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イェシュアのエルサレム入場

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89. イェシュアのエルサレム入場

【聖書箇所】マタイの福音書21章1~11節

ベレーシート

●イェシュアの公生涯の三年半、そのほとんどはガリラヤとその周辺を舞台とした宣教でした。しかし、公生涯の最後の一週間は、イスラエルの中心地であるエルサレムにおいての宣教です。その最初の出来事が今回の箇所です。ガリラヤ宣教の記述は三年半で4~20章を費やしているのに対して、わずか一週間のエルサレム宣教の記述は21~28章の8章分を費やして、天の御国についての教えが凝縮して書かれています。

エリコからエルサレムへ.PNG

●さて、イェシュアの一行はエリコを出て、エルサレムに近づいていました。それは彼らが過越の祭りのために来ていたからです。エルサレムに着く前に、まずオリーブ山の東側のふもとのベテパゲまで近づいたときです(マルコ、ルカ、ヨハネの福音書では「ベテパゲ」だけでなく、「ベタニア」も加えられています)。イェシュアは二人の弟子に、向こうの村に行って、つながれているろばと一緒にいる、(まだだれも乗ったことのない)子ろばをほどいて連れて来るように言われたのです。

べテハゲ.jpg

●オリーブ山は、エルサレムから東側1キロほどのところにあり、エルサレムより120mほど高いところにあります。オリーブ山という名が示すとおり、そこはオリーブの木に覆われていることからその名がつけられています。オリーブ山の東側にある「べテパゲ」は「ベート・パゲー」(בֵּית־פַּגֵּי)で、「家」を意味する「ベート」(בֵּית)と、初なりのいちじくの実を意味する「パグ」(פַּג)の合成語で、「初なりのいちじくの家」です。イェシュアの一行は、滞在先となるベタニアとエルサレムとの間を往復しますが、その滞在先のベタニアにはイェシュアを快く受け入れた者たち(マルタとマリア、そしてラザロ)がいました。これから一体何が起こるのか。イェシュアのエルサレムでの出来事を悟っていたのは、イェシュアの足もとに座ってイェシュアの語ることばに聞き入っていたベタニアのマリアだけでした。なぜなら、彼女はイェシュアの葬りのために香油を注いで塗ったからです(ヨハネ12章1~8節)。葬りとはイェシュアが死ぬことを意味します。今までイェシュアについて来た弟子たちとはきわめて対照的でした。

●今日のテキストには、直接的ではありませんが、「オリーブの木」と「いちじくの木」が暗に存在しています。これらはイスラエルを代表する「木」であり、きわめて預言的です。つまり、イェシュアの弟子たち、およびユダヤ人とその指導者たちに起こるべきことを象徴的に物語っているのです。マタイ21章18~22節には、イェシュアが「いちじくの木を呪う」という出来事が記されています。その箇所を扱うときに、「いちじくの木を呪う」という意味を分かち合いたいと思います。

●今回のテキストのキーワードは「子ろば」(「アイル」עַיִר)です。イェシュアが「子ろば」に乗ってエルサレムに入場されるのです。なぜ、「子ろば」なのでしょうか。そこに焦点を当ててみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書21章1~3節
1 さて、一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来たそのとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
2 「向こうの村へ行きなさい。そうすればすぐに、ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐに渡してくれます。」


1. 『主がお入り用なのです』

●イェシュアの一行がベテパゲまで来たとき、イェシュアは「向こうの村」に二人の弟子たちを遣わされました。そこに「ろばがつながれていて、一緒に子ろばがいる」からです。そして、「それをほどいて、わたしのところに連れて来る」というのが、二人の弟子の遣わされた目的でした。この二人の弟子の名前は明記されていませんが、「二人」という表現はマタイの専売特許です。マタイでは「二人」という表現が重要なのです。そして繰り返し登場します。20章だけでも、「二人の兄弟」(24節)、「目の見えない二人の人」(30節)が登場します。

●イェシュアは二人の弟子たちに、「つながれたろば(=雌ろば)と子ろばを見つけるでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい」と命じました。ギリシア語からその状況を整理してみると、「つながれたろば」は単数です。「それをほどいて」の「それ」も単数で記されています。ということは、つながれていたのは雌ろばだけだと分かります。つまり、子ろばはつながれずに、雌ろばのそばにいたことがわかります。果たして、二人の弟子たちが連れて来たのは、「子ろば」だけでしょうか。それとも雌ろばと一緒でしょうか。答えは、「主がお入り用なのです」の中にあります。日本語訳には表わされていませんが、原文では「主がそれらを必要としています」となっています。したがって、連れて来たのは、雌ろばとその子ろばでした。

