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イェシュアの律法の解釈 (続・序)

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10. イェシュアの律法の解釈 (続・序)

【聖書箇所】マタイの福音書5章20節

ベレーシート

  • 昨日(4/29)の「サムエル・ミニストリー」ではⅡ歴代誌18章を共に味わいました。その章の冒頭には、ユダの王ヨシャパテと北イスラエルの王アハブが縁を結んだこと(平和を築くための政略結婚)が記されています。それまでは南と北は対立していたのですが、対立から協調へと動いたのです。あるとき、ヨシャパテがアハブのもとに行った時、アハブが言いました。「ある戦いをともに戦ってほしい」と。するとヨシャパテは「いいですよ。ともに戦いましょう。」と答えますが、「まず、主のことばを伺ってみてください。」と言います。するとアハブは四百人の預言者を召し集めて、この戦いに行くべきか、やめるべきかを尋ねます。すると彼らは口をそろえて、「戦ってください。そうすれば、神は王の手に敵を渡されます。」と言ったのです。反対する者がひとりもいなかったことに不信を抱いたヨシャパテは、「私たちがみこころをもとめることのできる主の預言者がほかにはいないのですか。」と尋ねます。するとアハブは言います。「いや、ほかにもうひとり、主のみこころを求めることのできるミカヤという預言者がいます。しかし彼は私について、決して良いことは預言せず、いつも悪いことばかりを預言するのです。」・・・
  • 四百人の預言者たちは王のお抱え預言者であって、いつも王が喜ぶことを語っていたのです。王にとってみるなら、彼らは限りなく自己肯定をうながしてくれる預言者たちです。この「限りなく自己肯定をうながしてくれる神」こそ、人間が自分でつくり出した偶像の神です。ですから、神のトーラーを良く学んでいたヨシャパテは、直感的に、預言者たちの答えはおかしいとすぐに気付いたのです。私たちも自分の意見に反対する者、自分の思いとは異なることを言う人のところへは相談に行かないし、そうした人の意見は聞きたくないものです。自分の思いを肯定してくれる友だちに相談する傾向があるのです。ですから、北イスラエルの王アハブにとって気に入らないこと、つまり不都合な真実を語る預言者ミカヤの意見は初めから求めていなかったのです。このミカヤという預言者(「ミカヤ」は「ミカヤーフー」の短縮形=「だれが主のようであろうか」という意味)こそ、実は神の御子イェシュアを指し示していると言えるのです。なぜなら、イェシュアは当時の律法学者やパリサイ人にとって不都合な真実を語る真の預言者だったので、当時の指導者たちから嫌われたのでした。
  • そこで、前回も取り上げた箇所であるマタイの福音書5章20節にもう一度目を留めてみたいと思うのです。ここはイェシュアの弟子たちに対して語っている箇所です。ここで語られていることばをできるだけ正確に理解したいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書 5章20節
わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書 5章20節
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。

【エターナル・ライフ・ミニストリー訳(TR訳)】マタイによる福音書 5章20節
なぜなら、あなたがたに言いますが、あなたがたの義が律法学者たちとパリサイ人たちの義以上のものとならなければ、あなたがたが天の御国に入ることは決してないからです。

●ギリシア語原文ではλέγω γὰρ ὑμῖνとなっており、「というのは、わたしはあなたがたに言います」 という意味。


1. イェシュアの常套句―「まことにあなたがたに告げます」

  • 「まことにあなたがたに告げます。」(「アーメーン・ガル・レゴー・ヒューミン」ἀμὴν γὰρ λέγω ὑμῖν)というフレーズですが、このフレーズがマタイの福音書で初めて使われている箇所が5章18節です。山上の説教ではですが、5回登場します(5章18節の他に、26節、および6章2, 5, 16節にも)。このフレーズはイェシュアが権威をもって宣言されるときの常套句です。このような表現は当時のユダヤ教のラビたちはしていません。ですから、イェシュアがこのような表現を用いるということは、自分は神と等しい権威を持っているという前提で語っているのです。
  • このフレーズをより注意深く調べるために、ギリシア語の「アーメーン」(ἀμὴν)をヘブル語に戻した聖書を見ると、そこには必ずしも「まことに」を意味する「アーメーン」(אָמֵן)という語彙が使われているのではなく、理由を示す接続詞としての「キー」(כִּי)が使われています。前に語られたことの「その真意」、それが「まことに」という意味なのです。つまり、「(前に語られたことの)その真意をあなたがたに告げます」という意味になります。ギリシア語原文でも、理由を示す接続詞としての「ガル」(γὰρ)が使われているにもかかわらず、日本語訳の聖書ではなぜか訳されていません。コンテキストの流れの中でそれを理解せよという暗黙の了解があるのかもしれません。

