない」との言い訳そのものが「みことばを聞くことの飢饉」を露呈しているのです。「義に飢え渇く者は幸いです」。なぜなら神のすべての祝福は「義に飢え渇く者」、すなわち、神との愛のかかわりに飢え渇いている者たちにのみ与えられるからです。

2010.8.10


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