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アハブ王の前に突如出現した預言者エリヤ

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列王記の目次

18. アハブ王の前に突如出現した預言者エリヤ

【聖書箇所】 17章1節~24節

はじめに

  • 何の予告もなく、突如、アハズ王の前に現われて干ばつを預言した人物、それが預言者エリヤです。彼はまさに孤高の人として生き、奇蹟と霊的戦いを行い、最後は火の戦車に乗って天へと上って行った神秘に包まれた人物です。
  • 17章は預言者としてのエリヤの特徴が紹介されている章と言えます。

1. 「エリヤ」という名前

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  • ヘブルの世界において「名前」はその存在の本質を現す重要な意味を秘めています。今回初めて登場する「エリヤ」と表記される名前のヘブル語は「エリッヤーフー」です。その意味は「主は神」、あるいは「主こそ神」です。神を表わす「エル」אֵלと、主を表わす「ヤーウェ」יחוהが組合わさった固有名詞です。
  • エリヤが登場した舞台は、北イスラエル王国の中でも最も邪悪な(最悪な)王として非難されているオムリ王朝の二代目の王アハズの治世半ばです(B.C.864頃)。オムリ王朝は海沿いの国フェニキアとの同盟を強化し、その友好関係はアハブがシドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎えたことで一層強固となり、バアル礼拝が公然と行われるようになりました。アハブは妻イゼベルの言うがままとなりました。そのアハズのもとに預言者エリヤが現われ、「主は生きておられる」と宣言したのです。
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  • 「主は生きておられる」というへブル語の表現は「ハイ、アドナイ」です。「生きる」という形容詞と主(アドナイ)が結びついたものです。この告白はバアルの神を礼拝することを許容したアハブに対するものであり、偶像礼拝の戦いにおいて決定的な告白です。この告白が単なる口先のものではなく、まさに生きた告白となるために17章ではもう一つのピクチャーを記しています。

2. 17章にある二つのピクチャーに共通するもの

  • 17章は、二つの部分からなっており、それぞれ独自のピクチャーが描かれています。一つはエリヤが人里離れたケリテ川のほとりに身を隠しながら、主に養われるというピクチャーです。もうひとつは、エリヤが海沿いの町、ツロから北に20kmほど離れたころにある「ツァレファテ」に住むやもめのところに行って、そこで養われるとピクチャーです。この二つに共通するものが三つあります。

(1) 「主は生きておられる」という信仰告白のフレーズ

エリヤは当時の王であるアハブに向かって「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」と言いましたが、その中の「ハイ、アドナイ」(主は生きておられる)はまさに毅然とした告白です。なぜなら、この告白がバアルという偶像に北イスラエルが染まってしまった状況の中で語られているからです。この告白がすべての力の源泉です。「主は神」であるという意味を持つ「エリヤ」が、偶像の神に対して「ハイ、アドナイ」(主は生きておられる)と宣言しているのです。この時代の神の民はこの告白が根底から揺るがされていたのです。

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面白いことに、エリヤがツァレファテ(新共同訳の表記では「サレプタ」)に住むやもめのところに遣わされた時、そのやもめが「主は生きておられる」と告白していることです。ただし、その告白は「あなたの神、主は生きておられる」という表現です。エリヤのように「私の神」ではなく、「あなたの神」と言っています。そのために、エリヤは、やもめが「あなたの神」から「私の神」となるために、二つの奇蹟をこの家でしています。一つは「かめの粉は尽きない」という奇蹟、もう一つは「死んだ息子が生き返る」という奇蹟です。この二つの奇蹟を通して、「主が生きておられること」が証しされたのです。

(2) 「主のことばがあった」

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エリヤは常に「主のことばがあった」(新共同訳では「主の言葉が臨んだ」)時に、それに従って行動しています。ケリテ川のほとりに身を隠すときも(2, 3節)、またシドンのツァレファテに行っそこに住むときも(8節)「主のみことばのとおり」(5節)にしたのです。神の人の行動の原則はこれでなければなりません。新約時代では私たちの内におられる聖霊の声と導きに従う事です。柔軟な心と従順な心が要求されます。そのとき、主も「主のことばのとおり」(16節)奇蹟を行ってくださるのです。このことが「主は生きておられる」という意味です。

(3) 「養う」

二つのピクチャーに共通している言葉に「養う」という言葉があります。一つは、エリヤが幾羽かの烏を通して(「烏」עֹרֵבという言葉は「アラブ人」עֲרַבとも訳すことができる)、「養われ」、もう一つは、やはりエリヤがひとりのやもめを通して「養われ」ているのです。真の「養い主」は主です。

人間の最も基本的なニードは「生存の保障」です。だれが私を養ってくれるのか、私の必要を満たしてくれるのはだれか、という問題は重要です。結局のところ、人間はこの問題を解決してくれる神を求めているのです。偶像を造るその根底にあるものは、この「生存の保障」なのです。

「養う」と訳された動詞は「クール」כּוּלです。ネヘミヤは過去の歴史を振り返りながら神の恵みを次のように告白しています。「40年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。」(ネヘミヤ9:21)。主が心配して下さる、これが「養う」(クールכּוּל)が持つ意味です。

生存の保障の問題は常に私たちに問いかけられます。しかし主は歴史において、「プロバイド」(provide)の神であり、「サステイン」(sustain)の神であられました。ヤコブの一族がカナンにおいて飢饉に会ったとき、彼らを養ってくれたのは何とヨセフでした。モアブの地から帰ってきたナオミの老後を養ってくれたのはゴーエールのボアズでした。都落ちしたダビデとその一向を養ってくれたのはバルジライでした。ヨセフも、ボアズも、パルジライも、みなイエスの指し示す型です。

イエスはこの生存の問題に対して次のように語っています。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


2012.10.9


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