2. 否定辞による強調表現―「決して天の御国に入れません」

  • 「決して・・入れません」という表現に注目しましょう。ギリシア語だと「ウー」(οὐ)と「メー」(μή)という二つの否定辞が重ねられることで、「入れない」ということが強調されています。つまり、「ない」、「ない」で、「決して入れない」と訳されています。同じく5章26節にも「・・・するまでは、そこから出ては来られません」にも使われていて、「決して出てはこられない」ことが強調されています。
  • これは厳しい内容ですが、逆もあります。四重の否定辞を使って、神のゆるぎない恩寵を表わしている箇所があります。それはヘブル人への手紙13章5節です。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。」―『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』とあります。「決して離れず」で「ウー」(οὐ)と「メー」(μή)の二重否定、さらに「あなたを捨てない」で同じく「ウー」(οὐ)と「メー」(μή)の二重否定、合わせて四重の否定辞による保証が約束されているのです。したがって、正確には「わたしはあなたを決して離れず」、また「あなたを決して見捨てない」ということになります。神の厳しさと同時に、神の確固としたゆるぎない保障が主の弟子たちには約束されているのです。「金銭を愛する生活」を選び取るか、「主」を選び取るか、それがひとりひとりの永遠の運命を完全に決定づけてしまうのです。そのことをイェシュアは、「だれも(例外なく)、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と表現しています。

3. 「あなたがたの義」と「律法学者やパリサイ人の義」との違いは何か

  • イェシュアの時代においては、「義」(「ツェダーカー」צְדָקָה)が「解放」「救い」という本来的な意味と、より限定された意味としての善行としての「施し」(=貧しい者への金銭的援助)を意味していました。特に、パリサイ人の目には、「施し」「祈り」「断食」が義しい生活をするための最も重要な三要素でした。ですから、マタイの福音書6章でイェシュアは「善行」について注意を促しています。つまり、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(6:1)というものです。
  • マタイ6章では、「善行」(「ディカイオスネー」δικαιοσύνη=「ツェダーカー」צְדָקָה)として三つの事柄が挙げられています。その三つの「善行」(義)とは、①「施し」(6:2~4)、②「祈り」(6:5~15)、③「断食」(6:16~18)のことです。なぜなら、この三つが当時の律法学者やパリサイ人の「義」についての理解だったからです。特に、三つの善行の最初に来る「施し」は最も重要なことで、「義」と同義語であるとさえ考えられていたのです。
  • 従って、マタイ5章20節でイェシュアは「義」(「ツェダーカー」צְדָקָה)ということばを二つの意味で用いていたのです。つまり、「あなたがたの義」とはイェシュアの弟子たちに対してのもので、古くからの本来の意味としての「救い」を意味し、「律法学者やパリサイ人の義」とは律法学者やパリサイ人たちが考えていた狭義の意味としての「施し」を意味していたのです。つまり、「義」ということばの意味が異なっているのです。そのことばの理解(解釈)によって行いが出てきます。とすれば、神のことばの解釈はきわめて重大だということなります。
  • 当時、「施し」は称賛に値する行為とされていました。しかも当時の律法学者やパリサイ人は、その義を自分の力で実行できると信じていたのです。しかしイェシュアは「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義よりもまさるものでないなら、つまり、預言者たちが語っていたような意味としての義でないならば、あなたがたは天の御国に入ることは決してない」と言われたのです。つまり、もしあなたがたの義が「施し」にすり替えられて解釈されてしまうならば、あなたがたには救いはないということをイェシュアは諭したのです。ですから、「救い」を意味する神の義(「ツェダーカー」צְדָקָה)を損なうことがないようにしなければならないのです。神の義とは、メシアであるイェシュアがなして下さったことを信じる信仰によって得られるというのが聖書の教えです。その神の義がなければ「決して天の御国には入れない」のです。