●ところで、イェシュアは「もしだれかが何か言ったら、『主が(原文「それらを」)お入り用なのです』と言いなさい。すぐに(原文「それらを」)渡してくれます」と、なぜ言えたのでしょうか。しかも「すぐに」です。前もって打ち合わせる時はなかったはずです。それなのに、いかにもすでに決まっているかのようにスムーズに事が運んでいくのです。神のご計画と計らいには、すでに決まっていたかのような何の問題もなく整えられて、自然になされるような導きがあるようです。「もしだれかが何か言ったら」とイェシュアは言いましたが、テキスト(マタイ)を読む限り、つながれていたろばをほどくのに文句を言った者はいなかったようです。これと似たようなことが、マタイ26章17~19節にもあります。そこでは、過越の食事(最後の晩餐)をするために、イェシュアが弟子たちに、「これこれの人のところに行って、『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』と言いなさい」と言っています。あたかも食事をする部屋が前もって予約されているかのような発言です。

2. 預言者を通して語られたことが成就されるため

【新改訳2017】マタイの福音書21章4~7節
4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。

●イェシュアが子ろばに乗ってエルサレムに入場されたことを、マタイでは「このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就されるためであった」として、以下のように、旧約のことばを引用しています。

【新改訳2017】マタイの福音書21章5節
「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」

①【新改訳2017】イザヤ書 62章11 節
見よ、【主】は地の果てに聞かせられた。「娘シオンに言え。
『見よ、あなたの救いが来る。見よ、その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。」
②【新改訳2017】ゼカリヤ書 9章9節
娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。
見よ、あなたの王があなたのところに来る。
義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろば(「ハモール」חֲמוֹר)に乗って。雌ろば(「アートーン」אָתוֹן)の子である、ろば(「アイル」עַיִר)に乗って。

●ここで重要なのは、雌ろばの子である「アイル」(עַיִר)、つまり、「子ろば」に乗って来ることがメシアのしるしだということです。「見よ」の「ヒンネー」(הִנֵּה)は、「終わりの日」に起こることに対して目を留めさせる呼びかけの語彙です。「シオンの娘」とは「エルサレムの住民」の雅名です。ちなみに、イェシュアが白い馬に乗って来られるのは再臨の時です。しかし、初臨はイェシュアは「子ろば」に乗ってと預言されています。いずれもメシアのしるしです。メシアのしるし、それは御国の柔和な王としてのメシアです。マタイ11章29節に「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」とあります。そのことを人々に示すためにも、イェシュアは子ろばに乗らなければならなかったのです。

【新改訳2017】ルカの福音書24章44節
そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。


3. 「アイル」の語彙が持つ意味

●ゼカリヤ書9章9節に記されている預言では、メシアはろばに乗って、それもまだだれも乗ったことのない、雌ろばの子の、ろばに乗ってエルサレムに入場されることが語られています。当時は、高貴な者、身分の高い者、祭司たちもろばに乗っていました。馬に乗るのは戦士だけでした。民衆はイェシュアがこれまで多くの奇蹟をもたらした存在として、「力あるメシア」としてイェシュアを歓迎したのです。しかし預言によれば、彼は「柔和な者」だと記されています。「柔和な王」とはどんな方でしょうか。ヘブル語本文では「アーニー」(עָנִי)ということばを使っています。これは形容詞で「貧しい、哀れな、悩み多い、へりくだった、柔和な」という意味です。そうした意味の象徴として「雌ろばの子である、ろばに乗って」と表現されています。つまり、「アーニー」(עָנִי)としてのメシアは、エルサレムにおいて宗教指導者たちの拒絶に会い、受難を受けることを意味しています。

●「アーニー」(עָנִי)は、エルサレムでのイェシュアの滞在地であった「ベタニア」と大いに関係があります。「ベタニア」はヘブル語で「ベート・アヌヤー」(בֵּית־עַנְיָה)と表記します。新改訳2017では「ベタニヤ」から「べタニア」に改訂されましたが、ヘブル語から見るならば「ベタニヤ」が原語に近いのです。その意味するところは、「貧しく、苦悩の、柔和な家」とも訳せるからです。マリアもハンナと同様に、この柔和な霊性を持つ女性でした。そしてそれはイェシュアの霊性でもあり、イェシュアのメシア性を表わしているのです。マリアがイェシュアの語られることを悟ることができたのも、同じ霊性を持っていたからだと思われます。

語彙の親根.PNG

●しかし、なにゆえに「ろば」なのでしょうか。「ろば」を意味するヘブル語の中にその答えが隠されています(右の図を参照)。「子ろば」は「アイル」(עַיִר)です。そして、この動詞「ウール」(עוּר)には「目を覚ます」という意味がありますが、同じく「アーヴァル」(עָוַר)にはその反対の「盲目にする」という意味があります。図にはありませんが、名詞の「イッヴェール」(עִוֵּר)には「盲人」「盲目の」という意味があります。

