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エフライムに対する神の選びの愛

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11. エフライムに対する神の選びの愛

【聖書箇所】ホセア書 11章1~12節

ベレーシート

  • ホセア書においては、神である主とエフライムの関係は夫と妻の関係ですが、11章では「父と子」の関係で表わされています。そこには子に対する父の深い愛が訴えられています。しかし、子(エフライム)はますます父の愛から離れて行ったのです。

1. 父の子に対する愛

【新改訳改訂第3版】ホセア書11章1~4節
1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。
2 それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。
3 それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。
4 わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。

父は子を恩寵用語ヘブル語特長
わたしは彼を愛したアーハヴ(אָהַב)選びの愛
アニー(אַנִי)彼らを呼び出したカーラー(קָרָא)
わたしはエフライムを教えたラーガル(רָגַל)ヒフィール態
アノーヒー(אָנֹכִי)彼らを(腕に)抱いたラーカハ(לָקַח)
わたしが彼らを癒やしたラーファー(רָפָא)
わたしは彼らを引き寄せたマーシャフ(מָשַׁךְ)ヒフィール態
わたしは彼らを食べさせたアーハル(אָכַל)ヒフィール態
  • エフライムに対する神の愛の動詞「アーハヴ」(אָהַב)は、「契約の愛」(「ヘセド」חֶסֶד)とは異なる、神の無条件の選びの愛を表わす語彙です(スネイス)。旧約では219回。ホセア書では以下のように17回使われています。
    2:7, 9, 12, 14, 15/3:1, 1, 1, 1/4:18/9:1, 10, 15/10:11/11:1/12:8/14:5
  • 1~4節には、神の御子イェシュア・メシアを預言する三つの事柄があります。

    (1) 神の御子イェシュアは神によってエジプトから呼び出される
    ホセア書11章1節はマタイ2章15節を暗示しています。イェシュアは生まれた後、エジプトに立ち退いています。それは「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われたことが成就するためであったとあるように、イェシュアがイスラエルの歴史を踏み直される方であることを示しています。

    (2) 神は人の綱、すなわち、愛の絆で引かれる
    ホセア書11章4節前半に「 わたしは、人の綱、愛のきずなで彼らを引いた」とあります。ここにある「人の綱(複数形)」とは、メシア・イェシュアは人性、すなわち、イェシュアの「受肉、生涯、十字架、復活、昇天」を含んでいます。このような「人の綱」で神の愛は届くのです。「人の綱」と「愛の絆」とは同義です。神はそのようにしてイスラエルの民(あるいはそれに接ぎ木された私たち)を引かれたのです。

    (3) 神は優しく食べさせる
    イスラエルの民が荒野にいた40年の間、神はイスラエルの民に、忍耐深くマナを優しく食べさせました。これもメシア・イェシュアを暗示しています。マナは天の食物の型であり、「天からのマナ(パン)」を食べる者だけが永遠に生きるからです。


2. 子の父に対する態度

  • 父の愛に対して、子が取った態度や行動は以下の通りです。
    ① 父が呼べば呼ぶほど、遠ざかった
    ② バアルたちにいけにえをささげ、香をたいた
    ③ 父に立ち返ることを拒んだ


3. エフライムに対して胸を熱くする主の愛

  • ホセア書11章8節は、エフライムに対する主のいのちから出た愛が最高度に描かれているように思います。いろいろな訳でこの節を見てみます。同義的パラレリズムが使われています。

【新改訳改訂第3版】ホセア書11章8節
エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。
イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。
どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。
どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。
わたしの心はわたしのうちで沸き返り(「ハーファク」הָפַךְ)、
わたしはあわれみで胸が熱くなっている(「カーマル」כָּמַר)。


【新共同訳】ホセア書11章8節
ああ、エフライムよ/お前を見捨てる(「ナータン」נָתַן)ことができようか。
イスラエルよ/お前を引き渡す(「マーガン」מָגַן)ことができようか。
アドマのようにお前を見捨て(「ナータン」נָתַן)/
ツェボイムのようにする(「スィーム」שִׂים)ことができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。


【口語訳】ホセア書11章8節
エフライムよ、どうして、あなたを捨てることができようか。
イスラエルよ、どうしてあなたを渡すことができようか。
どうしてあなたをアデマのように/することができようか。
どうしてあなたをゼボイムのように/扱うことができようか。
わたしの心は、わたしのうちに変り
わたしのあわれみは、ことごとくもえ起っている


【フランシスコ会訳】ホセア書11章8節
エフライムよ、どうしておまえを見放すことができようか。
イスラエルよ、どうしておまえを渡すことができようか。
どうしておまえをアデマように見放すことができようか。
どうしておまえをゼボイムのようにすることができようか。
わたしの心はためらい
わたしはますますあわれみをもよおす

  • 「アデマ」と「ツェボイム」とは、ソドムとゴモラが滅ぼされたときに一緒に滅ぼされた町です(申命記29:23、エレミヤ記49:18参照)。これらの町が滅ぼされるときには、主の心には何のためらいもありませんでした。しかし今、エフライムは滅びても当然な状態であるにもかかわらず、彼らに対して主はためらいが起こっているのです。主は自ら愛する民を捨てるに忍びなかったからです。
  • 「沸き返る」「激しく動かされる」「うちに変わる」と訳された「ハーファク」(הָפַךְ)は「覆す」「返す」「変える」のニファル態(受動)です。フランシスコ会訳は「ためらう」と訳しています。彼らに対する「あわれみ」(「ナーハム」נָחַםの名詞「ニフーミーム」נִחוּמִים)が内から起こってくるからです。なぜなら彼らを選んだのは主だからです。主の心の内は単純なものではなく、複雑です。私たち人間には理解できない面を持っています。それが「ナーハム」(נָחַם)という語彙の持つ多重性です。一筋縄ではいかない神の心情を表わす語彙なのです。それゆえに、イスラエルを滅ぼすと言っていた神が、突然それを撤回して救いの意志を示されたのです。以下の箇所がそれです。

【新改訳改訂第3版】ホセア書11章9節
わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。

  • 神は一度決められたことを撤回することのできる自由な神です。この神の自由を私たちはなかなか理解することは難しいのですが、それは、神が自ら語っているように「聖なる者である」からなのです。

4. 回復の預言

【新改訳改訂第3版】ホセア書11章10~11節
10 彼らは【主】のあとについて来る。主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。
11 彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。──【主】の御告げ──

  • 11章2節で、主が呼べば呼ぶほど、ますます遠ざかって行ったエフライムに、やがて主が呼びかけると、彼らは「震えながら」(「ハーラド」חָרַד)やって来るというのが10~11節の預言です。10節と11節に二度使われています。この「ハーラド」の初出箇所は創世記27章33節で、騙されてヤコブを祝福した後で長男エサウが帰ってきた時のイサクの驚きの様子を表わす語彙です。こうした感情を表わす語彙はその時の状況で意味が幾分変わって来ます。イサクの場合は「激しく身震いする驚き」ですが、ここホセア書11章10節と11節の場合は新改訳は「震えながら」と訳していますが、フランシスコ会訳では「胸をときめかしながら」と訳しています。この二つの訳を合わせもった感情かもしれません。つまり、「恐れながらも、胸をときめかしながら」のニュアンスです。そのようにして、主がその主権によって彼らをその家に「連れ帰り」(「シューヴ」שׁוּב)、「住まわせる」(「ヤーシャヴ」יָשַׁב)のです。この解釈は二根字の“שׁב”から派生します。詩篇23篇6節の新共同訳を参照のこと。

2015.4.18


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