【新改訳2017】ローマ人への手紙10章2~3節
2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。

  • イェシュアと律法学者、およびパリサイ人との戦いは、神の教えの解釈をめぐっての戦いであったと言えます。ユダヤ人たちは確かに神に対しては「熱心」であったとパウロは認めています。しかし、その熱心は正しい知識に基づくものではなかったと述べています。その結果、神の義を知らず、自分自身の力で義を立てることができると考えてしまったのです。イェシュアがこの世に来られた目的の一つは、神の義(救い)が徹頭徹尾、神によって与えられるものであることを教えるためだったのです。そのことのために、聖書のことばの解釈をめぐっての戦いが生じたのです。
  • 宗教改革で有名なマルティン・ルターが、救いは信仰によるという聖書の主張を、当時のカトリック教会の解釈に対してプロテストしたこと(対抗したこと)によって、プロテスタント教会が始まりました。今年(2017年)はその500周年を迎えます。カトリック教会が教会の財政のために「免罪符」を発行し、それを買うことで罪が赦されるとしました。しかしそれは「地獄の沙汰も金次第」であると教えるに等しいものでした。救いは徹底的に神が御子イェシュアを通してなされたことを信じる信仰によって得られるという解釈をルターが主張した時、カトリックとの戦いが始まったのです。それは、徹頭徹尾、聖書のことばの解釈をめぐる戦いだったのです。
  • しかしそのルターも、ユダヤ人に対する理解は聖書が語っている理解とは異なっていました。それはどういうことかというと、ユダヤ人の救いは彼らがクリスチャンにならなければ救われないとする考え方でした。つまり、ルターの考える「ユダヤ人がイェシュアを信じてクリスチャンになる」ということは、ユダヤ人がユダヤ人であることを捨てなければならないという意味だったのです。これは聖書的でしょうか。それとも非聖書的でしょうか。答えは非聖書的です。ルターの解釈に立てば、日本人がクリスチャンになる場合、日本人であることをやめなければならないということになってしまいます。日本人が日本人のままでイェシュアを信じてクリスチャンになるように、ユダヤ人もユダヤ人のままでイェシュアを信じて良いのです。ただ、ユダヤ人がイェシュアを信じた場合、彼らはクリスチャンとは言わずに、「メシアニック・ジュー」(イェシュアをメシアと信じたユダヤ人という意味)と呼ばれます。
  • いつの時代でも、みことばの解釈をめぐる戦いは終わることがないでしょう。しかしそのことを真摯に受け止め、神を求めることによって、「天からの光」(=神のご計画とみこころ、その御旨と目的)をいただく必要があるのです。主の弟子たちにはその特権が与えられているからです。
  • 当時の律法学者の数は6,000人ほどだと言われています。当時のユダヤ人の中では決して多くない数ですが、その宗教的影響力は絶大であったのです。律法を守ることによって神に受け入れられようとした彼らの努力は筆舌に尽くしがたいものがあったことを忘れてなりません。彼らは、モーセ五書の中から248の肯定的命令と365の否定的な命令の、合わせて613の戒律があると教えていました。ある時、イェシュアを試すために一人の律法の専門家がこう質問しました。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」と。その質問にどう答えるかによってイェシュアの律法解釈が分かります。イェシュアの答えは以下のものでした。

①「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」
②「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

  • イェシュアは何と神の律法を二つの戒めに要約したのです。そしてイェシュアは「律法全体と預言者」(これは旧約聖書全体を指し示す慣用句です)が、神と人とを愛するこの「二つの戒めにかかっているのです」(マタイ22:40)と言われました。