●このように、「ろば」には、人を「盲目に」し、同時に「目を覚まさせる」という真逆の意味があるのです。ゼカリヤ書9章9節が引用される新約聖書の箇所(マタイとマルコ)には、イェシュアがエルサレムの町に入場する前に盲人の目を開かれるという話があり、そこには同時に、霊的に盲目にされている人々もいるのです。この現実を表わすために「子ろば」が登場しているのです。しかも、イェシュアが入場するエルサレムの「都、町」を表わす語彙「イール」(עִיר)も、イェシュアがエルサレムに入ることで都中が「興奮」状態になり、また神殿が汚れているのを見たイェシュアが「怒り」を表わす語彙も同じ「イール」(עִיר)です。このように、これらすべてが一つにつながる、「ペアレント・ルーツ」(親語根)としてのערという二つの文字が存在しているのです。これはヘブル語の持つ面白さを教えてくれます。マタイはイェシュアの系図にも似たようなわざを使って、メッセージを伝えようとしています(1:1~18)。

●ちなみに、何に対して人々が「盲目」にされ、逆に何に対して「目が覚まされる」のかといえば、それはイェシュアこそ預言されていたメシアだということにです。

4. 神の定めの時を知らない群衆たち

【新改訳2017】マタイの福音書21章8~11節
8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」
10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。
11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。

●イェシュアがエルサレム入場の際に、「非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。」とあります。いろいろなところから祭りのために集まった人々は、王が通るのにふさわしいように自分たちの上着を、ある者たちは木の枝を切って道に敷きました。この「敷いた」と訳された「ステローンニューミ」(στρώννυμι)は未完了形で、それらを「次々にその道に敷いていった」ことを意味しています。そして、「ホサナ」(「どうぞ救ってください」の意)と叫び続けながら、イェシュアをダビデの子として、つまり王なるメシアとして、賛美しつつ、迎え入れたのです。この叫びは神に届かなかったのでしょうか。いいえ、届かなかったのではなく、神の定めた時ではなかったのです。

●イェシュアを迎えた多くの群衆は、旧約聖書が啓示している正しいメシアを知っているわけではありません。自分たちの国を再建してくれる王的な存在としてしか見ていませんでした。つまり、彼らは自己本位なメシア像しか持っていなかったということです。ですから、ましてや数日後、イェシュアに失望することになるとは、この時点では全く思いもよらなかったに違いありません。彼らの失望は怒りに変わりました。エルサレムに入場されたイェシュアは拒絶されるのです。ですから、神はもう一度、「主の御名によって来る方に祝福があるように」という預言を実現しなければなりません。イェシュアを拒んだユダヤ人に対して、イェシュアはこう言っています。

【新改訳2017】マタイの福音書23章37~39節
37 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
38 見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。
39 わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」

●38節と39節の間には2000年以上の隔たりがあります。やがて、獣と呼ばれる反キリストによる未曽有の苦難をとおして、イスラエルの残りの者たちに恵みと嘆願の霊が注がれ、悔い改めの叫びとなるのです。私たち教会はすでに天に携挙されているため、この大いなる光景を見ることはできませんが、長い間、盲目にされてきた神の宝の民が目覚めるときが来るのです。まさに、ここにイェシュアが子ろばに乗ってエルサレムに入場される象徴的、および預言的な意味があるのです。

ベアハリート

【新改訳2017】詩篇24篇7~10節
7 門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
8 栄光の王とはだれか。強く力ある【主】。戦いに力ある【主】。
9 門よ おまえたちの頭を上げよ。
永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入って来られる。
10 栄光の王それはだれか。万軍の【主】この方こそ栄光の王。セラ

●「門」と「戸」(扉)に対して、「上げよ」「上がれ」と二度も命じられています。二度命じられるのは強調表現です。しかも、呼びかけられている「門」と「永遠の戸」はすべて複数形です。これらが意味しているのは、おそらくイスラエルの民たち、つまりシオンの娘たち(イスラエルの残りの者たち)のことだと考えられます。なぜなら、王が支配する国にはその王に従順に従う民がいなければならないからです。それゆえ、「門よ。おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」と預言的に語られているのです。

●力ある栄光の王、「万軍の主」に対してイスラエルの民ができることはただ一つ、「上げる」ことです。つまり、神に立ち返ることなのです。それ以外のことは求められていません。「上げよ」と命じる動詞は「ナーサー」(נָשָׂא)です。ここでは動詞「ナーサー」(נָשָׂא)の基本形と受動態による呼びかけ(命令形)がなされています。特に「ナーサー」の受動態の意味は、「荷を負われる」ことから「罪が赦される」という意味になります。王なるメシアがエルサレムに入るためには、神の民の背信の罪が赦されることが必要です。そのために、御霊とも言える「人称なき存在」が、神への立ち返りを呼びかけているのです。

2020.11.15
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