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エルサレムに対する避けがたい主の日のさばき

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4. エルサレムに対する避けがたい主の日のさばき

【聖書箇所】 3章1節~8節

ベレーシート

  • ゼパニヤがユダにおいて語っている時代は、いまだアッシリヤの支配による覇権が続いている時代ですが、預言者ゼパニヤは主がそのアッシリヤを滅ぼし、荒れ果てた地とすることを完了形で語っています。預言者は常に神のご計画の視点から神のヴィジョンを一つのピクチャー(絵)のように見せられて語っています。したがって、私たちがそれを理解するには同じ視点から見る必要があります。

1. 主の懲らしめを受けるべきエルサレム

  • 3章1~2節にはエルサレムの姿が描かれています。

【新改訳改訂第3版】ゼパニヤ書3章1~2節
1 ああ。反逆と汚れに満ちた暴力の町。
2 呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、【主】に信頼せず、神に近づこうともしない。

  • ここには主に対するエルサレム(ユダ)の現状が四つの動詞によって描かれています。

    ①「呼びかけを聞こうとしない」
    ②「懲らしめを受け入れようともしない」
    ③「信頼しない」
    ④「近づこうともしない」


    ●「懲らしめ」と訳された原語は「ムーサール」(מוּסָר)で、神の「戒め」、あるいは、神のみおしえである「トーラー」(תּוֹרָה)を意味します。したがって「懲らしめを受け入れようともしない」というのは、「神のトーラーというくびきを受け入れようとはしない」という意味です。これでは神の民としてのアイデンティティは確立されません。神と民との関係において、神が与えた「トーラー」なしには神の民は成り立ちません。それゆえ神のトーラーにしたがって生きようとしない民が住むエルサレムも神の町とはならず、「反逆と汚れに満ちた暴力の町」となってしまうのです。

    ●この現状を回復させるために、神は諸国の民をご自身の民に対する矯正的手段の道具として用いられます。これは神の民が神の民として完全な姿に回復される「終わりの日」にまで続きます。歴史において、それは何度も繰り返されますが、最終的には、神のトーラーが神の民の心の中に書き記されて真の神の民となるのです。旧約における預言者が伝えたメッセージはすべてこの目的のためと言えます。それゆえ、ゼパニヤ書3章7節で主はこう言われます。「あなたはただ、わたしを恐れ、懲らしめを受けよ。そうすれば、わたしはこの町を罰したにもかかわらず、その住まいは立ち滅ぼされまい。」と。


2. 「それゆえ、わたしを待て」

【新改訳改訂第3版】ゼパニヤ書 3章8節
それゆえ、わたしを待て。──【主】の御告げ──わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。

  • 8節には、「それゆえ、わたしを待て」というフレーズと「わたしが証人として立つ日を待て」というフレーズがあります。「待て」という命令が二度なされていますが、原文では「ハーハー」(חָכָה)の命令ピエル態の動詞が一つです。ちなみに、名詞形の「待望」は「ハーカー」(חָכָּה)です。
  • 「わたしを待て」は「ハックー・リー」(חַכּוּ־ לִי)の訳です。「ハーハー」(חָכָה)は、「待望用語」のひとつですが、その意味するところは、「一縷の望みとして」主を待つことです。この動詞の主体が神になると、そのイメージはイェシュアが語った「二人の息子を持つ父のたとえ話」に登場する父の姿です。父はいつ帰るともわからずに、毎日、弟息子の帰りを待ち続けています。その弟息子が放蕩の限りを尽くして帰って来た時に、その彼を最初に見つけて走り寄ったのは父の方でした。そしてその息子をなんら咎めることもせずに迎えて喜んだのです。その父の待ち方が「ハーハー」(חָכָה)です。イザヤ書30章18節にある「ハーハー」はまさにこの父のイメージです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書30章18節
それゆえ、【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。【主】は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。


●この聖句には二つの「ハーハー」があります。ひとつは主体が神である場合、もう一つは、主体が人である場合です。

(1) 主体が神である場合
●「【主】はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。」の「待っておられ」が「ハーハー」です。そして神の民が主に立ち返るなら、主は彼らを「あわれもうと立ち上がられる」のです。これも放蕩息子の父のイメージです。「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」という息子に対して、父はなんら責めることなく、彼を受け入れ、最高のもてなしをしています。これが「あわれもうと立ち上がられる」という意味です。

(2) 主体が人である場合
●「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」の「待ち望む」も同じく「ハーハー」で、一縷の望みとして熱心に待つことを意味します。

  • 神の「待て」も、人の「待つ」も究極は神の歴史の終極にかかわります。教会の「キリストの花嫁」という概念は、花婿なる方をひたすら待ち続ける花嫁の在り方です。そこには終末論的待望の概念があります。教会は「キリストのからだ」とか、あるいは「主人としもべ」「神とその民」という比喩で表わされますが、「キリストの花嫁」という概念が希薄です。なぜなら、終末論的信仰が希薄だからと考えます。「わたしを待て」という主のことばは、神の歴史の結末についての正しい理解がないと、「待つ」ということの意味が曖昧となってしまいます。信仰という船の錨をどの地点に降ろすか、それは私たちの信仰の視点を定める上でとても重要なのです。

2015.7.1


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