4. 山上の説教で語られている説教は、果たして「御国の福音」なのか

  • ところで、イェシュアは公生涯をスタートして、「ガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されました」(4:23)とあります。「山上の説教」はどのように「御国の福音」を伝えているのでしょうか。「山上の説教」は神の律法を教えているのでしょうか、それとも福音を教えているのでしょうか。答えはいずれも正解です。というのは、イェシュアは「律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」と言って、口伝律法ではなく、律法の真の解釈することによって人間の罪を明示されると同時に、天の御国において神の律法を生きることができるようにしてくださるという希望の福音のメッセージを隠し持っているからです。
画像の説明
  • 天の御国を構成するのは、神ご自身(メシア)と神の民、そして御国の憲章と言われるものです。御国の憲章こそ永遠の神の律法(トーラー)と言われるものです。もし御国の憲章がないとしたら、御国は単なる烏合の衆となってしまいます。神のみおしえに従ってメシアが贖われた民を支配し、統治されるのです。ですから、右図に見るように、律法のない御国は存在しません。
  • イェシュアの語る律法の解釈は聖なるものであり、神と人とがともに歩む御国の大憲章なのです。山上の説教には、この大憲章を生きることができるように、神が私たちを御国の民として新しく造り変えてくださることによって神の本来のご計画を完成するという御国の福音を指し示しているのです。その御国の福音の中に、神の創造、人間の堕罪、エデンの園からの追放、イスラエルの選び、イェシュアの初臨と十字架の死と復活、そして昇天、再臨があるのです。ですから、山上の説教にあるイェシュアの厳しい律法の解釈を知ることを通して、自分が神の理想とは完全に程遠い罪深い存在であることを謙虚に認めると同時に、そのような者が神の律法に生きる者として完全に変えられるという希望があることを知って信じること、これが神の義であり、御国の福音なのです。このことが完全に実現するためには、キリストの再臨とそれに伴う「からだの復活」が不可欠なのです。キリストの復活の出来事の真の意味は、神の永遠のご計画の中で理解される必要があります。使徒パウロはキリストの復活の必然性を以下のように述べています。

【新改訳2017】Ⅰコリント人への手紙15章50~53節、
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。

  • 神の永遠のご計画は、天の御国でともに生きる者たちを集めることです。その者たちはすべて「変えられた者」たちです。どのように変えられるのかと言えば、神の律法にしたがって生きることのできるからだに変えられることなのです。これは、神が御子イェシュアを通してなしてくださったことなのです。私たちはこのことを信じれば良いのです。
  • そしてさらには、「神に感謝すべきです」と語られています。パウロもテサロニケの教会に対して、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることだからです。」(Ⅰテサロニケ5:18)と記しています。当教会でもしばしば「ホドゥー・ラドナイ・キー・トーヴ」という賛美を歌います。それは「主に感謝せよ。まことに主は良い方だから」という意味です。これはある意味において私たちに対する神の請求書のようなものです。イェシュアを信じた人は特にすべてのことについて感謝する義務と資格と能力があるはずです。罪を赦され、神の子どもとしていただいたことが、まず感謝です。「感謝しなさい」「主に感謝せよ」ということは、神の請求書が突きつけられているようなものです。請求書の内容が多い人は、それだけ主の恵みが多いということです。神の請求書が来ない人は、まだ神の恵みにあずかったことを知らない人です。請求されたものは払わなければなりません。請求書とはそういうものだからです。そのことを聖書では、「主に感謝せよ」と表現しているのです。
  • 「感謝すべきです」(Ⅰコリント15:57)というのは、永遠のいのちを与えられて、神の家で神とともに生きることを可能としてくださったことを示す神の請求書に対して、それを支払う生き方をすることなのです。おそらくその請求の額を全額払い切ることは誰にもできないはずです。しかし「請求書」は支払わなければならないものです。それを無視することはできません。「感謝すべきです」とあるのは、神がなしてくださった恵みに対する正しい応答をするようにということです。神の恵みに対する支払いの義務がキリスト者である者たちの生き方を決定づけるのです。これが、「すでに今、しかしいまだ」を生きるキリスト者の生き方なのです。
  • パウロは感謝の支払いを「主のわざ」という言い方をしています。主に対する労苦を担うという形で感謝を表しています。しかも、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」と結んでいます。感謝のわざとして、主にあってなすすべてのことが決してむだになることがない生涯、それが約束されているのです。なんというすばらしい人生でしょうか。この約束こそが、主のわざにさらに励まさせる動機ともなっているのです。
  • すべての主のわざは、主体的、自発的な感謝のわざであるべきなのです。もろ手をもって、主にすべてをささげて、永遠に価値のある主のわざに励みたいものです。それが、御国の約束を与えられた者に対する神の請求を支払うことになるからです。

2017.4.30


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